投稿

7月, 2010の投稿を表示しています

これが米国の実態だ。

 この年の春先、トヨタ車の欠陥による急発進(急加速)と米国で騒ぎになった。米国議会で公聴会まで開かれ、欠陥車で被害にあったとする女性が出て証言までした。しかし、当初から証言に不審な点がいくつかあった。まず、運転中に彼女のレクサスが急加速したのでブレーキを踏み込んだが制御できず、サイドブレーキまで掛けたが減速しなかった。次にミッションレバーをバックに入れたが何ら効き目はなかったという。    しかし、どういうわけか彼女は無事で彼女の乗っていたレクサスは走行距離8000キロ程度で転売され、それを購入した男性は購入後6万キロ走った今も何ら不具合はないという。  その時点で、彼女の勘違いは明らかだった。アクセルからブレーキに踏みかえたなら、車は必ず制御できる。たとえ電子制御に不具合があって加速し続けたとしても、ブレーキを踏み込めばブレーキの方が勝るように車は安全設計されているものだ。さらに前進中にミッションレバーをバックに入れることは不可能だ。入らないような仕組みになっている。それでもバックに入ったとしたら、変速機は破壊されているはずだ。    そうしたことは多少なりとも車の知識がある者なら気づく初歩的なものだ。それが100人からいた合衆国国会議員も取材していた大勢のマスコミ関係者も疑問を呈さないばかりか、トヨタはけしからん、との非難の大合唱になった。  当時、米国の車産業はGMやクライスラーが破産して国から公的資金を数兆円も注ぎ込む壊滅的な状態にあり、トヨタなどの日本車が一人勝ちだった。それがトヨタ欠陥車の原因だったと思われる。いわば米国議会は集団ヒステリー状態にあったのだ。そこへのこのこと米政府官僚が出掛けて「実はアクセルとブレーキの踏み間違いの公算が大」とは証言できなかったのだろう。それで公聴会はトヨタ社長を召喚してとっちめてやろう、ということになった。民主主義と公正・公平を重んじる風土の国家にしてこの体たらくだ。    普天間基地移設先がどうしても辺野古沖でなければならないとするのは結論ありきの為にする議論のように思えて仕方がない。国会に召喚すべきは辺野古沖を主張する米軍関係者と日本で合意形成に動いた官僚たちだ。彼らを呼んで、徹底的にすべての国民に分かるまで問い詰め、説明させて戴きたい。それが国益と国防を担保する日本国内の米軍基地に関する問題なら日本国民の当然の権利

疑惑解明が国会の責務か。

 またしても「政治とカネ」なる括り文句が記載されている。疑惑と称して鳩山氏と小沢氏の「説明責任」なるものを果たせというのだ。それがいかに人権を軽視しているか、このブログで繰り返し警告してきた。公人たる政治家にプライバシーがないとするのには同感だが、人権までもないかのようなマスコミのあり方には反対だ。    それでは反対に質問する。鳩山氏と小沢氏に関する「政治とカネ」なる問題とは何か、疑惑とは何かを論理的に説明していただきたい。ちなみに検察では鳩山氏は「贈与税」の支払いを以って、巨額な「子供手当て」は母親からの生前贈与として処理された。事件にはなっていないし、それがどのように使われたかは鳩山氏の問題であってわれわれの関知するところではない。    小沢氏の件に関しては鳩山氏よりももっと明快だ。修正申告による贈与税の支払いすらない。拘留中のゼネコン社長が「小沢氏に5000万円献金した」とする証言から立件を目論み強制捜査にまで踏み切ったが、証拠とするブツは見つからなかった。  いうまでもなく日本は法治国家である。法と証拠に基づいてのみ刑事訴訟法によって起訴される。市民感覚で「起訴相当」とはもっての他なのだ。それが許されている検審会なるものの存在は法治国家にとって注意すべき類のものだ。少なくとも市民代表とされる検審会のメンバーが公開されないばかりか、審査過程の議事録すら非公開だ。それなら補助員と称する法律専門家がどのようなサジェスチョンを検審会委員に与え、どのように法解釈をしてみせたのか分からない。  しかし、検察は小沢氏を「不起訴」としている。あれほど小沢氏を刑事被告人にしようと執念を燃やし、大マスコミに捜査情報をタレ流した結果「無罪」なのだ。それが「法と証拠」に基づく刑事訴訟法での結論なのだ。だが、法と証拠に基づかない「市民感情」なる超法規で小沢氏を起訴しようと目論んでいる人たちがいるようだ。その恐ろしさを日本国民はそれほど深刻に考えていない。いや、連日の「灰色疑惑」なる大マスコミの報道で国民に小沢氏の歪曲されたイメージが刷り込まれているのだ。検察・警察権力とマスコミが結びついたのは戦前・戦中の暗黒時代を髣髴とさせる。特高警察と治安維持法の支配する社会だ。    小沢氏は検察により捜査されて不起訴になった。その人に向かって「国会で説明しろ」とはいかに理不尽なことか考えた

辺野古沖案は現実的ではない。

 沖縄知事選挙で誰が当選しようと、辺野古沖の公有水面埋め立てに同意しないだろう。たとえ民主党が辺野古沖への移設を公約に掲げる知事候補を担いだにせよ、当選は覚束ない。つまり日本の法律により沖合を埋め立てるには知事の提案による県議会の同意が必要な限り辺野古沖への移設案は現実的でない。    その案に固執する米国の真意は何だろうか。海兵隊は米国予算が減額されて遅れるにせよ、大部分はグアムへ移転することになっている。いや大部分ではなく、すべてだとする話すらある。海兵隊の定数は18000人だが、実数は12000人が沖縄に駐留しているに過ぎない。米軍海兵隊はすべて沖縄からグアムへ移転するが、国家予算が逼迫している米国は日本から支出される思いやり予算をグアムの米軍へ運用しようとしている、とする穿った見方すらある。    つまり辺野古沖に作るのは普天間基地の移設ではなく、新たな空母級が接岸できる港湾とヘリ部隊のための空港ではなく、艦載機の発着訓練のための滑走路が必要なのだという。だから橋下府知事が関空へ移転すれば良い、とアドバルーンを打ち上げても大マスコミや米国は無視したのだ。空母が直ちに極東のしかるべき海域へ展開するには沖縄が適している。瀬戸内海の奥深い太平洋側の関空では速度の遅い空母が即応できないのだ。    本当に移設するのが海兵隊ヘリ部隊なら滑走路が必要でないのは明らかだ。広場さえあれば着陸できるし、そのためのヘリではないのか。ほとんどの実戦では着陸さえしないのではないか。それが執拗にV字型の滑走路でないと半島部分の住宅地上空を通るとか、あたかも飛行機を想定した話ではないだろうか。    現実に普天間基地に飛行機が離着陸しているのは知っている。それが実戦部隊に必要なことなのか、物資補給の貨物機だったら、ヘリに代えれば良い。そして、それでも辺野古沖の埋立基地が必要だとするなら、本当の理由を日本と米国政府は日本国民に説明する義務がある。決して捏造話や「学習すれば学習するほど…」などといった誤魔化しはしないことだ。    まことしやかに北朝鮮が韓国に攻め込んだ際に米軍属と邦人脱出と保護のために米軍海兵隊が必要だとする説明がなされているようだが、3万人とも5万人ともいわれる米軍属と6万人とも8万人ともいわれる邦人の脱出にどれほどの艦艇が必要かシュミレーションがなされているのなら国民

どの政権でも財政再建をする、とは傲慢な。

 財政規律を守ることと財政再建とは似ているようで別物だ。野放図な歳出を放置するのは適切でなく、財政規律は厳しく守らなければならない。この場合の財政規律とは新たな国債増発に頼らないで財政運営すべく鋭意努力することだが、財政再建とはとにかく歳出よりも歳入を多くすることに他ならない。    来年度歳出予算を71兆円のシーリングに10%削減目標としたのは財務省の良くやる手だ。各省庁の政策的支出を勘案するよりも一律削減というのは余りに無策だ。  しかも71兆円とは今年の91兆円から公債費(国債金利)20兆円を控除したものに過ぎず、今年が従来の自民党予算に民主党マニフェスト部分を載せた二階建てにより膨らみ上がった予算だった。それを前提として来年度予算を組むというのは各省庁は何等削減しなくて良いという水脹れから10%国民への説明アリバイ工作として削減するに過ぎない。    しかも71兆円には国債元金償還部分10兆円が含まれている。つまり償還と返済と両建てになっていて、予算総額が膨れ上がっている。つまり、来年度も新たな国債発行が積み上げられることとなり、国家財政が破綻へ向かって突き進んでいる印象を国民に与えるのに申し分ない編成となっているのだ。要するに、来年度償還部分を削減し、両建て部分を削減すれば総額は61兆円となり、新たな歳出予算が10兆円浮くことになる。    財務省は何でも国債が最悪な財政破綻へ向かって膨張し続けていると国民に喧伝したいようだ。確かに、日本の国家も地方も財政は火の車だ。しかし今日明日にも破綻する状況ではない。  国民に財政は危機的だというのなら、首相に特別記者会見させて無意味な財政危機を煽って見せるよりも、まず為すべきは常識的な改革から手をつけるべきだろう。    どの民間企業でも業績が悪化して破産へ向かっていれば冗費を削減し役員や従業員の賞与をカットし、次に不採算部門を閉鎖し従業員を削減するだろう。この国は(地方も含めて)財政危機に見舞われているとマスコミが宣伝を始めてから公務員給与を何%カットしたのだろうか。この夏の賞与を出さなかった省庁があっただろうか。地方自治体では早くも市長が50%給与カットとか、議員定数見直しとかどんどん実施されている。国民に負担増を求めるなら、その前にすべきことがある。    ネジレ国会で菅氏が何をすべきか、そんなことは特別記者

一日も早いカルテの電子化と国家管理を

 病原汚染された輸血によるC型肝炎や血液製剤によるHIVなどの感染が問題となって久しい。かつては問題として認識されていなかったことが感染源として突き止められ、患者救済がまたれている。医師や医療機関も全知全能ではなく、時々の医療水準で全力を尽くした結果として、新たな病理の原因となってしまった。国家による医療情報管理が徹底してなされ、あらゆる事態に即応できる態勢がとられるようにならないものかと思う。    医療情報という個人情報の中でも最高にシリアスな部分に該当するため、カルテの電子化と国家管理が遅々として進まないのも理解できる。しかし、この問題を先送りしていては各医療機関がバラバラに持っている医療情報が一体的に利用することはかなわない。つまりカルテの電子化は個々人の情であると同時に、医療行政全般の情報でもある。国家として国民のカルテが利用できるなら、毎年爆発的に増大する医療費に対して的確な手が打てる可能性がでてくる。    それと同時に今後予想される新型インフルエンザなどの感染症に対して、カルテの電子化が実施されていれば日々刻々に全国の情報が国のしかるべき機関にもたらされることになる。国家として対応すべき強力な感染症対策に対して的確な手を打つ際の情報としてこれに勝るものはないだろう。    ぜひとも全国の医師と医療機関、それと厚労省は縄張り意識を乗り越えてこの問題に取り組んでいただきたい。そして皮相な人権団体も個人情報の国家管理だとして反対するのではなく、運用すべき事項と禁止すべき事項を法律にきちっと限定列挙して官僚だけではなく民間見識者も含めた管理・監視委員会で運用実績を検証する仕組みを作っておかなければならないのは言うまでもない。    最後に、こうした提案には莫大な資金が必要だとするのは間違いで、現代の高度に発達したIT機器を利用すればそれほど大掛かりな装置は必要としないことも書き添えておこう。現在多くの各医療機関では既にWinXPを使った電子カルテを利用しているし、ほとんど全国をスーパーハイウエイが網羅している。あと出来ないとすれば、医療従事者と国民の意識の問題だけだ。

政局より政治。

 今朝のあるマスコミが民主党の衆参両議院総会の騒動に関して「政局はもういい、政治をやって欲しい」と論評していた。何をいまさら、という気がする。政局ごっこに終始してきたのはマスコミではなかったか。政治家は「かわいそうなくらい」政治をさせてもらえなかった。世論調査を多用して国民世論を誘導して政局へ持ち込んできたのはマスコミではなかったか。    しかし、そうした手法に易々と乗せられる政治家も情けない。なぜそういうことになるのか。為にするマスコミ報道を自分の都合で取捨選択して使っているうちに自縛されてしまったからだ。その最たるものが「政治とカネ」だ。  この文言の持つ曖昧さは危険だ。ただ反小沢派にとっては小沢氏排除の呪文のように思えて、唱えていれば小沢氏の力が弱まると勘違いしたのだろう。    マスコミは実体のない国民受けする呪文を何度も繰り返すことによって実態があるかのように国民に刷り込んでしまった。ためしに「政治とカネ」とは改めて何かを問われると、疑惑とされている核心が何かを理路整然と説明できる国民が何割いるだろうか。  実は疑惑なるものの実態は「ない」と知っているマスコミがその文言を繰り返すのはなぜだろうか。実体がないことを説明するまでもないだろうが、鳩山氏に関しては贈与税を支払って莫大な「子ども手当」の一件は決着している。小沢氏に関しても検察段階では「不起訴」との判断が出て決着している。今は市民団体なるものが検審会に検察判断の審査を要求しているに過ぎない。    検証したとおり、この国の「法と証拠」に基づく限りでは疑惑とされる実態は何もない。すべては決着済みにもかかわらず、恰もあるがごとくマスコミや政治家は古証文のように「政治とカネ」なる文言を振りかざしている。  昨日開催された民主党の両院総会は大荒れだったようだ。参議院選挙の総括をする会合だったら、侃々諤々の議論が沸騰するのが正常だろう。静かなシャンシャン総会で終わった方が民主党の党内民主主義はどうなっているのかと疑問に思うべきだ。    さて菅代表は多くの党所属議員から罵倒されたが、それでも代表にしがみつき9月の代表選挙に立候補すると宣言している。奇しくも愚かな評論家が「政局よりも政治を」と民主党に求めたが、9月代表選挙が終わるまで菅氏の厚顔無恥により、菅政権は「死に体」内閣状態で存続することになった。これが

筋が違いはしないだろうか。

 宮崎県の口蹄疫で被害を蒙られた畜産農家の方々へしかるべき復興策を立てるのは宮崎県としても当然の措置だが、国としても今後の同等なケースについての前例ともなるため総合的な判断に基づいた対策を取らなければならないだろう。  ただその場合に柱となるべきは農水省であって、経産省ではない。産業振興は経産省が窓口になるべきだが、この場合は口蹄疫という畜産農家への被害救済が中心となる。間違ってもファンドありきであってはならない。    宮崎県知事は何を勘違いしているのか、経産省へ行って口蹄疫対策を依頼したが農水省へは立ち寄らなかったという。畜産農家のみならず口蹄疫被害者は口蹄疫の蔓延した地域の各産業にも広く及んでいるのは想像に難くない。だから商工会などがプレミアム付きの商品券販売なども地域限定で行って商工業者へも被害救済の一環にしようとするのも頷ける。しかし、それでも農水省を中心として関連省庁の担当者を集めて協議すべきだ。    たとえば台風などで風水害を蒙った地域の振興策を立てるとして、国交省を外すことがあるだろうか。まずは担当所管省庁が中心となって対策を練り、関連省庁へ呼びかけるのが筋だろう。  宮崎県知事は口蹄疫に汚染された地域の種牛の殺却処分を拒否し数頭を生存させようとして農水省と対立した。そうしたことは許されることでもなく、口蹄疫が抑え込めず各地へ蔓延すれば日本の畜産業そのものに壊滅的な打撃を与える。情に流されてはならないことが何か分からないようでは最高指揮官は勤まらない。時に最高指揮官は非情でなくてはならないのだが、人気頼みの知事は県民の情にほだされかけた。    ともあれ、口蹄疫は終息したようだ。あとは地域の復興と畜産農家の一日も早い立ち直りの為に行政は汗を流すべきだ。些細なメンツにこだわっている場合ではなく、筋は筋として農水省へ胸を張って出掛けて県民のために真摯に話し合うべきだ。

国益を損ねる判断は国民の理解を得られない。

 日本はポツダム宣言を受け入れて1945年8月15日に「無条件に」降伏すると連合軍に通告した。ただし「無条件」とは武装解除に関してのものであって、あらゆることを無条件としたのではない。そのことはポツダム宣言の下敷きになったカイロ宣言(多分に乱暴で事実誤認も多い会議だったが)にも戦闘行為で略奪した領土は放棄するが、条約によって取得したものは日本領土とするとある。    つまり竹島や北方領土が日本のものであることもさることながら、平和的に締結された千島列島との交換条約で領土とした南樺太も日本領ということになる。そのことを国際機関で調停するように日本が求めたことが一度でもあっただろうか。メドベージェフ露国大統領と会うために麻生首相がのこのこと南樺太へ出かけたことがあったが、それを以て南樺太が露国領土と日本が認めたと見做されては堪らない。    露国すなわち当時のソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して日本の支配する地域に侵略してきたのであって、ソ連の軍事行動は連合軍とは異なり国際的に非難されるべきものだ。本来ならそうした国が常任理事国となっている国連に加盟するのは忸怩たるものだと国民に説明すべきだ。そして第二次世界大戦の戦勝国による世界支配の機関に過ぎない国連を改組すべきと主張すべきだ。    日本政府が弱腰に徹している限り、国民は贖罪意識をいつまでたっても払拭できないだろう。当時の国際関係からいえば東アジアで欧米諸国と互角に権利を主張していた国は唯一日本だけだった。先人は刻苦精励して誇りある立場を堅持していた。何も非難されるべきことを国際的にしていたわけではなく、日韓併合も国際的に異議なくなされたものだし、清国に対しても日本は欧米列強の強い牽制と監視の下に権益を確保していったのであって、少なくとも今の国際社会で大きな顔をしている欧米列強よりも慎ましやかな行為だった。    それを戦後の日本はいつまで敗戦国として貶められ、賠償を陰に陽に求められなければならないのだろうか。国と国の賠償はすでに終わっている。朝鮮半島とは戦争をしていたわけではなかったから、北朝鮮とは戦争による賠償問題は存在しない。露国とも日本は交戦をすべき状態になく、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して進攻し、あまつさえ60万人もの日本人をシベリアへ抑留し、不当に使役して10万人近い人たちを死へ追いやった。明確なジ

地方で起こっていること。

 特別な一つの例に過ぎないかも知れないが、地方で起こっていることを何件か取り上げよう。まずここ数年何校かの高校が統廃校されている。農業高校と工業高校が統合されて農工高校と妙なものとなったり、商業高校と工業高校が統合されて商工高校となったりしている。さらには過疎地の普通高校が廃校の憂き目にあうのではないかとして、早くも反対運動が起こっている。    高校だけではない。地域を跨いだ小学校の統合や廃校が県内各地で毎年のように行われている。かつて小学校区は一つの生活圏として自己完結型の地域社会を形成していたが、地方では田舎ほど過疎化が進み、ついには地域社会が崩壊している地域が目につく。限界集落という定義もあるが、そんな生易しい状況ではない。いつまでたっても団塊世代が地域の若手といわれているのも珍しいことではない。    当初には減反政策は耕作しなくてもお金がもらえると歓迎する風潮があったのも確かだが、今では地域社会を破壊した根本原因だと農家の人たちは思っている。先祖が営々と山を切り開き石くれを積み上げて開墾した棚田は逸早く山に還り、大木が生い茂ってしまった。そこからサルやイノシシが山麓の集落に下りてきて、わずかに耕作している家の周りの畑を食い荒らしている。    地方都市といわれる町でも地価下落は止まらず、住む人がいなくなった家が街中でも見られるようになった。駅前の商店街から人影が消えて久しく、開かずのシャッターすら錆びて崩れ落ちそうだ。その影響か二つの市営病院を存続させるべきか統廃合して一つだけに集中すべきか、喧々囂々たる議論のさなかの市もある。    地方でも町村部といわれている中山間地域の衰退を決定づけたのは全国で吹き荒れた平成の大合併だ。地方の人口1万人から2万人ほどの町の最大事業所は町役場だった。正職員が140人から200人程度いて年間一般会計だけでも50億円から80億円程度の事業規模があった。それが合併によって市となり町役場が「総合支所」となって職員数は20人から40人程度に激減した。しかも予算は中心市に集められ、地方の文房具店などの町役場の出入り業者だった店は経営が成り立たなくなった。町の銀行も「支店」から「出張所」へ格下げされてしまった。    出生率1.34は全国的にみても人口減が明らかで深刻な問題だが、地方の人口ピラミッドを検証すればわずか10年後でも悲

領土問題は国家の最大案件だ。

 中国はほとんど中間線上の東シナ海にガス田を建設し、日本の領土へ広がる地下資源を吸い上げているにも拘らず、それを止められないのは何とも情けない。それではと、共同開発に譲歩しようとしても言を左右して決着しようとしないうちにドンドン掘削してしまう。何とも厚かましい国だ。    防衛白書の先送りも「竹島」を日本領としている記載があるため韓国への配慮からだとしたら、そんな上っ面な友好関係は将来へ問題を先送りしているに過ぎない。領土問題は国の根幹にかかわる重大案件だ。それを放置したままでモノを言えない政府は国益を何と考えているのだろうか。    さらに北方領土の問題がある。世界の常識からいえば沈黙は容認と同じことだ。僅かな譲歩姿勢でも見せれば譲歩した地点は当然のこととして、相手はさらに譲歩を求めてくるのも世界の常識だ。そうしないためには国際社会に対して日本は絶えず隣国の非を鳴らし、隣国の無法行為を告発し続けなければならないだろう。憲法の定めで武力による境界紛争の解決手段を放棄したのだから、日本が対抗しうる手段はそれしかない。    たとえば中国による資源開発の問題は国際的に広く領海と定められている中間線に限りなく近く、当然日本の防衛にも関係のあることから米国に調停を要請して三者協議へ持ち込むことだ。もしも米国が調停を嫌がって逃げるようなら、本気で日本の国益を擁護しようとする気がないことが明らかになるだけだ。ある意味で米国も中国や韓国や露国と同じように日本の国益と深く関わっているといえる。米国が頼りになる国かどうか見極める絶好の機会だろう。    かつて欧米諸国は揃って清国を侵略し、互いに同じ立場から同盟のような関係を築いていた。そこへ遅れて日本が入ろうとして様々な軋轢を起こしたわけだが、今は中国や韓国や露国や米国が日本の国益を奪う同盟関係を築いているように見える。    戦後独立国家として国際関係に復帰して半世紀以上もたつのに、日本は未だに敗戦国として振る舞っている。その最たるものは自民党でも民主党でもない。そうした政治家に問題があることもさることながら、凛として国益を擁護する最前線は官僚たちだ。とりわけ外務官僚たちだ。  先日離任の講演をしていた駐韓大使にモノを投げられた事件があった。それに対して直ちに外務省は抗議しただろうか。日本政府が抗議すれば国際関係になるが、外務省な

痛ましい二重事故だ。

 埼玉県秩父市大滝の山中で25日発生した同県防災ヘリコプターの墜落事故により五名もの隊員が亡くなった。痛ましい事故で原因究明が待たれるが、そのさらに原因となった沢登りの滑落事故について少しばかり言及したい。    近年中高年による登山がブームだという。この春先にも登山ツアーで北海道の山で遭難して数名もの命が失われたのも中高齢の男女だった。今回の救助要請は55歳の女性が沢登りの途中、滝壺へ転落したことによる。不幸にも女性の死亡が確認されたが、下山したパーティの男性隊員がヘリコプターの墜落の模様を語っているニュースを視聴して不快な気分になった。    詳しくは知らないが、彼らが登山するのはプロとしてではなく登山同好会のような団体で自然と親しむためのものだろう。従って厳しい専門的な訓練を積んだ人たちの集まりではなく、日常生活の延長線上で登山を楽しむ人たちの沢登りだったはずだ。そうした人たちの構成によるパーティで年齢を考えれば当然のこと体力や筋力は落ちて行程は若者のようにはいかないはずだ。ゆっくりと勾配のある山道を歩くのなら問題ないだろうが、沢登りはあらゆる危険の潜む高度に専門的なテクニックと判断が必要となる。そうした場へ素人集団を導くのは慎重を期さなければならないのはいうまでもないことだ。    55歳の女性がどの程度の訓練を積んで、体力的にどのような状態だったのか分からないが、普通の55歳女性なら滝壺へ転落する危険性のあるような沢登りをさせてはいけない。若い女性と比べても足腰は弱って踏ん張りは利かず、ロープや鎖を頼りに岩場の沢を登っていて足を滑らせると握力と腕力だけで自分の体を支えるのは不可能だ。  自然を楽しむはずの登山で命を落とすことほど愚かなことはない。パーティのリーダーはしっかりと責任を持ってもらいたい。隊員の一人でも怪我をした段階でリーダー失格と心得なければならないだろう。ましてや女性隊員が亡くなっただけでなく、救助に向かった救助隊員が五人も亡くなられた。    中高年登山は隊員を楽しませてやろうなどと背伸びした行程などは考えずに、慎重の上にも慎重を期して安全第一に自然を楽しむことだ。平凡な登山になるかもしれないが、登山そのものが非日常の楽しいことなのだと心して、テンコ盛りの日程など考えないことだ。どうしても難所にチャレンジしたいのなら、しかるべき訓練を積んだ

極めてジコチューな面々。

 かつて自民党がネジレ国会で「かわいそうなくらい」苦労していた時、当時の小沢民主党代表が自民党との大連立を試みたことがあった。それに対して反対の大合唱をした筆頭格が現在の民主党政権の閣僚たちと党幹部だ。  その面々が今度は攻守所を代えて自分たちがネジレの政権運営をする立場になると選挙中から野党新党に秋波を送ってみたり、今になって自民党との大連立に言及したりする。なんとも自分勝手な連中だと思わざるを得ない。    当時の小沢民主党代表が福田自民党政権と大連立をしようとした折、民主党内の大反対にあって潰えたが、時の野党第一党の代表として小沢氏の選択は国家の為に必要な選択だった。しかし、仙谷氏や枝野氏や前原氏などの大反対により彼らが自民党政権への協力により政権とはいかなるものか学習する機会を失った。そして衆議院総選挙の勝利により政権に就いていきなり国と国民のために国家を運営する立場となり、この体たらくだ。    そしていよいよ参議院選挙で大敗し大連立にまで言及するとは、当時の福田首相が「かわいそうなくらい苦労しているのですよ」と党首討論で理解を求めたのと同じ立場に立ったということだ。禍福はあざなう縄のごとし。暫くは彼らも「かわいそうなくらい」苦労することだ。  本来なら今回の臨時国会は参議院の構成を決めるだけのものだが、予算審議にまで入るようだから半数割れした政権運営がいかに厳しいものか、長い野党暮らしで相手を批判し責任を伴わない空理空論を並べていれば良かった時代とは違う政権の重みを実感すると良い。    少しでも人間としての矜持や誇りがあれば、じたばたして「早く連立を組もう」と慌てないことだ。じっくりと野党の理解を得られるよう政策を練り、国民の為に最良と思われる予算編成へ向けて粛々と党内議論を前進させることだ。政権政党として落ち着いた責任ある行動をとることだ。そして野党各党が民主党の提案した案件を参議院でことごとく否定する気でいるのなら、ことごとく否決されれば良い。切歯扼腕、いかに腹が立とうと、それに耐えるのも政権政党の宿命だ。それが政権運営の重みと心得て、誠意をこめて野党へ政策を説明することだ。そして、それでも否決されて機能不全の国会の実態を国民の目の前に晒すことだ。そうしなければ国民は実感としてネジレ国会がいかなるものか分からないままに、民主党無能論を展開するマスコ

傲慢でも悪相でもなく、

 民主党のしかるべき責任者は揃いに揃って政権を運営した経験が皆無だ。まずは政権に入って雑巾がけから始まり副大臣(政務次官)へと累進して政権の中枢にある者の心構えや対処の仕方を学ぶことがあればこんなことにはならなかっただろう。なにしろいきなり政権の中枢に就いたため、どのようにハンドリングすれば良いのか分からず戸惑いの連続なのだろう。しかも自民党的なものを排除する試みから政調を廃止し税調を廃止し、代わりに国家戦略だとかいう部署を作ったが上手く機能せず縮小してしまった。    ただ「政治資金規正法違反で疑われている小沢某、母親からの贈与を隠して脱税した疑惑が指摘されている鳩山某」と書かれているが、小沢氏は検察判断では「不起訴」と出ているし、鳩山氏に到っては「贈与税の支払い」を以って一件は完結している。いつまでも不確かな表現を繰り返して、さも疑惑があるがごとく喧伝するのは学者らしくないだろう。    枝野氏たちが悪相か否かは判断の分かれるところだが、人を容貌で仕分けるのはまともではない。悪相をした善人もいるし、善人面した悪党もいる。小沢氏が小泉JRのように爽やかな御面体ならもっと支持が集まるだろうに、と思うが美容整形でもしない限り親からもらった御面体で生涯を過ごすしかない。    民主党の決定的な欠陥は党内民主主義と民主的手続きが確立されていないように見えるところだ。有権者が民社党政権に抱く不安感はどのような機関が党内の「民意」を汲み上げて、党内議論を尽くして民主党案として取り纏めしているのかが不明な点にある。組織作りもさることながら、民主党は党所属議員を派閥に分けてある一派を排除しているように見えるのはいかがなものだろうか。そうした姑息なことをしている暇があれば、政策ごとに広く党内から意見を聴取し、党と政府で成案を得て野党協議の場へ出すべきだろう。    なんでもかんでもすべて丸呑みするから言ってくれ、では政権を下りたほうが良い。ガバナンス(統治)を発揮しない者にガバナンス(政府)は必要ない。菅氏も枝野氏も仙石氏も玄葉氏も、無策なら一日も早く代表選挙を前倒しして実施することだ。  10%減のシーリングを嵌めると言ってみたり、いや別枠で2兆円の特別枠を設けるだの、いや1兆円超だとすぐに訂正してみたりだとか、とにかく腰が定まらずよろよろの千鳥足だ。そのような状態で財務官僚を相

敗因の分析は前進のために必要だが。

 首相と民主党幹部は敗因の分析に外部有識者を官邸に招いて意見を承ったようだ。反省と敗因分析は大切なことだ。これからどのように何を立て直すべきか、敗因が分からなければ的確な対応ができないことになる。    しかし、三年後と予想される選挙に今の幹部が何人政権内部に残っているだろうか。菅首相からして新聞紙面上では不支持が支持を上回った。これから再上昇を目指すのはかなり困難なことだと思われる。    それにしても、選挙が終わって有識者から教えを仰がなければ敗因が得心できないのも困ったものだ。選挙を戦っている段階から大よその勝敗予測が分かっていたはずではなかったか。    むしろこの時期にすべきは財政の両極端、積極財政派の学者と緊縮財政派の学者の両方を別々に官邸に招聘して教示を承るのが必要なのではないだろうか。そして、各方面の現場で実践活動をしている人たちから意見聴取するのも予算の個所付けまでを想定して必要なことではないだろうか。そして何よりも、そうした動きが翌朝の新聞に報じられないことが肝要で、後に「そうだったのか」と漏れ伝わることが大事なのだ。    だが敗戦ショックが未だに尾を引いているのかと、かえって驚かされた。それなら選挙で勝ち続けてきた小沢氏から秘かに指南を受けていれば良かった。幹事長にパフォーマンスだけの人を就けるよりも、小沢氏とも連絡が取れて党内全般に目配りのできる人を配置すべきだった。選挙は持てる力の総力で戦うべきにも拘らず、非小沢勢力だけで戦ったのだからあの程度の結果でも仕方なかったと納得しなければならない。しかし、納得することと敗戦の責任とは別物だ。    かつて小泉郵政選挙で大敗し代表の座を去った岡田氏に「全国の落選候補者の許を廻ってお詫び行脚すべきだ」とメールを送ったことがある。それを参考にされたのか判然としないが、少なくとも岡田氏は時間の許す限り全国の落選候補者の許を訪れて詫びて廻られたようだ。それも誠意の示し方の一つだろうし、こうして書かれることにより人々に知られ岡田氏の一面として語られることになる。  為にするパフォーマンスは効果的かもしれないが、安物の膏薬と同じですぐに効果はなくなる。それよりも人の中に刷り込まれた「人格」的な印象の方が遥かに強く長く残る。若い枝野氏は率先して責任を取って辞任すべきだった。これからの政治家人生を考えると、いつか

最初からこうなると分かっていたことだ。

 菅政権が非小沢勢力に担がれた時からこうした結果は予想されていたことだ。時の人気者を起用して支持率を上げようとする姑息な手段は効きが持続しない膏薬をべたべたと貼ったようなものだ。あっという間に支持率は急落し、それに慌てた閣僚や幹事長が一刻も早く選挙へ持ち込もうと強引に国会を閉じてしまった。それで襤褸を出さずに選挙へ雪崩れ込むつもりだったが、政権経験に乏しい首相はいわずもがなの消費税に言及し、慌て者の幹事長は選挙途中にも拘らず与党の選挙敗退を予測して「みんなの党」との連立に言及したりして顰蹙を買った。    安定した政権があればこそ与党議員は何かと官邸を訪れて首相に面会を求めるが、風前の灯となった首相に誰が相談を持ちかけるだろうか。参議院選挙以後、菅首相は何をしているのか、早くも夏休みに入ったかのようだ。  それに対して小沢氏は野党議員と会ったり仲間の鈴木議員と会ったりしたようだ。先日は八丈島へ魚釣りへ行く素振りを見せてマスコミを煙に巻いたりした。    モノには言いようがある。非小沢勢力に担がれたにせよ、菅氏は小沢氏の立場を慮って「仲間」としての言葉をかけるべきだった。「しばらく静かにしておれ、」とは、いかにも非礼だ。  第一検審会の決議が出るまで、小沢氏は擁立した候補者の応援に動いていたが、「不起訴不当」の判断が示されると姿を消した。彼のことだから問題の第五検審会の二回目の決議がどのようになるか、大よその動向を探っていたのだろう。そしてここに到って小沢氏が動き出し、第五検審会の決議が九月末まで引き延ばされた。それが何を意味するか、考えなければならない。    小林静雄氏は第五検審会の決議が出るまで、小沢氏は「動くに動けない」状態だと解説した。しかし、そうだろうか。  検察と密接な関係にある裁判所が公正無私に判断するなら前回決議を作成した検審会委員の半数が残っている間に決議を出すようにするのが順当な考え方だろう。それが残りの半数が任期を終えて辞めるまで引き延ばしたのは「起訴相当」と決議文を書いた委員がいてはまずい事態になると思ったからに他ならないだろう。                                       つまり第五検審会が一回目の決議を出すために審議した折、裁判所は一回目からつける必要のない補助員(元検事だった弁護士)をつけて「起訴相当」の

電気自動車は未来の乗物か。

 ホンダの家庭電気で充電できる電気自動車を開発すると宣言した。米国ではテスラーというベンチャーが時速200㎞で一回の充電による走行距離は320㎞に及ぶという車を開発したとテレビで報じていた。それで近未来はガソリン車が電気自動車に取って代われるというのだ。    テレビのコメンテーターたちは電気はクリーンだとかCO2を排出しないだとか、お定まりのコメントを並べ立てていた。しかし、本当に電気自動車は近未来の車になるのだろうか。  まず疑わしいのが電気はクリーンな産物かどうかということか、ということだ。日本の場合、自然エネルギーによる発電は全体の1%にも満たない。大部分は火力と原子力で賄われている。それで現在の発電余力は最大需要時には適正余力とされる10%を下回って、大都会を抱える電力会社では数%と危機的な状況を何度か乗り越えてきた。さて、今年はどうだろうか。電力会社にとって厄介なクーラーの効いた部屋で高校野球をテレビで視聴する時期がやってきた。    いうまでもなく火力発電は化石燃料を燃焼して作っている。原子力は核融合反応による熱を取り出して発電している。火力発電がCO2を排出するのはいうまでもないが、原子力発電もウラン濃縮過程で莫大なエネルギーを必要とするし、使用後の放射性廃棄物の廃棄管理が厄介だ。そしてそもそも自動車で消費しているエネルギーをすべて家庭電源で賄っていけるのか、という疑問が湧く。夜間電力を使えばいいではないかといっても、自動車を使わないときに充電するしかないのだから、夜間だけ充電すれば良いということにもならない。    次に電池の問題がある。テスラーの電気自動車は日本のPCに使われているリチウムイオン電池を使っているという。PCの電源程度でも5Vのリチウムイオン電池を4ないし8ユニットを利用している。電気自動車では気が遠くなるほどのユニット数を束ねて電源としているのだ。  PC利用者なら誰もが電池の劣化に悩まされた経験を持っているだろう。リチウムイオンは比較的劣化しにくいといわれているし、教育効果(電気を消費しきらないで充電した場合、その充電をし始めた時点での電位をゼロだったと学習して放出電気量が少なくなること)も比較的少ないといわれている。しかし、それでも充電と放電の繰り返しによる劣化は避けがたく、電池の積み替えが必要になってくる。リチウムそのものは

仮想現実と現実の相違。

 爆発的なネットの普及により、ネットといかに付き合うべきかを社会が対応する暇もないうちに暮らしの隅々にまで入り込んでしまったようだ。ネットは別名「電脳社会」とも呼ばれ、バーチャルリアリティーを翻訳すれば「仮想現実」だ。    「仮想現実」は仮想であって現実ではない。いかに3Dが進歩して現実と見紛うほどの迫力を得られたとしても、電子の世界の中で演じられている「仮想」に過ぎない。    ただ厄介なのは様々なサイトが存在してPCやモバイルなどを介して端末と端末を繋いでそこに「いる」人と人を繋ぐ手段でもあることだ。この場合にもそれなりの仕来りと礼儀がなければならないはずだが、いきなり自分の部屋から相手の部屋などへ入れることから近しい関係と勘違いしてしまうことだ。    ネットがこれほど発達していなかった頃に人が人を知るには書物や人の噂を介してか、あるいは直接に出会って話をするしかなかった。つまりある程度の自我と他者との距離感があったし、直に出会うためには電話なり訪ねて行って理解しあう時間と空間が必要だった。    ネットが直接繋がる電脳空間の利便性は誰にも否定できないし、だからこそこれほど急激に広まったのだろう。しかし人と人が付き合うにはそれなりの手続きと礼儀が必要なのはいうまでもない。懸念されるのは剝き出しの「自己」がネットの中に多く見られることだ。一人の人間として自分の意見をネット上に提示するのは多くの人々に中にはこうしたものの見方もある、との多様性の確保から大切なことだ。多様性の確保はある意味、社会の安全弁の確保でもある。一つの意見で暴走するのでなく、一つの意見への服従を強いて他の意見を抹殺して社会を一つの意見に染め上げる「単層」社会にしないために必要だ。    国の指導者が一つの意見に国民を誘導した時その国は碌なことにならない、ということは歴史が証明している。多様性の確保から様々な意見がネットで語られることは否定されるべき類のものではない。しかし、この場合も他者へのいたわりは必要だ。意見が異なるからといって感情的な「罵詈雑言」を浴びせるのは感心しないばかりか、罵詈雑言を浴びせる人の人間性を疑ってしまう。    村崎百郎氏が殺害される、という痛ましい事件が起こった。人は実に儚い存在だ。たったの十数分、酸素が途切れれば命を失ってしまう。様々な叡智を創出する頭脳もほんの数

若者の「ひきこもり」が全国で70万人

  今朝の読売新聞で若者の「ひきこもり」の人数が報じられている。予備軍とはいわず将来ひきこもりになる可能性のある「ひきこもり親和群」も155万人ていどいるといわれ、今後年数がたつほどに大きな社会問題化すると危惧されている。    ひきこもったまま歳月がたち、親が齢を取るとともに子も子供とはいえない年齢に達し、社会適応できないままに壮年となる。現在は30台が24%と一番多く次に20台がほぼ同じパーセントとなっている。ひきこもりとなった原因の一番は30%を占める職場の不適応で、次いで病気によるものとなっていて、不登校は11%と意外と思われるほど少ない。    しかし70万人もの「ひきこもり」がいる現実は無視できない。やがて大きな社会問題となるのは必至で時間の問題だ。親の年金を頼りに暮らしているうちに生活の糧を持たないまま親が亡くなるとたちまち暮らしに行き詰まる。そうした事態が顕在化してからでは遅い、国としても何らかの手立てを考えなければならないだろう。    「お節介」は時として人権無視ともプライベートの侵害とも批判されかねないが、町々からお節介焼きといわれる人がいなくなって久しい。個々人が重んじられ個々の家庭に立ち入らないのが望ましいとされてきたが、そうした考えを改めなければならないのかもしれない。一つの事例がこの「ひきこもり」であり、あと一つが深刻化している「家庭内の虐待」だ。老老介護の果ての痛ましい配偶者による殺人事件も頻発している。    福祉に関しては「お節介」の仕組み作りがなされているが、それがうまく機能しているかが問題だ。従来からの民生委員に数年前に設置された福祉委員と、地域にライフ・ネットを張り巡らしている。それなりに地域を巡回し老人世帯に声を掛けたりして孤立化させないように気配りしている。郵便事業も配達の折に「声掛け」をするようにしたようだ。しかし「ひきこもり」に関して具体的な対策がなされたとは寡聞にして知らない。    すべての国民が社会に自己実現して幸福を希求する権利を持つが、それを放棄した若者をどうするのか、社会学者も心理学者も総力を併せて解決策を提示すべきだろう。150万人ものひきこもりを個人的な問題として放置したなら、やがてそれらは社会的なコストとして行政が福祉費目で対処するしかならなくなり、代償を国民が支払うことになる。つまり、ついには個人

大敗の責任は

 会わないとする小沢氏の真意は分からないが、菅首相と枝野幹事長体制で臨んだ参議院選挙で大敗した責任を誰が取ったのか。しかも選挙で落選した法務大臣をそのまま大臣として任務を果たしてもらうとするなど、選挙結果について不透明なまま政権運営をするなど、菅氏の考え方が良く分からない。    選挙が国民の意思表明だとすれば、菅氏が示した「消費税増税」は否定されたわけだ。世論調査でマスコミは国民の半数は是認方向だとするが、世論調査は政権運営の指針になっても決定になるわけではない。    今回の参議院選挙ほどマスコミによる政局づくりとマスコミによる選挙介入とも思えるほどの有権者への影響力を発揮したことはない。これからの政治はマスコミを配慮しつついかなる扱われ方をするのか政策の提示方法に関しても意を払わなければならなくなるだろう。    毎週のように繰り返される電話聞き取りによる世論調査と、意味不明なスローガンによるキャンペーンと、国民世論を形成する手法を駆使しテレビで上塗りしていく。そのようにして作り上げられていく政局に振り回されて政権の意思が揺らぎ政策がブレまくった一年だった。    誰もが何でも好き勝手に言うのが自由な意思表明だというのならネットの書き込みと何ら変わらない。それを商売として毎日安定的に用意されたメディアに意見を無署名で書き連ねるのは少なくともハンドルネームを必要とするネットよりもさらに無責任だ。大マスコミが政治的な立ち位置を隠したまま、公平無私であるかのような顔をして普天間基地移設問題では連日どのような報道をしたか、つい半年前の新聞を確かめてみれば良い。    ここに来て興味深い方向をマスコミは打ち出している。菅政権に対して選挙敗北後は「甘い対処」方針に転じたようなのだ。お得意の世論調査結果として菅政権の支持率は引き続き低落方向だとしているが、菅政権は続けるべきだとする世論が過半数以上もあるという。これほど矛盾した世論調査も、マスコミにとっては矛盾したものではないようだ。    こうした統計上の矛盾がなぜ出るのか、統計学者の意見を聴取してみれば良い。結論は明らかだ。サンプル調査をする者の質問に結果誘導の意図がある場合、ある程度のサンプルが誘導によって矛盾した回答がなされた結果だと結論付けるだろう。つまり対面して質問用紙を手渡してその場で記載してもらったなら、サン

概算要求段階ですら、

 民主党の混乱は何処まで続くのかと、いささかうんざりとする。概算要求の指針ですら二転三転して、結局概算要求の指針は閣議決定へのずれ込みから、今月30日になるという。    しかし、どういうことなのだろうか。各省庁の予算総額に枠を嵌めなければ際限なく予算規模が膨らむというのはどういう理由からだろうか。一旦予算付けした事業はその必然性が薄くなってもなかなか廃止できないということなのだろう。    本来なら大臣が民主党の公約実現にこの予算は新たに必要となるが、この部分については役目を果たしたと考えられるから予算を削減しても良い、という意見が官房にもたらされてしかるべきだろう。    これまでと同じようなシーリング方式を採るのなら政治家主導というべきでなく、政策なき財務省主導というべきだろう。それならいっそのことみんなの党案を丸呑みして、渡辺氏を行政改革担当大臣に迎え入れて任せればよい。それで果たしてできることか否か、結論は半年もしないうちに出るだろう。    みんなの党では国家公務員は10万人削減するという。現在の国家公務員数が約32万人だから、三人に一人の割でクビにするのだ。残った公務員も給与を30%削減するというから、実現できれば現在の公務員給与の総額から50%近く削減できるわけだ。それだけで約2兆円もの削減ということになる。    みんなの党案を丸呑みして予算削減効果が実現できなければみんなの党案が非現実的だったということになる。実現できればみんなの党案を丸呑みした民主党の手柄ということになる。いずれにしても民主党に損はない。    さて、どうするつもりだろうか。

「市民感覚」と称するもの

 検審会の「不起訴不当」の決議を受けて、検察が小沢氏から4回目の聴取をするという。政治資金規正法違反で「陸山会」会計担当者で元私設秘書の石川議員が行った会計報告を知らなかったのは不自然とするもののようだ。それが市民感覚かもしれないが、これまでの取り調べで「知っていた」とする証拠は何もなかった。    小沢氏の政治資金団体の会計を会長たる小沢氏が隅々まで承知していないのは「おかしい」とするのは市民感覚かもしれない。そして有価証券取引法に関する会計報告で虚偽の記載、たとえば粉飾決算などしていれば担当者は勿論のこと社長まで罪に問われることを指して小沢氏も当然罪に問われるとするのなら、それは法律を知らないものの言だ。    有価証券報告書では会計原則に基づく会計処理と監査法人による監査が義務付けられ、社長の自署押印が求められている。しかし政治資金規正法では収支報告書に監査員の監査が義務付けられていないばかりか、政治家本人の自署捺印も求められていない。もちろん会計責任者が法に従って処理記載されるとしているが、個別限定列挙されている会計処理はとても会計原則に依るものでない。たとえば会計処理は発生主義が厳しく定められているとはいえず、現金主義による極めて曖昧な処理基準といわざるを得ない。    たとえば現金主義のため最終的に処理されていない借受金や、仮勘定は記載する必要がないとされている。そうした収支報告書に金額の多寡にかかわらず不動産購入の記載時期がずれていても大した問題ではない。つまり現金主義によるということは確定主義によることでもあるから不動産の購入がいつの時点で確定するのかは法解釈でも様々な異論のあるところだからだ。そもそも一切の記載がなかったのなら問題だが、二ヶ月程度の時期のズレで記載が年度を跨いだことに、これほどの大騒ぎを想定するような会計基準ではない。そして政治団体が不動産を購入することは禁じられていない。小沢氏個人の名で登記されているのを以て小沢氏が承知している証拠としているのかもしれないが、政治資金団体は登記対象とされていないためそうした処理をしたと考えるのが順当だ。登記法で法人か個人が登記すべきとされているため小沢氏個人の名で登記されているのだろうが、小沢氏の名で登記するには小沢氏の三文判と住民票があれば登記できる。したがって秘書が不動産購入に際して事務所での

しっかりせよ、民主党。

 政権獲得当初の政治主導の体制から大幅に後退し、10%一律削減のシーリングをかけたと思ったら突き上げを食らったのか、医療と福祉は別枠だと訂正した。このフラフラ体制の無責任さは何とかならないのだろうか。司令塔なき集団指導体制なのか、それとも指導者がフラフラなのか、いずれにせよ国民は民主党の危うさに心許ない思いを抱いている。    マニフェストは四年間の任期で実現する政権公約だ。ボウフラ政党がシングルイッシューでアジェンダとか言って、マニフェストは嘘のイメージが強いと批判している。しかし政権を握っているのは民主党であって他の野党ではない。参議院選挙で敗北して過半数を大きく割り込んだから野党の協力を仰がなければ立ち往生に陥るとマスコミは喝采を上げている。    民主党はブレずに堂々とマニフェストの実現へ向かって邁進すべきだ。マスコミがどのように批判しようと子供手当は実施し、農家への戸別補償は遂行すべきだ。高速道路の無料化も実施し、普天間基地の海外移設をもう一度蒸し返すべきだ。  当然参議院では野党の反対にあって実現は不可能だが、とにかく国民と約束した政策を議案・法案として審議すべきだ。そうすれば最低でもマニフェスト実現への意思を国民に提示したことになる。    国家戦略を縮小したのも「局」への法案提出しても参議院で否決されるから予算措置が出来ないために引っ込めたというのだが、結果の予測から先回りして縮小するのは良くない。堂々と提出して否決されればよいのであって、それこそが民主党のマニフェストのアリバイとなる。国民との約束を政治状況の変化から後退させて、自ら引っ込めてどうするというのだろうか。    一律廃止を謳っていた各省庁の外郭団体は一律廃止すべきだ。その法案提出を速やかに行い、参議院で反対されて廃案になることだ。そうすればどの政党が「改革」に本気か国民の目にはっきりと分かることになる。何もしないで自ら引っ込めるのは自殺行為でしかなく、民主党は不実な政党だと国民に思われても仕方ないだろう。  そして子供手当ではお手本とした仏国の実情を堂々と説明して、出生率の向上こそが最大の経済成長の根源であり、国力増強の基本であると主張すべきだ。現在の出生率1.34では百年後の日本の人口は今の半分になる。そのような将来が目の前にあって「経済成長」だとか「復活」だとか謳うのがいかに絵空事

新幹線事故のお粗末さ

 JR西日本では今日未明に神戸付近のトンネル内で保守車両が他の保守車両に追突して脱輪し、午前中いっぱいは運休するという。在来線だがJR西日本は脱線事故を起こして大勢の犠牲者を出したにもかかわらず今回の事故だ。会社として何を改善し、何を改善して来なかったのか明らかにすべきだろう。    砂塵が舞っていて見通しが利かず追突したという。トンネン内で複数の保守車両が作業するのなら当然近距離用トランシーバーで連絡を取り合うのが常識ではないだろうか。新幹線を事故なくスムーズに運行するための保守作業で事故を起こし、運行を不可能にしてどうするのだろう。    今のところ事故の背景を浮き彫りにする情報は出ていないが、もしも合理化と称する下請け作業員による事故だったら問題の根は深いと言わざるを得ない。安全管理と事故防止の講習に関してもどの程度実施しているのか、保守点検にどれぐらいの人員と費用を割いているのか、JR西日本の経営姿勢も問われなければならないだろう。事故調査委員会の結果報告を待ちたい。

これほど動静を気にするのなら、

 小沢氏の居所が分かったと各紙が書き立てているが、それほど問題なのだろうか。それとも小沢氏が党か内閣政府の要職にあって動静が分からなかいから問題だったのか。そうではないだろう。無役の一民主党国会議員にマスコミがこれほど注目するほど彼に存在感があるということなのだろう。    さっそく落選候補と会って様々な指示を出したようだ。「住居と事務所兼用の住宅を借りて活動を再開するように」とか、地元に溶け込んで活動を続けるように、とか落選議員に対しては具体的な方針を示したようだ。  マスコミには小沢氏を選挙対策に専念する政治屋とする論評もみられるが、選挙は民主主義の出発点で、落選した者に登院して発言する権利はない。これほど厳しい世界はない。    菅氏が会いたいとしているようだが、小沢氏が新議員会館に3時間もいたのだからとっとと会いに行けばよかった。何を気取っているのかと思う。小沢氏に対して無礼な発言をして閑職に追いやり、彼の仲間も政権や党の要職から排除したのは誰だったのか。現在の政府と党の布陣を見れば小沢氏が嬉々として会いに行くと考えられるだろうか。    党を纏め政府を機能させるのに特定の一派を排除することによって生じる求心力を利用してはならない。それは恰も中国や韓国が不当に日本を悪者に仕立てて国民の反日感情を政府への求心力に利用しているかのようだ。菅氏とその仲間は小沢氏に対して「出て行くのなら出て行け」と言わんばかりの態度ではなかったではないか。前原氏などは公然と「政倫会で説明すべき」と小沢氏に求めている。それが大先輩議員でしかも党を政権に就けた立役者に対する態度だろうか。世間の常識からいえば「非礼なヤツ」と非難を浴びるのは菅氏や前原氏の方だ。    これまでもこのブログで何度も書いてきたが、説明すべきは小沢氏ではなく非を鳴らして不起訴とした検察当局であり、恰も被疑者扱いして一年半以上もキャンペーンもどきに悪口雑言を書き立てたマスコミの責任者だ。彼らこそが国会へ招致されて「国民の基本的人権」に関して事情を聴取されるべきだ。  捜査権と公訴権を併せ持つ、いわば国民の殺生与奪権を握っている検察が暴走すれば誰にも止められない。せめてはマスコミが真実を報じて検察の暴走に歯止めをかける立場にある。その二者がタッグチームを組めば国民に頼るものは何もない。  三権分立の最高機関として国

政権責任者の発言は個人の自由な意思表明ではない。

 民主党政権の危うさは一議員から政権の閣僚までもが好き勝手な発言をバラバラにすることだ。週末に他の閣僚がテレビ出演して議員定数や歳費の削減などに言及すると、週明けにはそれを内閣官房長官がいとも簡単にひっくり返してしまう。    こうしたことは国会改革だけに限ったことではない。予算担当閣僚が予算概算要求では対前年比10%削減のシーリングを提示したかと思うと、さっそく「官僚的発想だ」と前原氏などが国交大臣として記者会見で反論する。    何ともお粗末な内閣だ。朝令暮改というが、それはまだしも一人の王がすぐに意見を変えることだ。菅内閣では百家争鳴とでもいうべきだろう、首相が何か言えば閣僚の数ほど異論が噴出する。    なぜ二泊三日程度の合宿をしないのだろうか。携帯電話を切って朝から晩までどこぞの別荘に籠って、内外全般の課題についてしっかりと議論してはどうだろうか。政治主導というのなら、その程度の意見の擦り合わせをした上で政策に関して発言すべきだろう。    そして一旦言い出したことは簡単に引っ込めないことだ。内閣全員が協力して一つの政策を実現するために力を併せることだ。    口から先に生まれたように先輩議員を軽々しく誹謗して恥じず、自身の不明な発言には強弁してみせる。何とも困った輩が閣僚に就いて国民から付託された民主党政権への信頼を壊している。その挙句が官房長官による閣内不一致発言だ。    これ以上醜態を晒すことなく、参議院選挙で大敗した責任を取って菅氏は首相を辞任して、9月の代表選を一挙に早めることだ。死に体内閣が予算編成とは末代までの笑い種になるどころか、官僚へ丸投げの予算編成になりかねない。    菅氏も日韓併合百年に際して村山談話に劣るとも勝らない、国辱ものの談話を発表する前に身を退いた方が本人のためだろう。先人を貶め隣国に這い蹲るこの国の政治家たちの態度に、またしてもかと国民はうんざりしている。そろそろ敗戦ショックから立ち直って、堂々と胸を張って外交をする政治家が出てこないものかと、大部分の日本国民は願っている。

ハリネズミのような

 与野党とも口を開けば喧々諤々と言い合っていてはネジレ国会では何も決まらないだろう。常識的に考えて衆議院は任期一杯近くまで解散がないのだから、三年は現在の状況が続くと思わなければならない。そうした中で、野党党首がハリネズミのように毛を逆立てて対立していては国民の為にならない。話し合うべきは話し合って政治を前へ進めることが必要だ。    与党幹部にも柔軟に対処する度量が必要で、現在の国対などの調整機関とは別に政策協議機関を設置して、話し合いで合意できる可能性のある党が集まって話し合う努力をしなければならない。参議院選挙が終わったばかりで政界にきな臭い余燼が漂っているが、そろそろまともに議論を進める協議を始めなければ臨時国会を開催しても何も決まらないで愚かなポスト争いのハリネズミを演じるだけで終わりそうだ。    そうした呼びかけは与党の長老が野党の長老に声をかけて根回しをするのが常道だったが、残念なことに現在の民主党にそうした根回しのできる人材が一人を除いて見当たらない。その一人とは小沢氏のことだが、菅政権が非小沢氏の各派により構成されているため小沢氏にそうした労を取って戴くよう依頼する党内のパイプがないのが事実のようだ。  国民受けを狙った菅氏の近視眼的な人材配置がここに来て仇となっている。そして同じことを言うのでも言い回しがある。「静かにしていて…」にしても「長いこと執行部や党幹部として働いて戴いたからしばらくご休養して戴いて…」などと発言していれば良かっただろう。前原氏にしても「政倫会で説明責任を…」なぞと言わないで「不起訴となった小沢氏の名誉のためにも弁明の機会を…」なぞと、発言に相手を慮る意思が窺えれば子供大臣などと非難されないで済むし、小沢氏とも話ができるだろう。しかし、そうした度量を感じさせない人柄は実際に政治家として大物の度量がないのだろう。    政治家に政策の勉強が必要なのはいうまでもないが、それ以上に必要なのはこの国と国民の将来を見通す理念と哲学、それに幅広い人間関係だ。岩が川の中で擦れて丸くなるように、人も人の中で揉まれて角が取れて人格が形成される。それが嫌だからと引き籠っていては人格は形成されないし、いつまでたっても人のために役立つ人物とはいかなるものか分からないだろう。  菅氏は夜毎秘かに野党幹部と会って国家と国民の為に七面六脾の活躍をして

IT化のネックとは。

  総務省が光ファイバーをすべての家庭に引くと国内ブロードバンド環境の整備に乗り出した。現在IT機器の進歩は目覚しく、PCやサーバーの能力は一世代前のフムイムコンピュータを凌ぐほどだ。ただ、IT機器の進歩に電話回線と電子交換機の性能がついていかず、それが大きなネックとして立ちはだかりつつあった。  今後クラウドコンピュータが一般的になって端末のPCはシステムソフトすら持たない時代がやってこようとしている。そのように素晴らしい勢いで情報化社会は展開しようとしてるが、Win2000の保守サービスが終了して行政も含めて数十万台ものPCがサイバー攻撃に対して脆弱な存在となっている。    マイクロソフト社は企業戦略として次々と新しい基本OSを販売し、売り上げを上げようとしている。確かにそれまで脆弱といわれていたOSの欠点を改良して進歩しているのも理解できるが、基本OSはPCにとってまさに基本だ。それをプラットホームとしてアプリケーションを乗せてPCを稼動しているのは常識だが、その基本OSの保守サービスが終わるのはなんとも解せない。たとえぱWIN2000を基本Sに採用していた人口3万人規模のある市では300万円を支払ってとりあえずは「延長版」を導入してサイバー攻撃に対応するとしている。しかしそれも半年延ばしの措置に過ぎず、根本的な解決にはサーバーからすべて新しいOSにやり変えなければならないという。    Win2000でも大変だが、2014年に保守サービスを打ち切るWinXPの場合はもっと大きな混乱をもたらすだろう。全国各地の自治体と企業の多くはWinXPを基本OSに採用している。その期限が来れば多くの自治体と企業は経費面から新OSへシステム変更できないのではないかといわれている。そしてマイクロソフトでは重いと不評だったWinVistaを早くもあきらめてWIN7を基本OSとしたPCを売り出している。企業や自治体の多くはここ数年の間にWinXPからWin7へと移行するしかないが、その支出は膨大な金額になる。  もはや現代社会でIT抜きは想像できないだけでなく、ITなしではまともに社会が機能できない状況になっている。それなのにWin型PCでは基本OSは売り物で、すべてマイクロソフト社の製品を買わなければ動かない仕組みになっている。なんということだろうかと憤慨せざるを得ない。  

外郭団体とは違うが。

 経産省が所管する財団法人ICSが一億円もの所得隠しをしていたという。ICSは英語検定試験「TOEIC」を実施することを許されている唯一の国内組織だが、その関連公益法人IIBCに試験問題作成を丸投げし、IIBCは米国に本社を置くETSが非英語圏で実施するTOEICの問題を作っていたという。    なんだか複雑なようだが、実は簡単なことをわざわざ複雑にしてそこに公益法人を介在させているに過ぎない。しかもICSとIIBCとの間には漢字検定の試験問題作成法人や印刷会社など漢検の会社と個人的な繋がりのある親族を配していたのと同じような関係にあるという。    経産省がそうしたことを承知していないはずがない。今の就職難から資格試験隆盛期を迎えて英検にも受験者が急増していた事実を知らなかったはずがなく、経産省にも問題があったといわざるを得ない。  それにしてもわざわざ経産省の外部に財団法人を作って英検を実施しなければならない理由は何だろうか。今後、天下りなどの事実はなかったか、マスコミなどの解明を待たなければならないが、脱税で事件化しなければ一般国民はTOEICも漢検と同じような構造だったとは知らなかった。    国民の受験料で運営される財団法人が経産省の外郭団体として存在する意味があるのだろうか。しかも、そこが問題を作っているのではなく米国の会社が問題を作り、それを国内のIIBCと称する公益法人が日本国内の問題としていただけだ。そうした無駄な公益法人を介在しにければならない必然性はなく、英検の在り方そのものが問われる。そしてこうした構造的な国民への「タカリ」は典型的な官僚による省庁による外郭団体創設と運営の実態と少しも変わらない。経産省が実施しようがIIBCが実施しようが、国民にとって競争相手のいない独占事業に対して受験料が高額か否かの判断ができないだけでなく、TOEICを受験するしか英検資格取得手段がない。    漢検もだが英検も特殊法人に任せるのをやめたらどうだろうか。国民から見れば競争相手のない公的な資格試験が国による実施であろうとなかろうと、国家が関与していて国家による権威づけがあると認識している。そうした団体を官僚組織から切り離して「日本は公務員数が少ない」なぞと説明する官僚の狡猾さが見え見えだ。それならいっそのこと、すべて官僚に取り込んで公務員の仕事にしてはどうだ

出るべき人が、出るべきだ。

 現在の民主党を動かしているのは非小沢派の連中なのだろう。だがどの顔を見ても小粒で、とてもこの国を託すに値するとは思えない。官房長官の仙谷氏が予算編成の司令塔になるようだが、韓国の慰安婦問題に新たな個人補償をしようと考える程度の国際感覚ゼロの人だ。この国を託すほどの人物でないのはいうまでもない。    小沢氏が代表選挙に出るべきでないとする国民が8割を超えると早くもマスコミは手回し良く「世論調査」を根拠に牽制しているが、向こう三年間は国政選挙はない。たとえ支持率ゼロになろうとも小沢氏はマスコミ報道の「世論」なぞを気にせず堂々と代表選挙に出て、民主党の第一人者たる責任者として勝ち抜き首相となって政権を運営すべきだ。マスコミはこれまで何度も小沢氏を「影の支配者」と揶揄してきたのだから、表の支配者となってもマスコミが改めて文句を言う筋合いはないし、実力者による一元支配を完成させるのが憲政の常道というものだ。    それにしてもマスコミの姑息さはどうだろうか。菅氏の支持率は不支持率と逆転するほど低下し3割台になったというのに、政権から降りるべきでないとするのが6割を超えている。このような大いに捻じれた世論に対しても評論家はたじろぐことなく「菅政権の続投を国民が求めている」と論評している。何とも理解しがたい状況だ。    それよりも民主党が党内民主主義により代表を正式な手続を経て代表を選出するのなら、部外者のマスコミが四の五の論評する立場にはないだろう。民主党で最大派閥を率いる小沢氏は当然代表選に出馬する立場にあり、出馬して対立候補と雌雄を決すべきだ。それにより小沢氏が代表になったからといって民主党を出て行く者は一人もいないだろう。政権とはそうしたものだ。    そしてシングルイッシューの公務員改革を声高に叫ぶ渡辺氏を行政改革相に迎え入れて、公務員改革に「みんなの党」の意見を丸呑みすれば良い。他にも何人か野党から参議院議員を大臣席に迎え入れて参議院を安定させることだ。参議院選挙敗退後の一週間、菅氏はひたすら無策のまま政治主導の象徴たる戦略局構想を引っ込めてしまった。玄葉改革相も政調会長と兼任して党を纏めるはずがバラバラになった議員を掌握する力もないようだ。そのような口先だけの子供閣僚は交替してもらうしかない。  そうした荒業や寝業ができるのは小沢氏だけだろう。幾ら見渡しても民

政治をシングルイッシューで語る危険性。

 シングルイッシューで分かりやすかった最たるものは小泉氏の「郵政民営化是か非か」だった。なんとなく民営化は良いことだ、と思い込んでいた有権者は前後の見境もなく小泉政権を雪崩を打ったように支持した。それにより何が起こったか、小泉政権の功罪を振り返れば明確だ。    みんなの党もシングルイッシューで官僚制度の見直しと行政改革と埋蔵金を取り戻すことで30兆円も使える金が出てくる、としている。彼らは国だけでなく地方公務員の給与までも削減するとし、公務員数も削減するとしているが、どのような手法で実施するのか道筋は示していない。同じように年率4%の経済成長でパイを大きくして税収を図り、増税に依らない財政再建を果たすとしている。すべてバラ色だが、果たしてできるのか。    国政は国のことをやっているのであって、地方公務員まで口出しするようにはなっていない。ただラスパイレル指数で国家公務員と比較して給与水準が大きく逸脱しないように地方で配慮しているが、現在では国家も地方も公務員は高額給与を分捕って赤信号をみんなで渡っている。そうした意味では中央政府のガバナンスが地方にも有効に利いている現状には目を瞑って、地方分権を声高に叫ぶ知事の姿は滑稽だ。    民主党政権批判を繰り返し、自公と協力を確認し合った「みんなの党」は早くも先祖返りしたのだろう。せいぜいが賞味期限一年未満のボウフラ政党だ。国家の根幹をなす国防や外交に何も語らない政党が果たして政党といえるのか。たった一度の選挙で10議席を得たからといって本物かどうかは未知数だ。次の選挙は3年後の衆参同時だろう。それまでは存在するだろうがブームが続いているかどうかは別物だ。

迷走ではなく、創造の過程であれ。

 内閣としての政策意思決定で自民党的な手法と決別して政治家主導の政治を実施する、と政治家としては至極当たり前の発想を以て臨むのに試行錯誤や混乱はつきものだろう。それでも「国民のため」の政治を実現するために政治家が知恵を絞るのは裏舞台でやってもらって、国民の前に議員同士の縄張り争いのような醜態は余り晒さない方が良い。そうした組織作りの段階から国民の目に見える形でやる「開かれた」政党だというのはいただけない。    政治家は選挙で当選するために自己を選挙民に十分にアピールし政策を訴えて支持を得た人たちだ。その選挙民との「約束」を実現する手段として政権があり、政策実現に党内で存在を示す必要があるのも頷ける。しかし、それをすべての国会議員が予算策定段階で嘴を挟み勝手に発言しだすと収拾がつかなくなるだろう。何処かで取り纏める部署が必要となり、誰かが政党に対してガバナンスを働かさなければ烏合の衆の集まりということになる。そして党内で議論するのならまだしも、幹部を党外で批判するパカな議員が跋扈し、それをマスコミが面白がって囃し立てる、という愚かな構図が出来上がってしまう。    どこぞの機関で政策を学んだことと、実際に人を掌握して政治を行うこととは別物だ。そこには徒弟制度に似た「汗をかく」期間が必要となり、そうした党と所属議員の為に奔走する姿を見て、所属議員は彼に代表を任せよう、と思うようになる。そうした極めて人間的な手続きを踏むことなく、口先だけの人気を得て同調者を集めて勢力とするのはサークル活動の勧誘みたいなものに過ぎない。政治とはサークル活動ではなく国家と国民の存在と暮らしに深くかかわる現実社会の在り方を示すものだ。それを単純化して税の徴収と使い方が政治だ、という人もいるが。    各省庁の予算を一律して削減するシーリング方式は財務省の方針であって、各省庁の叡智でも政策でもない。むしろ政治家が省庁を掌握すれば予算削減を省庁の大臣から言い出す事態があってしかるべきだろう。それが一例もないようなら、自民党政権時代の予算ブラックボックス状態と同じことだ。  政治家が国民のために予算を組むのが民主主義本来の在り方だ。その政治家が作った予算を実施する行政が官僚組織だったはずだ。政策も予算も官僚が作って、政府は「頷くだけ」の同意機関に成り下がっていては官僚がいいようにしてしまうのは当然

マニフェストは次の衆議院選挙までの公約だ。

 菅氏の早急な結果を得たいという「あせり」が参議院選挙の敗因だ。党内での手続きも経ないで、厳密な財政規律の勉強もしないで、到底実施不可能な低所得者還付にも言及して、何もかも場当たりな、実にいい加減な首相だと国民から見透かされた結果だ。    それよりも普天間基地移設問題は何も解決していない状況で、すでに大マスコミの紙面から「普天間」「辺野古」の文字が消えて久しい。いかに大マスコミが為にする報道に血道をあげたか、この一事を以っても明らかだ。ジャーナリストたちがこの国の防衛問題を真剣に考えて鳩山首相を追い詰めたのではなく、米国の意向に従順に従うポチだということが明らかになっただけのことだ。    この度の参議院選挙の勝者は誰かという愚かしい議論がマスコミで盛んに取り上げられ、「みんなの党」が一躍持ち上げられている。しかしこの党名からしていかがわしく、みんなのものということは誰のものでもなく、早くも自公と協力体制を作ろうとしている。何のことはない、出て来た自公政権に里帰りしようとしているのだ。そうではない、というのなら明快な政策で(政策といっても三つ程度しか上げていないが)民主党と協議する度量を示してはどうだろうか。    日本の首相は沖縄の米軍基地のうち、少なくとも普天間は代替基地を求めずに撤退すべきと米国に要求すべきだ。政治主導の政治を実現するためには「日課戦略室」と「行政刷新会議」が車の両輪で、民主党の官僚制内閣打破の本丸だったはずだ。それをやめる程度の菅首相なら一日も早く党代表を降りるべきだ。これこそが国民に対する民主党の決定的な裏切りだ。  良識ある民主党の国会議員がいれば近々開かれる議員総会で党代表が勝手にバラバラな発言を繰り返した無責任さを総括しなければならないだろう。    奇しくも福田自民党総裁と大連立を仕掛けて民主党議員から大反対され代表の辞意を表明した折、小沢氏は「民主党に政権担当能力はない」と看破した。だから大連立で民主党議員たちに政権を獲得した折の覚悟を勉強する期間が必要だと思ったのだろう。いまが勉強期間なら民主党代表はマニフェストを愚直に実行する、と国民と官僚に言い続けることだ。官僚は自分たちの都合の良い自公時代へ回帰したがっているが、最低でも後三年余は戻れないと官僚に思い知らせることだ。このままぐずぐずにマニフェストがなし崩しに見返しをして、

胆沢ダム受注工作の疑い

 公共工事受注を巡って小沢氏へ政治献金がなされたかのような報道がまたなされている。政治献金そのものは禁止されていないし、政権与党てなかった小沢氏にどのような公共工事の受注先を決定する権限があったというのか不明なままだ。「胆沢ダム受注工作の疑い」があるかのような書き方をしているが、よしんば小沢氏にそうした権限があったとしてもダム工事の元請でもない下請け会社にどのような見返りを期待してのことか、因果関係を明白にするのは極めて困難だ。つまりダム工事受注を有利にするための政治献金だったと違法性をあげつらうには根拠が薄いといわざるを得ない。    それよりも、この時期にまたぞろそうした小沢氏への攻撃を仕掛けた理由を考える方が何らかの「根拠」があるのだろう。9月の党代表選挙で菅氏と小沢氏が戦えば小沢氏が勝利する可能性が高いとみられる。つまり小沢氏が首相となるのを阻止したい勢力が仕掛けてきたと考えるのが順当な見方だろうし、恐らくそれが正しいのだろう。     小沢事務所が対応すべきはこのような「憶測記事」を書くことによって、国民に絶え間なく「小沢氏=悪代官」のイメージを植え続けるマスコミの「報道の自由」と小沢氏個人の「基本的人権」の在り方を法的に問う必要があるのではないだろうか。取るに足らない仄聞程度で、これまでどのようにマスコミが小沢氏を攻撃し続けて来たか、他の一般的な政治家ならとうの昔に政治生命を奪われているだろう。  ただ民主党内部にも小沢氏と対立関係にある議員たちはこれを利用して「政倫審」で説明責任がある、と騒ぐのだろう。馬鹿げたことなのは少し考えけば分かる話を強引に「小沢氏の説明責任」を問う連中のお粗末さだ。今度も説明責任があるとすれば「産経新聞」の方だ。小沢氏にとっては青天の霹靂で、いわば平穏に道を歩いていたらヤクザに因縁をつけられたようなものだ。そうすると因縁をつけられた小沢氏に「なぜ因縁をつけられたのか説明しろ」というのが筋違いなのは明らかで、説明すべきは因縁をつけたヤクザたる新聞社の方だ。    政治家に対する「憶測記事」はもっと慎重にあるべきだ。調査してしかるべき因果関係を証拠立てる物証を握ってから、新聞社が告発するほどの覚悟を持って書くべきだろう。そうでなければ三文週刊誌よりも程度の低いイエロー・ジャーナリストと蔑まれても仕方ない。そして軽々に政治家の政治生

ジタバタしないことだ。

 菅首相は清々粛々と政治日程を消化していけばよい。参議院で否決になろうが、先の通常国会の期限切れで廃案となった議案を再び衆議院から審議して、参議院へと送れば良い。下手な小細工やラブコールは送らないことだ。ボウフラ政党の「みんな」なぞは賞味期限一年以内だから、放っておけば自然と影響力をなくして擦り寄ってくる。それまで待っていれば良いのであって、もてない男さながらに秋波を送らないことだ。    自然と議案は参議院で否決されて廃案になるだろう。それを繰り返していれば良い。繰り返していれば野党にも話し合うべきとの良識的な意見が湧き上がってくる。そうすればその代表を閣僚に取り込んで連立を作ればよい。決してあたふたとしないことだ。それで政策決定が遅れて国民生活に影響が出ようと、それは国民が選択した衆参ネジレの結果だから国民も国会の機能不全による不都合は甘んじて受け入れるべきだろう。    この秋から年末にかけて、恐らく中国のバブルは弾けるだろう。なぜなら、財政政策で緊縮と公定歩合引き上げと『元』切り下げをして輸出圧力を減じなければならないが、中国の政策当局はそうした中国国民に我慢を強いる政策の何一つとして実行する意思はないようだ。かつて日本はプラザ合意により円切り上げにより輸出産業とりわけ繊維と食器などが壊滅的な打撃を蒙った。しかし、そうした試練を乗り越えて日本経済は力強く甦った。  だが中国経済はどうだろうか。経済悪化が政治状況の脅威として政府当局が認識すれば、大胆な経済政策はとれない。日本は不動産バブルが崩壊して仮需要の実態が露呈し金融不況に陥ったが、中国の場合は日本よりももっと酷い状況になるだろう。なぜなら日本は暴落したとはいえ土地は存在したが、中国の不動産バブルに土地は存在しない。たんに地上権の使用を確約する紙切れに過ぎない。信用が失墜すれば紙切れそのものになってしまう代物だ。    民主党が衆議院で過半数を占める第一党なのはいうまでもないが、参議院でも半数に達していないだけで第一党なのに変わりない。それなら堂々としていることだ。そして両院教義の状況が熟してきたら話し合いに応じれば良い。間違ってもボウフラのような水溜りに湧いた政党に擦り寄らないことだ。彼らは早くも自公と話し合っている。その状況を国民に見せていれば、みんなの賞味期限は意外と速く尽きるだろう。

百家鳴争して…

 なんと詰まらない記事を掲載するものだろうか。こうしたことが国民の関心事だから取材して記事にしているのかもしれないが。  しかし少し冷静に考えれば民主党静岡県連の某氏が「選挙結果の責任は小沢氏にある」と言うのは自己の責任に微塵も言及しない愚かな発言だ。全国的に比例総数は減少したとはいえ第一党の票数を獲得しているし、地方区の全国得票総数も民主党が第一党だ。選挙の仕組みで第二党に転落しているだけで、選挙戦略をコツコツと構築していた小沢氏の方針は間違っていたと責めるのは筋違いで、最後の詰めの段階で代わった党本部の幹部連中が戦略戦術を誤ったというべきだろう。    「不起訴不当」とした検審会の内容が報じられたが、不起訴不当とした根拠としては何とも不可解だ。まず「4億円ものカネの移動を知らなかったというのは市民感覚では理解できない」という文言があったが、検察が問題としたのは4億円の支出ではなく支出した年月日と記載した年月日が異なるとした「虚偽記載」だ。つまり4億円を認識していたか否かは問題とされてなく、記載日がいつだったかを小沢氏が認識していたかどうかが問題なのだ。記載した日付を間違えたのを以て「虚偽記載」と追及する石川氏の瑕疵を、小沢氏も承知していたかどうかということなのだ。    マスコミもテレビのコメンテーターも評論家も揃いに揃って恰も小沢氏が政治資金4億円を不正に着服したかのように国民に勘違いさせるかのような発言を繰り返しているが、そうしたことなら検察は間違いなく小沢氏の身柄を拘束して拘留しているだろう。事実はそうではないのだ。検察もそうした政治資金の私的流用があるとは各種証拠から認識しているわけではなく、単に記載期日が実際の日付から二ヶ月ほどずれているのを問題としているに過ぎないのだ。それが「虚偽記載」としてマスコミが煽りに煽って大騒ぎしている実態に過ぎないのだ。  そうした観点からみると、検審会の市民は充分に素人の程度の低い週刊誌程度のマスコミによって小沢氏に関して作られたイメージ「政治とカネ」の線に沿って判断したに過ぎないことが良く分かる。4億円ものカネが動いたのを小沢氏が知らないはずがない、と検察がその点は問題ないとしているにもかかわらず、小沢氏に関して誤った情報をマスコミがタレ流した報道のまま、あるいは馬鹿なテレビコメンテーターの発言を鵜呑みにしたまま、正義

日本人の、この無償の献身をいとわない国民性。

  日本の草根無償資金協力により4校の小学校が建設される。在中国日本国大使館と甘粛省商務庁は最近、日本の草の根無償資金協力に関する調印式を開催したようだ。記事によると甘粛省にある敦煌市粛州鎮武威廟小学校、民楽県王甚小学校、永靖県紅泉鎮紅格達小学校、渭源県上湾郷園樹小学校の建設プロジェクトで、今年中の竣工を予定しているという。これまでも甘粛省に対しては文化、教育、人と家畜の飲用水事業、医療救護、食糧増産、文化財保護など29項目の日本の無償資金協力を受けており、援助額は1900万ドルに及んでいるというのだ。  もちろん一般の日本国民はそうした事実は知らされていないし、中国から配信されるニュースにもそうした記事はみられない。それはそれで日本人の奥ゆかしさと言えばその通りで、日陰で善行を積むを以て徳となす、との仏教的な教えの賜物だろう。    しかし、そうした日本人の無償の奉仕を行う人間性が適正に近隣諸国の人たちから評価されているのだろうか。もちろん功利的に利害損得優先で草根無償資金協力をしているのでないことは承知しているが、それでも感謝の言葉も聞こえてこない地域に一方的な善意を無償で及ぼすことが国際協力になるのだろうか疑いを抱かざるを得ない。なにかにつけて教科書問題だ、やれ靖国問題だ、それ中国の領海は大陸棚方式で考えているから沖縄列島の向こうまで中国のものだ、と世界標準の中間線方式を否定して見せたりする。そうした嫌がらせの数々を受けながら、それでも日本人は黙々と無償援助を行っているのだ。  それは中国だけではない。戦前の半島についても日本人は併合した同じ日本として接した。鉄路を引きダムを造り発電所を半島各地に建設した。それらは日本国民の税を半島に投じたものだ。テレビなどで「植民地時代」なぞと馬鹿げたことを言うキャスターがいるが、それこそ半島の人たちの誇りを傷つけるものだ。彼らは彼らの意思で併合への道を選んだのであって、日本に厳しかった当時の国際関係の中でも、欧米のどの国からも異議の出なかった国際的に認められたものだった。    戦後も韓国の発展の礎は1956年の日韓基本条約により日本から供与された資金援助だった。それにより韓国はあらゆる補償権を放棄したのだが、元々日本と韓国は戦争していたのではない。補償関係が生じるいわれはなかったのだが、それでも日本はなけなしの資金を韓国

外圧とは何か。

 前回の第5検審会の小沢氏不起訴を受けて審査された結果は「外圧」の成果に満ちたもと思わせるに十分なものだった。  本来なら、検察がどのような理由で「不起訴にしたか」を聴取して「市民からなる」検審会委員11人が判断すべきものだが、第一回目としては例外的に助言する「補助弁護士」が委員会に臨席したという。それも元検察官の「ヤメ検」弁護士だったと報じられている。異常な事態といえば異常な状況の中で前回の検審会決議「起訴相当」が全会一致でなされたと考えるべきだろう。    外圧の排除ができるか、といえば今回もほとんど不可能だ。なぜなら検審会委員は3ヶ月ごとに半数改選されるため、今度の判断は全く前回とは異なるメンバーでなされ、しかも二回目は助言者の弁護士が就く決まりだ。つまり1回目と状況は全く変わらないことになる。小沢氏を強制起訴に持ち込もうと検察がそこまで考えて細工したものと考えるのが順当だろう。それなら1回目の検審会判断こそが「外圧」により捻じ曲げられたものとして排除すべきものだろう。    しかし、検審会にそのような「対抗手段」の入り込む仕組みのない独善的な仕組みになっていて、しかもメンバーや議論経過や採用された証拠事実なども一切が非公開なのだ。これほど密室でしかも秘密裡で行われる「市民」と称するものの判断に一国の政治家が振り回されて良いものだろうか。あたかも88ヶ所もある国内米軍基地のたった一ヶ所の移転先を巡って日本国の首相の首が飛んだような愚かしい状況だ。日本という国のガバナンスはどうなっているのか、外国人の正常な目で観察すれば、これほど滑稽な風景は日本だけのものだろう。    検察とマスコミにより作り上げられたイメージから「一般の市民」は影響されず純粋論理的に小沢氏の事実関係を議決することができると考えられるだろうか。そうした情緒的なものも「外圧」の一種だとすれば、検察審のメンバーが本当に一般市民であれば世間から自由な純粋法理論的な存在であることは不可能だ。そのような状況下に判断された議決で人が起訴に持ち込まれるとしたら、この国は法治国家とは言い難い。人を公判に持ち込むことに、もっと畏れをもたなければならないはずだ。    マスコミや野党議員は先日の「起訴不当」議決ですら欣喜雀躍の喜びようだ。まるでスズメのように羽ばたきそうなほど喜んでいる。彼らは小沢氏への個別的な事

バカの一つ覚えか。

 自民党や公明党の幹部が小沢氏の「不起訴不当」の検審会議決を受けて、小沢氏の「説明責任を果たすべき」との談話を発表した。馬鹿の一つ覚えでもあるまいに、小沢氏の説明責任とは何だ。小沢氏は無罪を主張し、検察当局は「不起訴」としたものを検審会が「不起訴不当」としたのだから、論理的に考えれば説明責任があるのは検審会委員たちだ。彼らがどのような事実をどのように評価判断して「不起訴」とした検察の判断を「不起訴不当」と検察の判断を否定するほどの判定をしたのか、説明すべきだ。    説明できなくても、記者会見をして彼らの口から「不起訴不当」とした経過を説明しなければならないだろう。あたかも「天の声」でもあるかのように、法の専門家でもない検審会委員と称する市民の判断を以て「不起訴不当」とされた小沢氏の名誉のためにも、彼らは素顔をさらして説明しなければならない。民主主義には人を批判する自由はあるが、その批判に対して批判されることも覚悟しなければならない。    自民党と公明党の幹部の人に聞きたい。小沢氏に説明責任がある、というのなら何に関してどのような説明を小沢氏がすべきなのか、文書で小沢氏に申し入れてはどうだろうか。それが不当なものであるとか、説明する必要を覚えないものであるとか、小沢氏が判断すれば強制力や拘束力を伴わない「説明責任」であれば小沢氏の判断に従うしかないであろう。そして爾来、二度と小沢氏に対して「説明責任」なぞとバカの一つ覚えのような文言を浴びせないことだ。

明確な根拠を示すべきだ。

 検察内部の犯罪に対して、検察の判断が甘くなるのを監視するために設けられて検察審査会で小沢氏に厳しい判断が相次いでいるが、本当に市民が選ばれて審査にあたっているのなら裁判員制度と同じような運営をすべきだろう。一人一人の名と身分を明かし、判断後の会見は被疑者の人権とのバランスからいって当然のことだ。    現在は検察審査会委員の名も明かされず、判断後の記者会見もない。誰とも分からない市民が密室でのやりとりをして評議を決し、その後の記者会見もないのでは密室での欠席裁判に等しい。それにより強制起訴の措置にあう被疑者にとって反論もできないのは極めて不当な扱いだといわざるを得ない。    この国では証拠と法律に基づいて人は起訴され、公平・公正な公開裁判を経て判決を受ける。それが法と証拠に基づいて判断されたのか分からない検察審査会の判断で起訴相当ならば法廷に引っ張り出されるのだ。法治国家にあるまじきリンチにも等しい人権蹂躙の仕組みと言わざるを得ない。     一旦は検察が不起訴と判断したものを検察審査会がどのような法と証拠に基づいて判断したのか知らないが「起訴相当」としたのを受けて検察が再び洗いなおした。そして小沢氏に対して再び検察が「不起訴」としたものを再び検察審査会が審査する妥当性があるのか疑わしい。検察審査会が市民感覚と称する判断基準があるとするなら、それこそ個人的な意趣返しの場となるか無法リンチの場と化す可能性がないともいえない。    一年半以上にも亙り、針小棒大に「政治とカネ」と一括りにして大マスコミが上へ下への大騒ぎを演じ、国会議員までもが不見識に「政治とカネ」なぞと意味のないマスコミ造語のスローガンを口にする。彼らは検察判断で不起訴となった小沢氏に一言たりとも謝罪しただろうか。そうしたケジメをつけないで市民と称する検察審査会なるものの判断を仰いだ。メンバーを公開しない市民なるものを信用する愚かなことをこの国の市民は行うのだろうか。    何の根拠がなくても検察が強制捜査に踏み切りマスコミが叩きに叩いたら大抵の政治家は政治生命を失うだろう。そのようにして田中角栄氏は政治の表舞台から消えていった。いまはまだ彼に対してこの国の法学者は誰一人として司法と検察が行った事実関係を冷静に検証していないし、マスコミも頬被りしたまま歴史の彼方に消え去るのを待っているのかもしれない

歴史を捏造してはいけない。

 慰安所はあったが「従軍」慰安婦はいなかった。それが事実だ。つまり戦争中当時の日本の法律では売春は違法ではなく、国内各地に遊郭といわれる売春宿があった。商売として軍の宿営する直近で売春宿を営む者がいて、兵の多くが利用した。売春婦も国内の遊郭で稼ぐよりはるかに高額な稼ぎを手にした。つまり戦場での売春行為を日本は公然と認めただけであって、それを勧奨し売春婦を暴力的に掻き集めたわけでもない。仙谷氏などは同じ日本人として先人を貶める愚かしい行為を恥ずべきだ。    当然のこと戦場の近くでは、多くの兵が利用する売春宿の安全を図るため軍人がその周囲を守ることもあった。軍が移動すると売春婦たちもついて移動して商売を継続した。  こういう「性」の話を汚らわしいもののようにいう人がいるが、兵営地の近くで慰安所を営業するのを禁じなかったため、日本兵衛による現地女性への暴行数は驚異的に少ない。欧米軍の数の方が遥かに多く現地女性への人権蹂躙が平然と行われたのだ。それを慰安所の存在を非難する決議を持ち出した米国議会の欺瞞性には怒りを覚える。    世界ではいまだに売春が禁じられていない国もある。オランダやドイツなどがそうだ。賛否は分かれるものの、日本では昭和31年に赤線の禁止が実施され、それ以後売春行為は法律で禁止されている。  現在の常識で歴史を評価し判断してはいけない。いまでは世界の常識として植民地の拡大を目指す帝国主義は否定されているが、第二次世界大戦前後まで欧米列強はアジア・アフリカ・南米へと植民地を求めて版図を広げていた。日本は半島と台湾を併合したが欧米型の収奪する「植民地」を持った覚えはない。    さらに歴史をさかのぼれば、欧米人は奴隷としてアフリカ人を捕えて家畜のように売買していた。リンカーンが奴隷解放宣言をする、ほんの明治維新の数年前までそうだったのだ。その当時と現在とでは常識が異なる。だから現在の常識で過去を裁いてはならないのだ。売春婦が存在した当時の常識を現在の感覚で判断してはならない。政治家ならその程度の「常識」は備えているはずだと思うのだが。

99番目の空港

 2012年に開港予定の岩国民間空港は国内で99番目の空港だ。第三セクターで運営され、年間利用予定者数は35万人だという。全日空が乗り入れ一日往復4便の就航だそうだ。しかし、どんなに強弁しようと赤字垂れ流しとなるのは必至で、第三セクター方式だから赤字の補填は税で行われることになる。    山口県には瀬戸内海に面した県央部の宇部市にも県営宇部空港があるが年間利用者数の減少傾向が止まず、80万人を割り込み赤字を垂れ流している。岩国空港も瀬戸内海に面した米軍岩国基地を沖合移設してできた広大な敷地の有効利用で民間空港を造るというのだ。    そもそも米軍岩国基地を沖合移設したのは海岸部に広がる石油コンビナート群の上空を飛行する危険性を除くために計画されたものだ。それが完成なったからといってその場所に民間空港を開くというのは得心が行かない。  しかも岩国は瀬戸内海に面し、新幹線駅もある。山陰地方だとか、新幹線のない土地に飛行場を設けるというのなら得心がいかないまでも空港建設の動機は理解できる。しかし離島でもなく陸の孤島でもない土地に空港を建設し、それにより赤字を垂れ流すのなら、建設を推進した人たちに負担してもらいたい。断じて第三セクだからと税を投じてもらっては困る。そうした馬鹿げた事業を行政が行う時代はとうの昔に終わったはずだ。    民主党に政権交代して、そうした事業は中止になるのかと思っていた。しかし国は事業認可した。政権は代わってもこの国のバカげた構造は何も変わっていないようだ。つまり政治家が代わっても官僚は代わらない。そのため事業の継続性がここでは頑なに守られているのだ。

日韓併合百年は謝罪の年か。

 日本が併合しなければ清国か露国が半島を併呑して、日韓併合のような半島近代化へ本国の国力を注ぐ真似はしなかっただろう。しかし岡田外相は「「韓国の人々にとって国を奪われ、民族の誇りを深く傷つけられた」ことを日本は謝罪しなければならないとしている。何ということだろうか。    国を奪うとは露国が終戦後に上陸して日本国民を追放して露国人を入植させた北方四島のようなことをいうのであって、韓国人を半島から追放したわけでもなく日本人が日本国の資金を投じて半島を近代化させたのだから謗られるいわれはない。朝鮮人の民族の誇りを傷つけたというが、それ以前の李朝朝鮮時代がどのような時代だったか、歴史を紐解けば簡単に分かることだ。むしろ日韓併合は韓国人に民族の誇りを喚起させた。半島で開墾を行って多くの朝鮮人の自作農を作り、それまで4校しかなかった義務教育施設を半島全土に400校以上も建て、ついには平壌に帝国大学まで建てた。それが半島に対する「植民地政策」だったといえるのだろうか。どの欧米諸国が植民地に学校を建て植民地住民に教育を与えたか、日本以外にあったら証拠を示して教えてもらいたい。    自虐的な日本でいつまでいるつもりだろうか。堂々と胸を張るべき先人の政策を、今を生きる我々がいわれなき屈辱を浴びせられ恥じ入ってばかりいて、日本国民は半島や中国の人たちに対して心の底で沸々と煮えたぎる反感を抱いていることに気付かないのだろうか。日本の政治家の愚かしい自虐的態度は止めるべきだ。そうしないといつまでたっても正常な関係は結べない。それで関係がこじれるのなら政府間は付き合わなければ良いではないか。政府は堂々と日本の国益を国民に代わって半島や中国にモノ申せばいいのだ。関係がこじれることで何があるというのだ。攻めて来るというのなら、米軍に守ってもらえば良いし、米軍が嫌だといえば役立たずの用心棒には帰ってもらって、日本人で国を守るべく防衛大綱を打ち立てれば良い。    日韓両国で同じ歴史教科書を使って勉強できれば良い、とは正常な政治家の言うことだろうか。教育こそが国策の最たるものだということは世界の常識だ。中国共産党政府は間違っても民主主義が国民の意思を反映する政治手続きとして良い、とは中学の社会科で教えることはない。中国共産党の下、国民は一致団結することが外敵に対抗し堂々と国力を世界に示せる唯一最大

政治の風景は昔に回帰することはない。

 自民党的な派閥利権利害調性型の政党が政権中枢に長くいたが、今後の日本に利権を肥大させて乾分を養っていく政治土壌の再来はありえない。事実、自民党も小泉以降は派閥力学を政権内部で採ることは不可能となり、全会一致が原則だった総務会ですら強硬に多数決で強行突破した。つまり利権構造に多種多様な価値観を持つ政治家が妥協しつつ官僚の描いた絵に従っていた構造が、経済が成長しない中で妥協できるほどの分け前に預かれなくなっていた。    二大政党というからには何らかの論理的な対立軸がなければならないが、現実社会を律するほどの大きなイデオロギーの対立のない状況で、右翼だ左翼だという分け方は適切でない。社会は混沌としたカウス状態となり、社会構造の在り方や公務員制度改革の在り方や税制改革の在り方や少子化対策の在り方や国防の在り方や果ては国のカタチの在り方まで、一人一人の政治家で異なるとしたら明確な対立軸など存在しないのと同じだ。    対立軸なき政党政治とは何か、との小選挙区是非までさかのぼる根本命題に突き当たることになるが、つまり世界はそうした状況に突入しているといえる。東西対立など国家存亡をかけた対立関係が消えた世界では次なる政治課題が澎湃としてボウフラのように湧き上がり、ボウフラのような政治家が好き勝手な発言をし、国民のボウフラのような政治家の薄っぺらなパフォーマンスに拍手喝さいを浴びせて大した考えもなく困難な政治状況を造ってしまった。    今後三年間は日本の政治は機能しないだろう。それも国民の選択だ。大局観を持って相手を大きな度量で包み込む政治家の出番がなくなり気の利いた発言とイケメンがテレビに再々登場しお笑い番組と国会状況が同等に報じられる政治の地盤沈下に国民が怒らない国民性はマスコミの格好の餌食だ。政治的に不幸な状況が続くことを国民は覚悟しなければならないだろう。それもこれも不定見にマスコミ報道に乗せられて薄っぺらな政治家に拍手を送り、この国の状況を変え得る政治家を疎んじたツケが回っているのだと観念しなければならないだろう。   (今朝は早朝より多忙で上記までしか書けなかった。続きを昼休みに書き足します)    ボウフラのような、と一部の議員を揶揄したが、それは議員だけではない。政党と称するものまでもシングルイッシューを掲げて立ち上げ、マスコミが取り囲むようにして他の巨大政党

話し合うのが政治家の基本ではないか。

 小沢隠しとか小沢外しとか、政治を劇画調に面白くするフレーズとしてマスコミが勝手に冠した言葉に政治家が操られてはならない。しかし菅氏とその取り巻きは小沢氏と話し合うこともなく、党内で議論することすらもなく増税論議の解禁を突如として表明した。だが、マスコミは「増税」部分だけを拡大して報じ、菅政権の真意を捻じ曲げて伝えた。    党代表の菅氏が小沢氏と話し合うのは至極当然のことだ。本来なら参議院選挙に敗れてからでなく、首相に就いた当初にマスコミ報道に乗せられることなく、小沢氏と会うことによって多少の批判を浴びようと、会談して協力を仰ぐべきだった。すべては済んだことで詮無いことだが。    反小沢派と称される面々がいかに狭量で独善的か、野党幹部として足の引っ張り合いと与党の揚げ足を取るのには長けていたかもしれないが、政権中枢に君臨して国家経営をするには小粒に過ぎた。これからも政権を担ったことのない面々が掲げた理想と官僚の説く現実との狭間で政策が揺れるのだろうか。せめては総裁だけでもブレずに背骨をしっかりと政権に通す存在感を示さなければならない。    さて、菅氏は小沢氏と会って何を話すのだろうか。しばらくは静かにしていろ、と先輩政治家に対して発言した非礼を詫びて、それから何を切り出すのか。代表選以降も政権維持に協力を仰ぐのか、それとも9月の代表選挙まで静かにしておいてもらえば、そこで潔く選挙大敗の責任を取って代表を降りて選挙に立たないというのか。    来年度予算編成へ向かって、参議院の多数工作をしなくては予算本案だけが通っても、附則の法律案が否決されては実質的に予算は成立しないのと同じことだ。国家と国民の為に国会を動かす数を揃える寝技を使う人物が小沢氏の他にいるだろうか。  その為にはどの程度の権限を与えるのか。中途半端なことで小沢氏が菅氏の要請を受けるとは思えない。菅氏が調子の良い中途半端な人物だということは今度の選挙を通じて露呈した。おそらく小沢氏が受けるほどの話も条件も示せないで終わるだろうし、それにより菅政権の命運も9月までと判明するだろう。

骨の髄までしゃぶるのか。

 官僚とマスコミのタッグチームによる民主党潰しはまんまと成功した。ほんの一年にも満たないうちに国民の流れを変えたわけだから、大成功というべきだろう。そして今も最後のトドメを刺すべく民主党を内紛状態にして分裂させようと対立関係の両陣営を煽る記事を書き立てている。    まんまとマスコミの意図に乗せられた国民の愚かさにも驚くが、民主党議員までもが対立の構図に煽られたかのような発言をするのにも驚く。民主党議員がマイクを向けられて「選挙に敗北した執行部に責任はありますか」と聞かれれば「ない」とは言えない。「ある」と答えればそれ内紛勃発だと煽り立てる。何とも困ったものだ。    そうした政局を日本の政治に持ち込み、政局ごっこに政治家を埋没させてまともな政治を機能させないようにしている。官僚に乗じさせる隙を政党政治に持ち込ませ、官僚優位の政治構造を打ち立てる。そうした意図が大マスコミにありありなのだが、国民は政局の渦の中で右往左往する政治家の姿を見て時代劇や任侠活劇を観劇しているかのような錯覚に陥っている。高額な木戸銭と国家の将来を支払っていることに思い至らなければならないのに、国民は参議院選挙も見せ場の一幕ほどにしか考えていないようだ。    衆参ねじれとなった現実は動かしようがないのだから、民主党もじたばたしないことだ。政権執行部は粛々と積み残しになっている法案を国会へ提出することだ。そして衆議院では政権党として可決し、参議院へ送って粛々と否決してもらうことだ。それが現政権に対して国民の願ったことなのだから、仕方ないだろう。  当然のことだが政治は機能不全に陥るが、それも仕方ない。国民はマスコミに煽られた結果の重みを認識しなければならない。テレビ画面にに登場する高額所得者のMCやコメンテーターが一定の方向に従って勝手な発言をして世論形成した結末だ。そのツケが回って今度はマスコミに易々と操作されてきた国民が責任を取らされる番だ。    九月まで菅政権は機能不全に陥ったままになるだろう。愚かなことに下話もせず、根回しもせず、選挙期間中に無為無策のまま新連立先に言及し公衆の面前で否定させてしまった。そしてこの大敗だ。彼らに当事者として次の政治舞台を作る能力はない。党の代表選挙まで辞任もしないというのなら、このまま機能不全の国会で毎日多大な税の浪費を続けて、その愚かしい政治状況を国

「地元との協議」とは

 非効率なだけでなく今後とも経費をタレ流す公共事業の最たるものが八ッ場ダム建設だ。これまで当初予算の大部分を使い果たし、それでいて本体工事進捗率は0だという。しかも上流は流れに中和剤を注入して中和しなければならないほど酸性が強く、とても飲料には適していないという。その中和してできる固形物を上流のダムで濾した水を流しているという。それを溜めるのが八ッ場ダムだというのだ。    そうした状況を詳らかに水を供給するとしている都県に情報提供をしてきたのだろうか。現在、夏の渇水期になると東京都では節水を呼び掛け、時には断水するというのなら緊急性があるが、八ッ場ダムは計画から半世紀が過ぎようとしている代物だ。つまり現実的にはあってもなくても良い、というものなのだ。それをこれまで大金を投じたから完成まで強行しようとしているに過ぎない。    米国や先進国ではダムを取り除いてかつての川に戻そうとする動きがある。つまり川の水をごっそり堰き止めて人間が使うのは自然に大きな負荷をかけている、とする考えだ。事実、ダムを作ったことにより山のミネナルが海に注がなくなって、海が栄養失調のようになったり、川から山の砂も海へ運ばれなくなって海岸線が痩せているという。    これまで要した八ッ場ダムのすべての経費と、その使途を国民の前に明らかにし、今後必要とされるダム本体工事費と、その完成後の長所と短所をあからさまにして提示してもらいたい。そして今まで八ッ場ダム関係で幾つの外郭団体が作られ、そこに旧建設省も含めて国交省の役人が何人天下ったか、今何人いるのかを明らかにすべきだろう。    今後も東京に人口密集傾向が続くとは思えないし、水も循環型で使うようになって新規水需要は加速度的に低下している。そうした現状を踏まえて、それでも作りかけたダムは最後まで作らなければ気が済まないとする理由は何かを知りたい。  長い歳月をかけて国が水没予定地区住民に働きかけて地域社会を破壊してきたから最後まで作るべきだとするのは暴論だ。確かに長年住み続けた土地を奪われ地域社会から暮らしの基盤まで破壊した国家権力には腹が立つし無念なのは理解できるが、これ以上自然に負荷をかけるのは止めようではないか。    これからダム本体を造るのと撤退するための経費補償が同じ額だけ必要だとしても、やめるべきだ。ダムはダムだけを作ってもものの役

「定見なき迷走」ではなく「上っ面のポピュリズム」だ。

 何とかして国民の歓心を買おうとした変節が国民の支持を失った原因ではないだろうか。去年の夏に掲げたマニフェストを愚直に遂行していれば、こうはならなかっただろう。    誰の入れ知恵か知らないが、民主党政権は折角自民党政権と異なる対立軸を掲げて国民の支持を得て政権交代を果たしたにもかかわらず、次々とマニフェストを弊衣のごとく脱ぎ捨てた。    コンクリートから人へ、の掛け声は間違っていない。これまで通りの道や箱モノを作り続ける公共事業を継続することはできないのは誰の目にも明らかだ。これまで建設してきた橋梁の安全確保や道路の安全確保や維持管理費に多大な経費を必要としてくる。やがて耐用年数を経過した橋も架け替えなければならないだろう。    基本的な制度設計の数値として、この国は人口減少期に入っている。現在の出生率からいけば、百年後には日本国民は半数になる。半数で現在のインフラを維持するのは困難かもしれない。国家財政の現在の危機もさることながら、将来来る危機に対して基本的な対応策を長期戦略に織り込まなければならないだろう。    肥大化した官僚組織、各省庁の外郭団体・利権団体として存在する万を超える官僚天下り先を養っていく余裕は国家財政になく、国民はこの国のカタチを変えなければ幾ら増税しても穴の開いたバケツにいくら水を入れても徒労に終わることを認識している。今回の選挙結果は民主党に厳しく出たが、官僚制内閣に回帰することを国民は望まないだろう。    いずれにせよ、民主党は困難な国会運営を強いられることになる。野党に政権運営の協力を仰がなければならなくなった。しかし、そのことにより益々去年の夏の民主党のマニフェストから遠く離れるのなら、国民は民主党政権を見放すだろう。    この国のカタチを考えるなら、少子化社会を乗り切るには現在の巨艦大砲主義のような官僚組織ではできない。国家組織を軽快なクルーザーにしなければ国家運営も激動の世界情勢に機敏に対応できないだろう。そうした側面は各種大規模プロジェクトの売り込みで後塵を拝していることからも明らかだ。    今後の成長戦略は何かといえば、民間企業が伸び伸びと運営できるように規制をなくし税制を改革することと、出生率を上昇させる試みを力強く遂行することだ。国家でできる直接投資はたかが知れている。今後は民間の力を借りなければ国家投資もで

後世の歴史が暴く真実に震えろ。

 最高機密の外交文書も三十年後には公開することになった。それも民主党政権に交代した大きな効果だ。    それによって明らかになった真実の一つに非核三原策がある。「造らず持ち込まず持ち込ませず」という原則を沖縄返還時に時の首相佐藤栄作氏が表明したものだ。    しかし、当初から米軍艦船に積載した核兵器を一々日本に入港する前に下ろすことはありえないし、下ろすとも下ろさないとも発言しないのが最高機密たる所以だとして米国も明確な回答を拒否した。    しかし、日本よりもいち早く外交機密文書の三十年原則を実施している米国から「非核三原則」は嘘だったとの報道がもたらされた。それにより、日本の外務省も国民を欺き通すことが困難となり、非核三原則は当初から破られていたと白状した。    だが、問題はこれからだ。当時の毎日新聞記者西山氏が外務省職員の蓮見氏から非核三原則がまやかしだとする外交文書をスクープして報道した。国会でも問題となり喧喧諤諤たる論争が巻き起こったが、結局蓮見氏は外交機密文書を漏洩した国家公務員守秘義務に抵触するとして責を問われ、西山氏も国家機密を男女の関係を利用して入手した卑劣な男として裁かれた。当時の週刊誌や月刊誌を紐解いてみれば、同じジャーナリスト仲間が報道源の秘匿や報道の自由の権利の支援に対していかに頼りにならないか明らかだ。    なにはともあれ、名誉を失墜され刑に服した西山氏のスクープが正しかったと外交機密文書の公開で明らかになったが、彼らの失った歳月は到底取り戻せない。当時のジャーナリスト諸氏も大半は引退され現場にいないかもしれないが、大マスコミがどのように立ち回ったかを省みて心の底から反省してもらいたい。    今回の小沢氏に関わる「政治とカネ」問題も、署名なしで散々書きたてた記者たちは肝に銘じておくが良い。いつの日にかその問題に関しても裏筋が公開され、記者諸氏もそうした勢力の協力者として永遠に残るジャーナリスト史に不名誉な名を刻むことになるだろう。    当然、それだけの覚悟がなければ一人の稀有な政治家の進路を邪魔し、影響力を殺ぐことは出来なかったはずだ。覚悟の上で卑劣な人権蹂躙のキャンペーンに加担したのだろうし、今回の参議院選挙に関しても国政を世論と称する手段で操作する一助として加担したのだろう。大マスコミは戦前・戦中の戦争高揚報道の反省に立つこと

安定か暴走か、ではなく

 半世紀以上に亙る自民党を中心とする政権がこの国を経済的に繁栄させた半面、この国を理念なきご都合主義の国に貶めてしまった。その最たるものが米国追従の外交と、この国の安全を米国に依存し続ける防衛体制にある。そのために国民から国を守る気概が失われ、経済最優先の考えと生活が身に染みついた。  そうした55年体制と決別したのが去年に夏の総選挙だった。国民が国民の手によって戦後初めて本格的な政権交代を果たした劇的な民主主義の結実だった。  その新政権の首相となった鳩山氏が辺野古沖への移設を拒否して普天間基地を国外へ、最低でも県外へ移設しようとしたのは至極当たり前のことだ。そもそも千人前後の米軍海兵隊が沖縄からいなくなれば極東の平和が脅かされる、とするのはまやかしだ。現実にその部隊が軍事作戦を展開しているのは専ら中近東とアフリカだった。極東の何処へ行ってどんな作戦を実施したというのだろうか。    日本の防衛に直接関与してこなかったとしても、沖縄に米軍海兵隊がいることが抑止力だとする論を言う人がいる。しかも軍事専門家と称する人たちもいるわけだが、本当なのかと疑いを持つし釈然としない。海兵隊の役割とは防衛が任務ではなく、別名「殴り込み部隊」といわれるように、敵を海から急襲して上陸進攻する陸軍を助けるものだ。よって米国本土よりも海外に大部分の部隊が展開し、日本でも岩国などに米軍海兵隊の部隊がいる。    鳩山氏はそうした海兵隊の実態を国民に論理的に説明して「海外移転」を実施すべきと国民を味方につけて米国に迫るべきだった。そうした手順を踏んでいれば大マスコミも「軍事的に素人だ」と鳩山氏を決めつけ、素人が米軍再編に口を出すな、既に日米軍事専門家同士で協議決定済みの案件だと、碌な解説記事すら出ないまま轟々たる鳩山バッシングのうちに沖縄県民の希望を打ち砕いた。日本の大マスコミは反鳩山キャンペーンの嵐の裏側で何を国民の視線から隠したのか、今はうまくいったとほくそ笑んでいるかも知れないが、歴史は必ず真実に光をあてる。やがて大マスコミの国民に対する背信行為は明らかになるだろう。    しかし、とにかく「学べば学ぶほど…」と鳩山氏は変節した。当初掲げた日本を真っ当な国にするとした意図をあっさりと放棄した。そして自民党政権が米国と合意した線で再決着した。菅氏もそれを前提として普天間基地移設を図るとし

マスコミとはそうしたものだ、という認識。

 菅氏が人気急落の責任は消費税増税論議を恰も既定事実であるかのように報道したからだと、マスコミを非難しているという。なんともお気楽な人だ。小沢氏の一件を見ればいかにマスコミが悪意に満ち底意地悪く執拗なキャンペーンを張るか、歴然としている。それを他山の石として肝に銘じて対処しなかった菅氏の脇が甘かったということだ。    自民党総裁が「政治とカネ」の問題もケリをつけないで平然としている、と暗に小沢氏の批判を街宣でしたようだが、それでは自民党の国会議員がすべて身綺麗な人たちばかりかお伺いしたい。そして、小沢氏のどこに説明不足があるのか暗愚にして知らないためご教示願いたいものだ。検察が不起訴とした案件に被疑者として強制捜査まで受けてとことん事務所のゴミまで穿り返された挙句に何も出なかった。当の小沢氏に検察も検察のリーク情報としか思えない記事を連日書き連ねて小沢氏の名誉を著しく毀損しておいて平然としているマスコミの方こそ説明責任があるのではないだろうか。    いよいよ明日が参議院選挙の投票日だ。マスコミが執拗に普天間基地移設問題で「県外」と口走った鳩山氏を追い詰めて政権の座から追い払い、併せて小沢氏までも党の要職から追いやって、あとは子供のような烏合の衆の政権獲得以前の民主党の面々に戻してしまった。これでは政権党として小沢氏が築き上げた戦略の継承どころか、菅氏も舌禍で支持率を落とせば枝野氏も敗戦を予測するかのように選挙後の連立相手を言及してみたり、到底選挙を戦っている政党の幹部とは思えない立ち居振る舞いだった。議席を大幅に減らすと各大マスコミが競うように予測して、落ち目の民主党にさらに追い打ちをかけている。    少しまともな観察眼と分析力があれば、大マスコミはこの国をどうしようとしているのか紙が透けるように見えてくる。米国から要請される「行政改革要綱」を忠実に実施して米国の属国にこの国をすることが目的なのではないかと思える。そのためには子供閣僚はいても良いが、骨のある国会議員がいては困る。 駐留米軍は第七艦隊程度で良いのではないか、という人物が政権の中枢に座ると官僚も米国もさぞ困ることだろう。  明日の選挙結果がどう出るにせよ、菅氏とその政権には退陣してもらわなければならないだろう。参議院選挙ですら政権当事者として満足に仕切れない人たちが、この国の内政にあっては困難な財

物見のつもりが海外からは厳しい評価が。

 マスコミが「与党過半数割れか」と騒ぎ立てて、いよいよ国民を民主党潰しに追い立てている。勝ち馬に乗りたい心理からいけば、落選しそうな人の名前を投票用紙に書きにくいものらしい。根拠のないムードで一旦持ち上げておいて「消費税」のオウンゴールをことさら騒ぎ立てて民主党を叩きに叩いた。そしてトドメを刺すように「与党過半数割れか」と民主党苦戦の宣伝を選挙終盤になってこれでもかと繰り広げている。    その結果が早くも日本国債の値動きと国債金利に表れている。つまり菅首相が「財政規律」を謳った当初は日本も財政再建へと向かうと判断した市場が国債の「買い」に走り、国債の価格は上昇し国債金利は下がっていた。一時は1%を割り込むのではないかと見られていた。がここ数日、マスコミの与党過半数割れの報道により「消費税」が選挙後に議論されなくなる恐れが出て来たと認識し、市場は国債の値下げと国債金利の上昇へと動いている。    現実の先取りするのが市場だからマスコミの思惑通りに選挙結果がなれば政局は激しく動くことになる。いかに枝野子供幹事長が「菅首相続投」を口走ろうと、与党で過半数割れすればすんなりとそうはならないだろう。第一、誰が他党との連立交渉をするというのだろうか。身の回り一mすら見えない子供幹事長は選挙のさなかに選挙の敗戦処理と新連立候補に言及するほどの愚かさだ。その程度の幹事長に敗戦処理は手に余るだろう。    ただ言及しておかなければならないのは、マスコミが民主党潰しから政局へと日本の政治を動かそうとしているように見えるが、その動きから早くも国債金利が上昇していることだ。僅かに0.5%程度の動きではないかと軽く見てはいけない。毎年新規に発行されている国債がいくらあるか考えれば、その程度の金利上昇でも国としては短期的に2千億円ほどの損失になるのだ。しかも市場で国債の引き受けがなくなれば「あっ」という間に暴落することもあり得る。自由な報道の名を借りて、実は大変危険な「遊び」をマスコミはしていることに気付かなければならない。    民主党与党が過半数割れしたら政局が動いて面白いことになるぞ、とジャーナリストが考えているとしたらとんでもないことだ。確かに新聞や週刊誌や雑誌は売れるだろうが、国民生活の根幹をなす国家財政を混乱の渦に巻き込むことになりかねない。  まともな議論として「消費税」に政治

中国『元』の弾力的運用とは。

 中国は実にうまく立ち回っているようだ。『元』の為替相場について米国から対ドル切り上げ圧力を誤魔化し誤魔化し対処している。その手腕を日本の財務省と外務省は見習うと良い。    1985年のプラザ合意前後に米国がいかにえげつない圧力を日本にかけたか。トヨタ車を米国自動車産業労働者がよってたかってハンマーで叩き壊すパフォーマンスを演じて見せたりした。それを日本のマスコミは米国の忠実な犬として「大変な事態だ」と国内に報じた。日本の国益を優先して論評を加えなかった経済評論家も酷いものだった。嘘だと思うなら雑誌のバックナンバーを検証してみると良い。    この国の(ということは「国民の」ということだが)国益がいかにドルに吸い取られたか、わずか10年にして1/3まで切り上げられたエン高不況を乗り切るために金融緩和に次ぐ緩和を繰り返し、仮需要が風船のように膨れ上がって、ついにはバブル崩壊による金融・不動産不況に陥った。今もその金融・不動産不況の影響下にあるといってよいだろう。    中国は過熱状況の経済をいかにしてプラザ合意後の日本の轍を踏まないようにするかに腐心しているのだろう。だから「弾力的に運用する」としながらも僅かしか元を上昇させていない。それは実質的にそれ以前の標準為替制と大して変わらない相場だ。米国の言いなりにはならない、とする中国の強い意志が感じられるが、それも長くは続かないだろう。傲慢にして我儘な米国がこのまま引き下がっているとは思えない。    中国産業は国内で賃金上昇圧力にさらされている。しかもITソフトの公開を巡って対立したことから、外国企業は先端技術部門を中国国内から撤退し始めている。台湾の巨大ITメーカーも中国に置く生産拠点40数万人の従業員を数年後には8万人程度まで縮小すると発表した。それは台湾だけの問題ではない。中国はITソフトの公開を今後も執拗に求めてくると思われる。企業の最高機密を公開すれば、中国は翌日には「自分の技術」と言い張ってコピー商品を作って、今度は強力なライバルになるだろう。  これまで外国企業の資金と技術で実現してきた驚異的な経済成長を今後も維持するのは困難だろう。    高度経済成長の中に塗り込められていた社会の矛盾が白漆喰が剥げ落ちて土壁が出て来るように、広い国土の各地で今以上の規模と頻度で紛争が起こるようになり中国は国家として不

宗教と政治は相容れるのか。

 各団体が何でもあれ、の感覚で選挙に関わっているようだ。特に現世利益と最も遠い存在のはずの宗教団体までも政治に関与するとは、宗教そのものの在り方を問われかねない現象だ。    宗教信者にももちろん思想信条の自由はあり、個々人には立候補する権利も選挙で投票する権利もある。それは充分に承知した上で、それでも宗教は政治に関与すべきではないと思う。なぜならあらゆる宗教には基本的に「思考停止」が教義に組込まれているからだ。自分の考えで宗教を判断して、科学的に分析思考しては成り立たないものだ。たとえばキリスト教では「三位一体」や「復活」などが教義の基本をなしているが、そんなことはありえないと教えるのが科学的思考だ。    宗教者は全面的な帰依を信者に強いる。また強いることが出来なければ宗教とはいえないかもしれない。宗教には一種自主的な陶酔と忘我の境地が必要だから、当然宗教者が信者の意思を操るのは簡単なはずだ。また操れないようでは宗教とはいえず、ヨガ教室と同等なサークル活動ということになるだろう。  つまり全面的に帰依して宗教者の前に没我の境地にある者に対して宗教者が信者に投票先を指示すれば大いなる政治への介入ということになりはしないだろうか。信者は宗教活動を通して宗教者に反抗できない精神構造になっていて、宗教者の言うがままに投票すれば、個々人の自由意思に基づく選挙活動と投票を保障している「公職選挙法」に抵触しないだろうか。ちなみに教職者の立場を利した選挙活動は制限されている。    世界には宗教による戦争があるほどだ。中世の十字軍の大遠征もさることながら、現在の中東戦争もそうした色合いを濃く反映してはいないだろうか。各宗派ともすべてが人類の平和と争いのない世界実現を教義の中で謳っているにもかかわらず、宗教による戦争が起こっているのは世界の一大不思議だ。だがそれが現実なら、宗教とはそこまで個々人の自由意思を縛り、個々人の幸福希求を超越するものだということだろう。  宗教とは恐ろしいものだ。自由主義の基本に反する側面を大きく持つ。信心とは思考停止と同義語ですらある。とくに日本の新興宗教を観察するとそうした感を深くする。そのような教団が政治に関与するのは憲法に謳っている自由主義と相いれないのではないかと思うのだが。

靖国に参拝するのは首相として当然のことではないだろうか。

 間違ってはいけない、東京裁判でA級戦犯とされた人たちは国会で全会一致の賛成で名誉回復している。靖国神社に参るのは思想信条の自由を保障されている国民として何の支障もない。むしろこの国のために戦死した人たちを祭っている神社に参詣して頭を垂れることで近隣諸国と関係がおかしくなるのならなってもいいではないだろうか。  この国のために命を捧げた人たちに何の罪があるだろうか。米国の独立戦争や世界大戦や朝鮮戦争やペトナム等で戦死した無名戦士の墓アーリントン墓地に諸外国の元首で米国へ行った人たちは必ず献花するではないか。それと靖国に参拝するのとどこが違うのだろうか。    菅氏は何を考えているのか、理解に苦しむ。キリスト教に帰依したから靖国に参拝しないというのなら宗教の自由だから敢えて「靖国へ参拝せよ」とはいわないが、参拝した小泉氏を批判することはない。日本国の首相にしてその程度しか国に尽くし命を落とした人たちに対する尊崇の念しかないのなら、今後この国の国民がこの国を命を賭して守ろうとはしないだろう。それで国家として独立が保てるのか。近隣諸国は日本がいつまでも腰抜けで日本人が日本を守ろうし永遠にしないような仕掛けを日本の一部マスコミと共謀して靖国神社に持ち込んだのだ。血塗られた歴史を持たない国家があったらお目にかかりたいし、そのことに嫌悪感を抱いたら国防の最前線に国民が立つことはできないだろう。    あなたが一左翼の市民運動家ならどんな言動をしようとも意に介さない。しかし今のあなたは立場が違う。日本国の首相として近隣諸国に何を発信すべきか、先日の仙谷氏と同じく国際感覚の著しい欠如に驚く。繰り返すが、あなたは一市民運動家ではない。日本の首相としてこの時点で外国軍が攻めてきたら最高司令官として自衛隊を指揮する立場にある。彼らは戦死も覚悟であなたの命に服する。そのあなたが靖国に参拝しないと明言したのなら誰が命を的に前線へ赴くだろうか。平和ボケした国益を損なう発言は厳に慎むべきだ。選挙に通っても国を任せる首相の適格試験を誰かが課さなければならないほど、この国の政治家は国際的に非常識な連中の集まりなのだろうか。

調子者の菅氏や閣僚は大丈夫か。

 財務官僚や自民党の罠に易々と嵌ったお調子者の菅氏はここに到って軌道修正をしているようだ。国民的な合意どころか、民主党内でさえ党内民主主義を無視した「10%消費税」発言により、菅政権はマスコミと官僚の罠に嵌って支持率を低下させている。    その中で唯一朗報なのは小沢氏が着実に地方回りを「静かにしていろと言われたから静かに選挙応援をしている」と自虐ネタを盛り込んでやっていることだ。やはり百戦錬磨の勇士は少々のことではヘコタレない。頼りになるのは小沢氏だと有権者のみならずね民主党候補者たちは骨の髄まで分かったはずだ。    自分たちが成し遂げた政権交代の偉業でもないくせに、大きな顔をしてトンチンカンな発言を繰り返して顰蹙を買っている政府要人や党要人は、棚ボタの様にして手に入れた立場を利用して選挙の邪魔をしているとしか思えない。しかも彼らは小沢氏に感謝するどころか邪魔者扱いしているのだから驚くしかない。    選挙前に消費税10%に言及するとは愚かというしかない。その場合は「選挙後に与野党で税制論議を始めるが、まずは増税論議の前提として官僚の無駄遣いと人件費の抑制をすべきだ」程度の発言をしていれば間違いなかったのだ。その程度の進言すらできなかった首相の側近は万死に値する。政治を志した民主党候補者の何人かが今回の参議院選挙で落選したとすれば、その責任は菅氏と政府要人にあることは言うまでもないが、菅氏のスピーチライターと官房長官は即座に辞表を提出すべきだ。    適当にすべての政策に反対意見を述べていればある程度の支持率は集まる。共産党を見ていれば良く分かるだろう。そうした態度でいた民主党に改革をもたらし政権党へと導いたのは小沢氏だ。だから検察やマスコミは小沢氏を狙い撃ちしたのだ。  そうした意味では菅氏は歯牙にもかけられていなかった。他の連中はノーマークそのものだ、つまりそれほど小物だということだ。    国民はどのように判断を下すのだろうか。マスコミの思惑通りにネジレ国会となって政治が機能不全に陥って官僚がますます幅を利かす最悪のシナリオを選択するのだろうか、それとも昨年夏の選択を推し進めて政治家主導の政治へこの国を導くのだろうか。すべては国民一人一人の手の内にある。

政治は官僚の掌で踊る。

 鳩山氏の人気が高いのは国民の健忘症によるのではないだろう。元々誰からも憎まれない人柄と、適当に無責任な人なのだ。  彼が失脚したのは何年も手つかずだった母親からの財産移譲を突如として「市民」による告発を受けて検察が捜査した「政治とカネ」による問題と、普天間基地の移設先が「なぜ辺野古沖なのか、他の土地ではいけないのか」と素朴な思いから「最低でも県外」と口走ったことから巻き起こった一連の鳩山バッシングによるものだった。  だから首相辞任による「責任」の取り方でケリがつくものではないが、「政治とカネ」は不起訴で終息し、普天間基地移設問題は何ら納得のいく説明らしい説明もないまま元の木阿弥の辺野古沖で決着がついた。轟々たる嵐のような鳩山非難のキャンペーンは何だったのだろうか。検察とマスコミのタッグチームによる攻撃に鳩山氏が撃沈されただけだったのだろうか。    菅氏も同じように「二階の梯子」を外されて支持率が急落している。マスコミがあれほど「責任ある政治家は増税論議をすべき」と囃し立てていたものが、いったん菅氏が「消費税増税」を口にすると得たとばかりに攻撃に転じた。  今度は検察ではないが、やはり財務省という「官僚」のレクチャーにまんまと乗せられ、マスコミによる攻撃を受けているのだから、鳩山氏がやられた図式と全く変わらない。つまり民主党政権を潰したい勢力による世論操作に国民が操られている状況は何も変わっていないのだ。    官僚にとって首相や大臣は一年程度でクルクル代わる方が望ましい。長年居座ってガバナンスを発揮されるとややこしいが、大臣に就任しても椅子が温まる暇もないほどで去って行く方が素人相手に誤魔化しができる。いくら門外漢でも一般的な学識があれば、官僚の役所仕事程度のものなら一年も椅子に座って話を聞いていると大体の概要が掴めるだろう。それが事務次官よりも長く役所にいて省内の様子に詳しくなると困るのだ。だから適当にあしらえる程度で大臣は代わってもらわなければならない。  去って行った鳩山氏に官僚もマスコミも怨念はなく、人の良い人柄そのままに国民もわずか一月前の騒動はきれいに脳裏から去っている。つまり毒にも薬にもならない人だったということなのだろう。    しかし、これではいけない。いけないというのは官僚への私恨からではない。現実にここ二十年ばかり碌な仕事を官僚は国民のた

国際的な常識の欠けた政治家は排除すべきだ。

 本当にこの人は閣僚として適格性があるのか、それともいい年をした子供が胸元に議員バッジをつけて言いたい放題を言っている冗談なのか疑ってしまう。国際的な常識からいえば、日韓基本条約でケリの付いた韓国人個人の財産権に日本の閣僚が言及するとは驚くべきだ。それを韓国の側から言い出すのなら話は分かるし、その場合には厳然として「解決済みである」と突っぱねるのが常道だ。それを日本の政府要人から発言するとは、仙谷という政治家の頭はどうなっているのだろうか。    韓国の国民が要求してきたのなら話は分かるし、実際何件か日本の裁判所にも提訴された。それは韓国政府のガバナンスを無視した韓国民が日韓基本条約を無視した請求を日本政府に行うのを制止できない韓国政府の無能さを国際的に露呈していただけだし、国家間の基本条約で解決済みとなっているとして門前払いしてきた日本の裁判所の対応は正しく一貫している。その司法の判断を飛び越えて行政府の政府要人が言及するとは何を考えているのだろうか。仙谷氏の発言によって今後生じる経済的な国家損失は仙谷氏が個人的に支払うとしても、財産権だけにとどまらず精神的な損害にまで提訴が及ぶとどのように対処するつもりだろうか。    韓国人のケースにだけ仙谷氏は言及したようだが、反対に半島にすべての財産を置き去りにして帰国した引揚者に対して、この国は何をしたというのだろうか。戦前・戦中はあれほど大陸へ進出すべきと国家を上げて宣伝しマスコミもその片棒を担いだ。その国策に従って半島や満州や台湾へ国内から家族とともに移住して苦労して築き上げた財産のすべてを失った国民に対して日本国は一円たりとも損害補償していない。もちろん韓国も損害補償をしていないし、それでお互いに日韓基本条約で個人的な損害はチャラにしようとした日本国民にとって損害の大きな条約だったのだ。  韓国人の財産権に言及するのなら、日本人の半島に置き去りにした財産権はどうなっているのか国は調査すべきだ。少なくとも、日本は半島や台湾と交戦して撤退したのではない。戦後の混乱期とはいえ、棒を持て追われるように命からがら逃げ帰った日本人の労苦の一端なりとも仙谷氏は分かっているのだろうか。    仙谷氏の発言が世界に配信されると、おそらく日本政府は世界の笑いものになるだろう。官房長官たる仙谷氏は二度と国際的に非常識な発言は国益のために

なぜ「離れ」を作るのか。

 自治宝くじが天下りの温床になっているという。それは何も自治宝くじだけではないだろう。果たして文科省管轄のロトはどうだろうか。    宝くじは民間が勝手に実施することできない法律の縛りがある。それなら官庁の別組織とする必要はなく、官庁の中に取り込む方が何よりも良いだろう。そうすると一丁上がりの元事務次官などが天下るポストでなくなり、むしろ省庁の出世ラインから外れた窓際扱いをされるだろう。    別組織にするから国会審議の対象から外れて、離れというよりも功成り名を遂げた官僚が天下る別荘になるのだ。省庁の内部に取り込めば入金も財務省で一括管理できるし、その分配も財務省の予算審議対象となり地方交付税との按分から適正配分となるだろう。いたずらに「自治宝くじ」と大書した車が街中を走り回ることもなくなる。    今ある仕組みのまま引き締めを行っても一時的な効果しかなく、やがて元の木阿弥になるのは目に見えている。抜本的な改革をするためには官庁にしかできないことや官庁にしか許されていないことを行う組織・団体はすべてその官庁の内部組織に取り込むことだ。そうすれば国としてのガバナンスが働き天下りはすべてなくなることになるだろう。

自民政権へ回帰するのか。

 ここ二十年、バブル崩壊以降の日本の政治は余りに酷かった。経済で自信を失うと、政治までも明確な目標を失ったかのようだ。ただ政治も官僚も手を拱いている間に企業の生産手段の中国移転は加速度的に進み、国内雇用力の低下は深刻な事態となり就職氷河期は慢性的になり、ついにこの四月の大学新卒者のうち7人に1人が就職できなかった。    この成長なき二十年間は政治家だけでなく経営者にも問題があった。企業利益を上げさえすれば何をしても良い、との倫理観なき経営が定着し市場原理主義の小泉政権により派遣業の歯止めがなくなると労働力の流動化が始まった。それをマスコミも良いことだ、と歓迎し生涯に何社も転職することが世界のトレンドであるかのように囃した。ただ、一つの業界だけは頑なに終身雇用制どころか生涯雇用制の城壁を築き上げてしまった。それは税金を食って肥大化している官僚機構だ。    9ヶ月前に国民が総選挙で自民党と公明党の連立政権に「ノー」を突きつけたのは官僚制内閣に対してだった。彼らがしてきたのは米国から要求された「行政改革要綱」に対する理念なき盲従だ。あたかも戦勝国が従属した国に対するかのような要求に対して、日本は屈し続けついには米国ですら官業のままい国内均一サービスを維持している郵便事業まで民営化へ踏み切った。その有様は屈辱的ですらあった。    当然ことだが、米国の政権交代した民主党に対する態度は素気ないものだった。鳩山氏が米国で開催される国際会議に渡米すると鳩山氏だけはまともな会談もせず、メシの合間に10分間だけ話したに過ぎなかった。カナダの会議へ出かけた菅氏に対しても各国首脳と話し合った最後にわずかな時間話し合っただけだった。それが同盟関係を謳う国に対して取るべき態度なのだろうか。これまで日本が米国に果たしてきた国際的に大きな役割に対して、余りにバカにしていないだろうか。    今回の参議院選挙で民主党は苦戦しているという。自民党政権への回帰に燃える官僚と親米マスコミの誘導により菅氏は昂然と「消費税増税」を口走った。政権は国家財政に責任を持たなければならないというが、そんなことは菅氏に言われなくても国民は分かっている。ただ官僚たちの責任はどうなっているのかを問いたいのだ。政治家の影に隠れているが自民党政権下にこの国を動かしてきたのは実質的に官僚だったと国民は知っている。同時にその

朝令暮改の政策とは。

 この頃、政治家が軽くなった。大物然とした風格のある人物がいなくなったと思ったら発言までが軽くなった。当然しかるべき機関で協議し、それには民間の有識者や野党代表も加わって慎重に結論を出すべき消費税増税に関して、まるでバナナの叩き売りのような首相発言だ。    権力の座にあることと責任ある発言をすることとは同じことだ。首相の発言がマスコミにより取り上げられ批判を浴びるのは当然のことだ。よって首相の発言はあらゆる批判に耐えられる叡智を込めたものでなくてはならない。それが税の還付(それが実施可能かも検討していないいい加減にして乱暴な制度だが)は限度年収を200万円にするだとか、また400万円にするだとか、相手と場所が変われば少々変えても分からないと思っているのだろうか。    消費税率が日本は欧州諸国と比較して低いからもっと上げる余地があるとするのは詭弁だ。欧州諸国は食料品や衣料品に消費税をかけていないか、かけていても非常な定率を課しているに過ぎない。そのため税収に占める割合は日本の5%消費税と20%前後の欧州各国と大して変わらない。官僚のレトリックを検証もしないで日本の消費税は低率だと一緒になって消費税増税を煽るマスコミや評論家は不勉強そのものだ。きちんと実情を調べて日本の消費税を語らなければ国民を惑わす官僚の走狗といわれても仕方ないだろう。    それでも増税を国民にお願いしなければならないのなら、この夏の公務員一人当たり平均賞与80万円は何事だ。民間企業で破綻寸前の状態で従業員に賞与を支払う会社があったらお目にかかりたい。平均給与も中央官庁で1000万円を超え、すべての公務員でも平均年収が700万円と、民間企業の、それも企業統計に乗る程度以上の民間企業ですら従業員の平均年収は460万円だ。これでも菅首相は国民に消費税率を上げてさらなる負担をお願いするのだろうか。当の国会議員も一人当たりにかかる費用は年間1億円ほどだといわれている。議員の数を減らすことを確約しないで、何事を言っても空々しい綺麗事でしかない。    その国の政治は国民のレベルを超えない、という。政界に大物がいなくなったのと同じで、日本国民も総じて小粒になったのだろうか。かつて若者は弊衣破帽で哲学書を読んでこの世を憂いていた。今の若者はどうだろうか。彼らが良き伴侶を見つけて家庭を営み子供を育てる。若者自身

定年退職後も7割が就労。

 おそらく、ほとんどのサラリーマンは定年退職後に用意された第二の職場で座り心地の良い椅子に座っているわけではないだろう。定年退職前から給与は社内の職能給から年俸制などへと移行して下がっていたが、再就職に際して給与は格段に下がり就労環境も悪化しているだろう。そうした職場でも働かなければならない理由が彼らにはある。    民間企業で3000万円前後の退職金が出ている所があるだろうか。ここ数年の不況で、大企業は別としてスズメの涙程度でもボーナスの出ている所があるだろうか。定年を迎えたとしても、安楽な隠居暮らしを楽しむどころではなく、老夫婦の暮らしを支え続けなければならない人がこの国にはたくさんいる。    まず、到底食えない国民年金があげられる。派遣社員やパートには厚生年金のない場合が多く、国民年金に入らなければならない。満期まで入っていたとしても6万7千円もらえるだけだが、掛け金を満足に支払えない人が多く、支給平均額は4万6千円だ。これだけでどうやって暮らせというのだろか。    厚生年金も平均支給額は20万円で、夫婦が年金で暮らすとすれば一人当たり10万円と、かなり切り詰めても苦しい暮らしを余儀なくされるだろう。それでもローンなどの負担があればたちまち暮らしに行き詰る。公務員は平均30万円の共済年金である程度優雅な暮らしが保障されている。しかも3000万円前後の退職金を頂戴しているから各種ローンを清算しても老後資金に不安はないだろう。    この国の不幸は年金制度にある。かつて年金は積立方式だった。団塊の世代が就職したころは積立方式だと説明されたはずだ。それがいつの間にか、正確には1985年に給付方式へと移行した。つまり積立方式では当時のインフレに追いつかないから積み立ててもそれで将来支給するのは困難だと、勝手な理屈をつけて厚労官僚が積立方式をやめてしまったのだ。それ以後はれいの老後世代一人を何人の勤労者で支えるか、という図が前面に出て掛け金の値上げが簡単にできるようにしてしまった。当時の政治家の罪悪のうちでも最大のものといえよう。彼らの無知に官僚が付けこんだのだ。    さて、当時の積み立て方式の積立金が幾ら残っているのか。年金担当官僚は明らかにすべきだ。よもや何かに使い果たして残っていないと言わせないが、政治家諸氏も官僚の屁理屈を見抜くだけの力量を持っていて欲しい

またぞろ、マスコミによる世論操作か。

 菅内閣の支持率が40%に激減しているという。それは消費税に言及したためだというが、与野党は消費税などの税制協議をすべきだとする意見も60%を超えているというのだ。なんとも不可思議な支持率でどう解釈したら良いのか。あるいは消費税をマニフェストに掲げた自民党への配慮かとも勘繰ってしまう。    世論調査を実施したというが電話による調査という乱暴なものだ。相手が本人か特定できないばかりか、設置電話なら当然対応する相手の年齢層も限定される。若者は設置電話を家に引いたりしない。さらに昼間に調査したのなら日中家にいる人が調査対象者だ。そうすると犯人捜査ではないが、大よその人物像が浮かび上がって来るではないか。  しかし、それならまたまた疑問がわく。高年齢層で昼間から家にいる人なら定年退職後の年金暮らしの人が当て嵌まるが、そうした人たちがちょっとしたことで支持者を変えるだろうか。簡単に宗旨替えをするのは無党派層と言われる若者の特権だ。頑固一徹の年齢層がわずか一週間で支持政党をコロコロと変えるとは思えない。    いよいよ投票日が近付いてマスコミは世論操作に乗り出したのではないかと思われる。支持率が下がったと騒ぎ立てれば、大抵の人は「そうなんだ」と思ってしまうだろう。「なるほどしょーもない政党だからな」と思えばさらに支持率は低下する。  反対に人寄せパンダで人気だけのペラペラの紙のような議員でも、応援に駆け付けたと囃し立てれば何となく陣営が盛り上がっているような錯覚に陥るものだ。選挙管理委員会はこの時期の、最低でも告示以後の世論調査の結果公表を禁じてはどうだろうか。それに週刊誌による獲得議席予測記事なども有権者に予断を与える選挙チラシの一環として公表の制限をすべきだろう。    さて、マスコミが掲げる内閣支持率だが、それを国民が検証する手段は何もない。勝手に捏造されていても、誰にも分からない。記事を書いた記者さえも、自分ですべてに電話して調査したものでない以上、断定的な数字をでかでかと一面に掲げるのは気が退けるのではないだろうか。それを堂々とやるのは、世論操作目的があると疑われても仕方ないだろう。公職選挙法に抵触しないか、各選挙委員会は真剣に検討すべきと思うがいかがだろうか。

それほどの思いがあるのなら。

 菅首相が北朝鮮制裁に毅然たる態度を示したというのだが、本当かと思わず疑った。かつて 辛光洙 (シン・ガンス)もと死刑囚を含む北朝鮮の拉致実行犯の釈放を求める 韓国 大統領あての「要望書」に署名した実績が菅氏にあるからだ。    その菅氏が首相になり突如として国益に目覚め、国家と国民に奉仕する義務感を身につけたのなら大慶の至りだ。しかしポピュリズムの一環として日本国民と国際世論に対してよりもオバマ大統領に対して気を使っての発言なら割り引いて評価しなければならない。    それと符合するかのように、菅氏は持論としていた米海兵隊無用論を取り下げたようだ。何とも簡単に持論を店の看板でもやりかえるように架け替えられるものだと呆れるばかりだ。そうした場面場面で言葉を使い分けるのでは信用のおける人物だとは言い難い。    仏教の教えに「嘘も方便」とある。菅氏が何か大業を為すために、ここはオバマ大統領に取り入っておこうと考えたのならそれはそれで理解できないでもない。政治とは所詮権謀術数の世界だ。謀ったり謀られたりするのが政治の世界の常だ。大義として国家と国民のためとの背骨が通っていればいつかは評価される。しかし、鵺のように自分だけが生き延びて一将功なって万骨枯る、では困るのだ。    長い世界の歴史を見ても、他国の軍隊が独立国家に延々と駐留し続けることはありえない。いつかは撤退しなければならない事態に到のは当然の理だが、その切っ掛けとして誰がどのように米国に働きかけるのかが問題だ。もしかすると田中角栄氏のように米国発の疑惑事件をでっち上げられて、この国の検察がそれに加担し親米マスコミがキャンペーンを張って潰しに掛るかも知れない。    国の将来を見据えた議論を始めなければならない時期に、この国の政治家はまだ寝とぼけたような発言を繰り返している。せめて今度の参議院選挙では何が国の骨格で、何が国の枝葉末節か、適切に判断のできるまともな政治家が一人でも増えることを切に願う。