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野田首相、今度は行政改革に「不退転の覚悟」で臨むという。この人は何でも不退転の覚悟をする人らしい。

「不退転の覚悟」が好きな人だということがよく分かった。野田首相のことだ。今度は「不退転の覚悟」で行政改革をするという。  大袈裟な言葉を連発すると、ついに大袈裟な言葉も慣用句になることを野田氏は知らないようだ。例えば野田氏にとって朝起きて歯を磨くのも「不退転の覚悟」だろうし、靴下を穿くのも「不退転の覚悟」で穿くのだろう。    行政改革は2009民主党マニフェストで高らかに謳っている。これまで何もやって来なかったのが民主党のマニフェスト違反だし、政治評論家たちが民主党政権をマニフェスト違反だと揶揄する所以だ。だから野田氏が「不退転の覚悟」で臨むほどのことでもなく、民主党政権に賭けた国民の意志を素直に体現すれば「まず行政改革」ということになるのが当然すぎる道筋だ。それを怠って「不退転の覚悟」で消費増税に邁進してきた野田氏が民主党の本筋から外れた外道だということに他ならない。    野田氏だけではない。子供手当を反故にした岡田氏も外道だし、八ッ場ダム工事再開を許可した現国交相も民主党政権の外道だろう。もちろん最初に消費税10%を唐突に発言した菅氏も外道だ。  民主党の国会議員はどうして外道ばかり表に出て来るのだろうか。2009マニフェストを作ったマトモな民主党国会議員は何処へ行ったのだろうか。まずは小沢氏の党員資格停止を解いて、小沢氏に働いてもらおうではないか。そのことに民主党国会議員は全員が「不退転の覚悟」で臨まなければ「国民の生活が一番」の2009マニフェストの実現は困難だろう。

人口激減はすべてにわたって良くない。

 江戸時代、日本の人口は3000万人ほどで推移していた。内需のみの経済で国内生産穀物のみで養える人口がおそらく3000万人ということなのだろう。明治以降人口は増え続け、昭和初年に6000万人と倍増し昭和42年に1億人を超えた。  経済規模は人の経済活動によって決まる。その基礎となる人口が減少して経済規模の拡大を維持することはかなり困難だろう。    的外れな評論家が工業生産をあらゆる面でロボット化すれば人口減社会に対応できる、だとか、そもそもこの国に12000万人は多過ぎるのだから人口減少は望ましいと発言している。  いかに生産現場をロボット化しようとロボットがレストランで食事したり車を買うわけではない。経済規模の半分は個人消費だ。その大きな部分が半減して社会を現状のまま維持するのは困難だと容易に想像がつくだろう。    たとえば高速道路網をいかに地方へ延ばしてももはや必要とする人そのものがいなくなる可能性が高い。なぜなら政府は自治体機能を中心地へ集約するように方針を決めた。つまり平成の大合併を促進した真意はそこにあったとみるべきだろう。地方の小さな村や町の自治体機能を地方都市へ奪って、最後の止めに病院や図書館や行政窓口などの行政機能を集約化すれば周辺町村に人は住めなくなる。そうすれば「行政機能」は効率化し都市機能が向上するわけだ。    それが果たして望ましい社会だろうか。あるべき地方の伝統社会や伝統文化や伝統遺跡がものの見事に破壊され廃れていく未来がこの国にとって望ましい未来だろうか。あなたの祖先の墓が守る人がいなくなり1ヶ所に捨てられる石の一クレになることが、望ましい未来だろうか。  子供手当は必要だと、何度このブログに書いたことだろうか。2009民主党マニフェストがお手本としたフランスはついに特殊出生率2.00を超えるまで少子化を克服した。日本はこのまま行けば2060年には人口が8000万人台になるという。    退職した年寄にはそれほど高額な手当ては必要ない。せいぜい生活保護費程度の一律年金で良いだろう。それ以上欲しい人は働けば良い。個人的に保険会社の個人年金保険に入れば良い。そうした余剰となる年金部分を未来への投資として子供手当に充てることが必要だ。    国の支給する年金では贅沢な暮しはできないが、安定的な未来が見えれば若者たちは安心して子供をつくり育

財務シロアリ官僚に抗らえない野田首相が他人をシロアリと論うなかれ。

 かつては野党の1国会議員として官僚を「シロアリ」だと評していた男が首相になって立場が入れ替わると、その感覚までかつての自民党とソックリ入れ替わるようだ。だらしないというよりも、国民に対するこれ以上の裏切りはないだろう。羊頭狗肉という詐欺ならまだ羊の肉の代わりに狗の肉を売るからまだしも、野田氏は羊頭狗肉ですらない。肉を売らないくせに料金だけは頂戴しようというのだ。それでも国民が怒らなければ、この国の政治は実態なき言葉の氾濫ということになる。    野田首相は官僚たちの天下りを根絶したのか。官僚たちの離れを徹底して処分したのか。官僚たちの年俸を2割カットしたのか。そして天下り団体に垂れ流していた12兆円もの補助金の蛇口をキッチリと締め、2度と開かないように針金でグルグル巻きにしたのだろうか。そうした上で、国家100年の計を立てて明確な試算と数的な根拠を示して国民に説明したのだろうか。    そうしたこともなく、ただただ「増税にご理解を」と辞を低くし、公務員改革はおざなりの短期7.8%カットで「ご理解を」と、通ってもいない法案を指示して胸を張れるのだろうか。  1ドル76円台の超円高に輸出産業は窮迫している。日本は貿易立国でここまでやって来たが、愚かな評論家が米国の「日本は輸出よりも内需を拡大せよ」という命令を受けるや「内需拡大こそが日本の生きる道だ」と米国におもねて大合唱を繰り返した。その結果がGDPに占める貿易割合が14%とかつての半分となり、昨年度は通年で貿易赤字となった。31年振りだそうだ。    経産省は工場の海外移転を煽りはしなかったか。海外で縫製した安価な衣料製品を国内で大安売りする企業を、日本の大手マスコミは持て囃さなかっただろうか。その結果国内の縫製産業は壊滅的となり、国内から優秀な縫い子の仕事がなくなってしまった。  工場を海外移転したため、かつての下請け町工場は仕事が激減して「モノ造り」の技術継承が困難になっている。バカな経済雑誌が工場を海外、とりわけ中国へ移転するのが有能な経営者だと持て囃した結果が今日の国内産業の空洞化だ。安易な流行を囃したてるバカな評論家がなんと大きな顔をして、この国のテレビや週刊誌上に跋扈していることだろうか。    騙されないことだ。日本国民はこの国を根こそぎ破壊しようとしている連中の妄言に疑いの眼を向けることだ。現在では

試算も示さない「一体改革」とは何なのか。

 かつて年金改革で「百年安心年金」というのがあった。それも誤魔化しに過ぎないとすぐにバレてしまったが、「一体改革」が試算すら示さないその場凌ぎの創作だと自ら告白してしまったようなものだ。  しかし何とも分からないのが実際の支給額だ。<< 厚労省 が 民主党 の指示で昨年3月に行った財政試算では、必要財源は平成87年度で年61兆3千億円に達し、消費税率は17・1%となる。生涯平均年収が260万円以下の人に最低保障年金を満額支給し、690万円で打ち切る案を実行すると、年収420万円以上の人の支給額は現行制度を下回るとされる。>>と新聞紙上に掲載されているが、実際の年収モデルによる支給額はどこにもない。    年金を支給すべき財源がないのなら最低を確保した上で高額年金支給部分を圧縮するのが筋だ。どこまでも「現役年収の5割支給」というのが正しいのだろうか。つまりそれを根拠にすると年収420万円だった人の年金は210万円以上ということだろうか。690万円で基礎部分を打ち切るとはどういう意味なのか、690万円×50%-7万円(基礎部分)×12ヶ月という算式で得られる231万円という意味なのだろうか。それなら年収1000万円だった人は年金額が416万円ということなのだろうか。    年金額に現役世代の年収を反映させることがそれほど必要なのだろうか。負担した年金納付額によって差別するというのなら医療保険も当然そうすべきで、たとえば年間最低医療保険金しか支払っていない人は大部屋だが、年間50万円以上支払っている人は一人部屋に入れるという意味になるのではないだろうか。  年金に現役時代の年収を反映させなければならないとするのは高額年収を得ている人たちの発想だ。多く負担しているのだから多く頂戴しても良い、というのは応能負担ではなく「支給反映権利付き負担」とでもいうべきではないだろうか。それが死ぬまで国民を年金支給額で差別する合理的な説明になるのだろうか。    つまり「社会保障」としての年金とは何なのだろうか、という根本的な議論をしなければならないだろう。その高額な年金受給者の権利を確保するために広くすべての国民に過重な負担を強いる日本式消費税を17%にしなければバランスしない、という議論に合理性があるのだろうか。すべての国民一人一人に最低年金だけを等しく支給する

米国の要請に従って「内需拡大」を叫んでいたのは誰だ。

 つい先日まで輸出は他国に迷惑を及ぼす悪であり、内需拡大こそ望ましいと論陣を張っていたのは日本の大手マスコミではなかったか。その幇間評論家もテレビで同様な発言を繰り返し、企業経営者は工場や会社の海外移転こそ利益確保に必要だ、いやそれこそ世界戦略経営だと持ち上げていたではないだろうか。その結果が31年ぶりの貿易赤字だ。つまり日本が構造的に貿易赤字体質になるべく企業の体質改悪を延々とやってきた結果でしかないのだ。    先日このブログに書いた。かつてGDPの3割近くを締めていた貿易取引が14%と半減し、韓国や中国などが軒並み36%を超えているのと比較して「貿易立国」とはいえない状況に陥っていることに危機感を覚えない政治家は国家の全体像が見えない人たちだ。そして米国は集中豪雨的に米国市場へ輸出する中国や韓国に対してかつて日本に対して行ったような「スーパ301を発動するゾ」と脅さないのはなぜだろうか。あの国のダブルスタンダードは戦争に対してだけでなく、輸出に対しても露骨だ。    ドイツですら対GDPに占める貿易割合は35%を超えているし、あの経済停滞国家のイギリスですら18%と日本を超えている。「内需拡大」と馬鹿の一つ覚えのように叫んでいた御用経済評論家は罪の大きさを認識しなければならない。そして中国や海外で縫製して日本で安売りを展開する企業を持ち上げてきた大手マスコミも反省することだ。彼らの扇動によって消費者がそのような「利益をあげれば何を選択しても良い」という風潮に乗ってそうした企業の商品に流れ、その影響で国内企業が何社倒れたことだろうか。日本国内の高い縫製技術が廃れ、国内の製品開発力が損なわれた現実を直視して「安直な利益確保」戦略が実は日本国内産業力を著しく殺いできた経過を反省しなければならない。    海外移転した工場や海外委託した作業を国内へ戻すことに日本政府は補助金を出すことだ。その前提として為替相場が投機対象とされている国際金融市場に日本政府は警鐘を鳴らさなければならない。通貨交換レートは貿易実態に即して行われるべきだ。投機家たちのもうけの一手段として「自由」に放置しておくことは一握りの人たちの儲けのために国家経済に甚大な影響を及ぼす実例をあげて、日本は世界各国に「規律ある為替レート」を提言すべきで、それが出来なければ日本は中国と同じように一定の固定幅の中に

火事場泥棒の露国を非難し続けることだ。

 露国と議論すべきことは何もない。それにより露国との二国間関係が悪化しようが、日本にとって国益を損なうことは何もない。近年、シベリアガス田のガス供給を巡って、露国は日本の資金を必要とし、日本は露国のガスを必要とする、との二国間関係から改善しようとの動きがあるようだが、露国とはいかなる譲歩もすべきではない。日本の北方領土は日本固有の領土であり、露国とはいかなる事項をからめようと譲歩すべき余地は一寸たりともない。    シベリアガスの利用を露国がチラつかせようと、日本は余計な色気を見せてはならない。やがてメタンハイドレートの利用可能な技術開発はなされるだろうし、露国に頼る必要もない。かつて露国のガスに頼った欧州はどのような目に遭ったか、決して忘れてはならない。あの国は経済取引も国交に関する事項も味噌も糞も一緒くたにして恥じないお国柄だ。日本が露国のガスに依存すれば、それを梃子にしてどのような要求を受けるが分かったものではない。    それよりも毅然として「北方四島の返還」を要求し続けることだ。北方四島の解決なくして露国との国交打開の糸口はない、と日本の外務官僚は言い切る必要がある。万が一にも、普天間基地移設のように、外国の圧力に弱い日本の立場をバラシテはならない。それは日本外交の極秘事項だ。

「震災議事録」10組織なし、とはこの国で何が起こっているのか。

 国柄とかいう悠長な問題ではない。この国が民主主義なのかそれとも官僚独裁国家なのかという重大事が提起されているのだ。  今朝(1/28)の読売新聞が報じている。既に原子力対策本部の議事録がないというのが報じられているが、政府調査によると東日本大震災に関する15組織・本部の会議うち10組織の会議で議事録が未作成だったと明らかになった。官僚たちは何を考えているのだろうか。  この国は主権在民であって、国民が主人だと憲法に謳ってある。しかし官僚たちは勘違いして霞ヶ関も官邸もすべて自分たちの巣窟であって、政治家は偶々やって来たお客さんで一年もすると入れ替わる存在でしかない。だから政治家は主権在民の国民から権利を負託された代表であるという意識はなく、顎で使う存在としか彼らの目には映っていないのだろう。それならこの国は民主主義国家ではなく官僚独裁国家というしかないだろう。    この国の与野党の政治家は揃いも揃って官僚たちにここまで馬鹿にされている。大震災から10ヶ月以上も経って議事録が作成されていないということは官僚たちが会議そのものを隠蔽したかったからだと思わざるを得ない。その悪弊は既に小沢氏に対する捏造事件をデッチ上げた東京地裁第五検審会に議事録がないと公表して何ら指弾されなかったことから認知されている。  なぜ国会議員は国政調査権を行使して親小沢であろうと反小沢であろうと、国民の代表者たる国会議員に対する由々しき問題だと騒がなかったのだろうか。だから官僚たちは国会議員のみならず政府を舐めた。自分たちの無能さと当事者能力を欠く証拠たる議事録を作成しなかったと思わざるを得ない。いやもしかするとSPEEDI情報の取り扱いを議論した部分があって、米国には通知したが日本国民には通知しなかった犯罪行為を隠蔽しているのかもしれない。    現在開かれている第180通常国会で最大の議論の的は消費増税でも何でもない。この主権在民の憲法条項を無視した官僚たちの動きを問題にしなくて国会議員の存在意義があるのだろうか。主権者は国民であり政治家は選挙により国民から権利を負託されている。官僚たちは単に行政官として就職した人員に過ぎない。行政や外交や税の徴収などの権利を彼らが自分たちの権力だと勘違いしているとしたら由々しき問題だ。最低でもすべては政治家に開示されなければならない。それを公開するか否か

中国や韓国の史実に基づかないプロパガンダには政府が日本国民を代表して正式に抗議すべきだ。

 南京問題ほど史実から明らかになっている事実はない。そこに虐殺はなく、むしろ日本軍と戦っていた孫文の国民軍は「南京開城」を拒否して勝ち目のない市街戦に突入し、一ヶ所だけ開いていた城門から大挙して撤退したが、それを城外に据えた機関銃で狙い撃ちしたのは毛沢東の軍だった。  つまり中国戦線で日本軍は国民軍を叩こうとする毛沢東の軍に徹底して利用されたにすぎない。そうした卑怯な史実を中共は中国国民に明らかにしたくないため、あらゆるメディアを通じてプロパガンダを流して日本悪人説を敷衍している。そのことに抗議しなければプロパガンダが事実と誤認され、また新たなお調子者によって日本が侮辱されることになる。日本政府は史実と異なるプロパガンダを演じる都度、中国や韓国政府に毅然として抗議すべきだ。    NHKの大河ドラマに対して兵庫県知事が不満タラタラなのは良く分かる。あれも一つのプロパガンダの色彩が強い。清盛から頼朝の時代は歴史的に朝廷の権威が失墜し、貴族社会から武家社会へと国家権力が簒奪される過程にあたはずだ。が、大河ドラマでは時代絵巻の学芸会を演じているのだろうか(視ていないから何ともいえない)。  大河ドラマなるものを視なくなって既に久しい。いや大河ドラマだけではない。テレビそのものを視なくなっている。最近のテレビが実に詰まらなくなっているからだ。かつての大河ドラマ「太閤記」で緒方拳がデビューした時の鮮烈な印象は今も脳裏に残っている。そうした役者がテレビに登場しなくなってどれほど経っただろうか。     ドラマの制作方はかつての制作のように丁寧な仕事をしているのだろうか。予算だけの問題ではないだろう。歴史の舞台となった地方へ出かけて郷土史家たちと意見交換しているのだろうか。兵庫県に福原京を造営したというのなら、その地に立って地元の歴史家と談笑したのだろうか。なぜ京ではなく福原京を選んだのか、なぜそれが兵庫県だったのか、深い造詣が制作の「描き割り」に投影されるほどでなければ視る者に感銘を与えないだろう。主調低音のない交響曲はチンドン屋と変わらないのと同じで、歴史に対する哀惜のないドラマは幼稚園児の演じる学芸会にも劣る。    野田氏が「国民の生活が一番の政治を行うべきで、官僚の意見が一番の政治になってはいないか」と脱党した議員から国会で質問されて、憮然とした顔で「国民の生活が一番の

経済は生き物だ。

 現状の景気と経済状況を固定的に捉えて「社会保障と税の一体改革」とは為にする議論でしかない。かつて日本の税収は70兆円を超えていた。その当時と比較すれば現在の税収42兆円にいくら消費税を積み増せばかつての税収規模に到達するのか。その答えは「分からない」ということだ。つまり想定が固定的から、増税により景気がさらに落ち込み「直接税」関係は軒並み減収となり、消費そのものも低調になれば消費税も減収になりかねない。    財務省やその下請け広報機関たる大手マスコミが現在の財政赤字を捉えて財政危機を演出するのなら、財政危機にある国家としての歳出のあり方を厳しく問わなければならない。公務員人件費関係の総額は余りに膨張しすぎている。国民の理解を超えて官僚たちは巨大なシロアリとなって国家財政や地方財政を食い潰そうとしている。企業が赤字になれば人件費が削減されるのが企業再建策の本筋だ。しかし公的会計にはそうした作用は働かないようだ。    国会で話し合うべきは「いかにして増税すべきか」ではなく、この滅茶苦茶な為替相場による危機的な日本の輸出産業の苦境について対策を考えるべきだ。官僚や経済評論家が国内需要の喚起と馬鹿の一つ覚えのように唱えて、遂にGDPに占める貿易割合が最低になっている。2006年JETROの発表した資料によるとかつては3割近くもあった日本の貿易対GDP割合は14.8%にまで減少している。それに対して中国や韓国やドイツは軒並み30%を超え(中36.6%、韓36.7%、ドイツ38.7%)イギリスでさえ18.7%と日本よりも外需依存だ。ただ輸出すべき製造業関連製品を持たない米国だけはあれほど高額な兵器をせっせと輸出しても7.9%に低迷している。    余り米国の要求に従順になって「内需だ、内需だ」と叫ばないことだ。日本は本来貿易立国だった。その本質を歪める発想が日本にとって良くないのは明らかだ。まず為替レートに流れ込む投機資金の規制を国際会議で話し合わなければならない。そのために国内論議を深めることだ。国内景気を直撃する消費増税議論により国家財政が好転するとは決して思えない。IMFという隠れ蓑を着た財務官僚や米国の意図に従うほどバカげたことはない。日本は独立国家として、国益を真剣に追求すべきだ。

年金支給水準の議論はバイの分け方に過ぎない。

 社会保障の支出総額は年間約100兆円だ。それが毎年増加している、と厚労省は訴えている。高齢化社会や年金受給者が増加すれば支給総額が増加するのは当たり前だ。昨日今日分かったことではない。数十年も前から今日のあることは分かっていた。しかし場当たり行政に終始してきた官僚たちは得意技の「先送り」で抜本的な解決策を放擲してきた。    すべてを消費税で賄うとすれば税率は17%ほど必要というのも嘘だ。社会保険料で徴収したカネに税を加算して支払っている構造からまず説明しなければ全体は把握できない。どうしてマスコミの税と社会保障の議論は財務省の「税部分だけ」の摘み食い説明や厚労省の頬被り説明をそのまま垂れ流すのだろうか。だから国民には何の事だか分からなくなる。分からないから「官僚たちが良いようにしてくれるのだろう」と任せっぱなしにしていたら、ものの見事に好いようにやられていた。    共済年金はどうするのか。そして最高年金支給額に上限を設けないのか。最低年金支給額は必ず生活保護費を上回るようにするのか。そうした基本的な疑問にまず答えなければならない。  馬鹿な評論家が「最低年金支給額が生活保護費を下回れば生活保護を申請すればよいではないか」と嘯いていた。それなら年金はすべてなくせば良いだろう。国家が文化的にして最低限の生活は保障すると憲法に書いてある。保険料を支払うまでもなく、国家が保障すべきだろう。    そうではなく、分に応じて負担しようというのが「保険制度」導入の大義だろう。それなら生活保護費を下回る国民年金をまず引き上げなければ、売却不能な資産を所有している地方の農家や林業家は餓死するしかない。都会の資産と名のつくものを何も持たないホームレスの方がよほど恵まれているという実態を政治家はどのように考えるのだろうか。    生活に必要な食品や医療費の消費税をどうするのだろうか。そして日本の国家戦略として重要な高度教育機関の教育費をどうするのか、基本的な議論を政治家はまず為すべきだろう。かつて年間1万2千円だった国立大学授業料が年間六十万円を超えている現状は果たして正しいのだろうか。授業料免除が受けられない程度の貧困家庭の子弟は大学進学を諦めるしかないのだろうか。    応能負担というのなら、その逆として給与に応じた働きを官僚や公務員に求めなければならない。この国を財政破綻に導

政治家を貶め続けてきたのは官僚の広報機関たる大手マスコミとマスコミ幇間政治評論家たちだ。

 1/26付け産経新聞「正論」で、鳩山首相と小沢幹事長は何もしなかったと屋山太郎氏は論じている。それは全くの的外れで、鳩山氏がやろうとした普天間基地の「最低でも県外移設」という真っ当な政策に徹底して反対したのは官僚たちとその広報機関たる大手マスコミだった。そして小沢氏は嵐のような「政治とカネ」フレーズに代表される捏造された疑惑を連日垂れ流されたことにより、著しく政治力をそがれてしまった。鳩山政権を潰したのは官僚たちの面従腹背であり、その下部組織たる大手マスコミたちの反「最低でも県外移設」キャンペーンだった。当時の新聞やテレビビデオを検証すれば移設先と思われるところへ先乗りして、徹底した基地移転反対運動キャンペーンを煽ったのは日本の大手マスコミだった。    何が何でも消費増税しなければこの国が沈没するかのような言論は異常というしかない。今朝もニュースで経団連会長が「税と一体改革」が成立せず貿易赤字が継続すれば「日本売り」が始まり国債金利が上昇する、とトンチンカンな発言をして国民の不安を根拠もなく煽っていた。経営者として経済分析力のなさは呆れるばかりだし、そうした不安心理を煽ることが更に景気にどんな影響を与えるのか考慮しない無神経さには匙を投げるしかない。この程度の人物が日本の経済界の会長なのだ。    「社会保障と税の一体改革」が成立しようがすまいが、この国の国際的な信認に大した影響はない。日本国債の大部分は国内引き受けであり、世界金融は日本国債の膨大な累積額は日本の国内問題だと見做している。日本国債が破綻しようが、影響は日本国内だけに留まり世界の金融機関に壊滅的な影響を与えるものではない。しかも日本は金融機関が破綻した場合に預金者に払い戻す上限を1000万円に規定している。つまり1000万円以上金融機関に預金している者がデフォルトの影響を受けるだけであり、日本国内が金融破綻に陥ることもあり得ない。    お節介にも財政破綻した日本の処理を米国の金融専門家たちが書きものにして日本の政府高官や官僚たちに配布している。それが「ネバダ・レポート」だ。    「ネバダ・レポート」による日本の財政破綻処理は次の8項目から成る。   ① 公務員の総数の30%カットおよび給料の30%カット。 ボーナス はすべてカット。   ② 公務員の退職金は100%すべてカット。   ③ 年

IMFは何の権限で日本に内政干渉するのか。

 日本国債残高が財政破綻に陥る危険があるとして、IMF(国際通貨基金)が消費税を15%にせよ、と言っているという。何の権利と権限で一国際機関が独立国家の内政に干渉するのだろうか。いわばIMFは国際基金の名を借りた米国の財布だともいわれているが、その拠出金で日本が破綻した場合に1997年の韓国のようにIMFの出動でどうにかできる規模ではない。    それではなぜIMFは日本の国内政治にお節介を焼くのだろうか。それを理解するにはIMFそのものをまず理解しなければならないだろう。IMF本部は米国のワシントンDCにあり、職員数は2421人を数える国際機関だ。そこに天下るのが財務官僚たちの夢の一つでもある。そしてIMFをハンドリングしているのは拠出金の17.71%を出している米国であるのも確かなことだ。    そしてIMFが日本国内政治に口を出す動機は米国の世界戦略と密接な関係があるからだ。  ここに一つのペーパーがある。 「ネバダ・レポート」というアメリカの金融専門家たちが執筆し、一部の金融関係者や大手マスコミの上層部、政府機関などに定期的に配信している経済金融レポートだ。その一節に日本が財政破綻してIMFの管理下に置かれたときの予測を米国の金融専門家が描いた部分がある。   IMFが乗り込んでくるのは、その国が財政的に立ちゆかなくなったときである。IMFというのは、とりあえず緊急融資はする。しかし、こんな事態を招いたのは放漫経営を続けてきた自分が悪いのだから、破産国には非常に厳しい耐乏政策を要求する。たとえば消費税20%ということは、もう官房長官をはじめ政府関係者が言い始めている。  「ネバダ・レポート」による日本の財政破綻処理は次の8項目から成る。     ① 公務員の総数の30%カットおよび給料の30%カット。ボーナスはすべてカット。   ② 公務員の退職金は100%すべてカット。   ③ 年金は一律30%カット。   ④ 国債の利払いは5~10年間停止=事実上紙くずに。   ⑤ 消費税を15%引き上げて20%へ。   ⑥ 課税最低限を年収100万円まで引き下げ。   ⑦ 資産税を導入し、不動産に対しては公示価格の5%を課税。債券・社債については     5~15%の課税。株式は取得金額の1%を課税。   ⑧ 預金は一律、ペイオフを実施するとともに、第2段階として預金

この余りに言葉の軽き首相の演説。

  施政方針演説でかつて自民党の福田首相も麻生首相も「与野党協力して話し合おうではないか」と言ったではないか、と自民党に詰め寄るのはいかがなものだろうか。それならかつて民主党はことごとく与野党協議で自・公案に反対して、当時の小沢代表が福田首相と模索した「大連立」に到っては頭から反対したではなかったか。その小沢元代表の大連立を話し合うこともなく一顧だにせず完全否定した当時の非主流派の造る野田民主党内閣は当然自・公の協議入りにすら反対するのを見通した上で国対戦略を立てるべきではなかっただろうか。    『高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民のかまどは にぎはひにけり』とはいうまでもなく仁徳天皇の御歌である。その歌に込められて仁徳天皇の御心をご説明するまでもないが、治世者の心得として今も引用される話だ。いにしえの民主主義という概念のない時代ですら治世者は庶民の暮らしに心を砕かなければならないという戒めだが、現代日本の民主主義国家において選挙でマニフェストに謳ってないことに血道をあげ、国民の生活が一番の政治を放棄した野田政権に国民は心底からの怒りを込めて異を唱えなければならない。    社会保障の一体改革に関連してか、国民年金加入者の負担すべき納付額が一律なのを考慮して、低所得者に対しては減額すると決めるようだ。60%を切った壊滅的な納付率に音を上げた厚労官僚の浅知恵だろう。  取る方を取りやすくするのも尤もだが、国民年金受給者に支払われる額が暮らせない生活保護費以下の金額なのを放置したまま『社会保障』の一体改革とは呆れてものが言えない。つまり野田氏の言う『社会保障の一体改革」とは羊頭狗肉野田政権の面目躍如たる文言だ。所詮は破綻が目前に迫った地方公務員共済年金を厚生年金に共済年金の優遇制度をそのままに温存してくっつけて、公務員の共済年金利権の延命を図ろうとしているにすぎない。  どこが社会保障の一体改革なのか。言葉による誤魔化しもいい加減にしたらどうなのだ、財務官僚の下請けになり果てた野田民主党政権よ。    富める官僚をさらに富ませ、高額支給の公務員共済を温存するとは、野田氏の言う『社会保障と税の一体改革』とは何なのだろうか。早くも1/25の朝刊で「消費税は10%では済まない」とさらなる消費増税が必要だと宣言している。欧州諸国の消費税が20%を軒並み超えていると

第180通常国会で優先的に議論すべきこと。

  今日1/24日に第180通常国会が召集された。議論すべきことは来年度予算案だが、野田首相は「社会保障と税の一体改革国会」だと息巻いている。  昨日、官房長官は早くも今回の国会で10%増税が決まったとしても今後さらに増税しなければならないだろうと定例記者会見で述べたようだ。それなら何のための「一体改革」なのか、与野党国会議員は野田首相に聞かなければならないだろう。    官房長官もだが、財務省は余りに固定的に現在の景気と税収を前提として議論していないだろうか。増税により個人消費が落ち込めば税率は上げても税収は減少するという最悪の結果になりかねない。かつて税収は70兆円を超えていた。景気の落ち込みにより税収も減少し、ついに42兆円にまで落ち込んでしまった。不況こそが税収減の元凶なのだが、官僚たちも大手マスコミも彼らが不動産業を目の敵にしてバブルを徹底して潰したことによるとは口を噤んで一切触れようとしない。    彼らがどれほど酷いことをやったか、若い人たちは知らないだろうから少しばかり書き連ねておく。  まず不動産売買を分離課税として、事業として儲かっていようが赤字を出していようが不動産取引だけを日常的な経済活動から分離して課税した。それが購入してから十年以内の土地取引は短期譲渡所得とし、その場合は利益の98%を税として徴収した。つまり国が不動産屋の儲けをすべてピン撥ねしたのに等しい。しかも総量規制といって、金融機関に不動産業者に融資してはならない」とのお触れを出した。さらに特別監視地域といって土地価格の上昇が著しい都市部では土地取引に関しては事前に行政に届け出て許可を得なければならない、という自由取引経済を全く無視した狂気じみた制度を導入した。それにより不動産業者はバタバタと倒れ、死屍累々の状況を呈した。    それから20年余、未だに一部の大都会を除いて地価は下落し続けている。国全体の信用経済はかつての1/3以下に縮小し、景気は停滞したまま活気は失われたままだ。  それらの元凶は「悪徳不動産屋が儲けるのは怪しからん」という『市民感情』によるものだった。それならすべての不動産屋が投機に走りバブルに浮かれていたのかというとそうではない。むしろ不動産業者でない一般企業が不動産取引に乗り出し、金融取引に憂き身をやつしてバブルに浮かれて本業を忘れたのだ。そうした不動産投機

危機管理なき意識の低い公僕たち。

  昨年3/11の大災害による福一原発放射能漏れという未曾有の事故を受けて官邸内でどのような動きがあったかはもとより、対策を話し合った会議の議事録すらないという。この国の政府トップたちの動きはすなわち国家そのものの意志であり意志決定であるはずだが、それが主権者たる国民の負託を受けた公的行為でありすべては記録に残され史料として歴史の批判を浴びるべきものでなければならない。    善きも悪しきも、すべては記録として録画・録音されているものと思っていた。もちろん私的な場所は除くとしても、公的な会議室や執務室のやり取りはすべて記録として残されているものと思っていた。録音だけならIC録音機に見られるように、小さなICチップで数時間も録音できる。当然それ相応の機器を秘密室に備えてすべての官邸内の情報を把握し管理しているものだと、国民の一人として思っていた。    この国のトップたちは何という公僕意識の欠如した人たちなのだろうか。自分たちの一挙手一投足がこの国の歴史だという意識のなさには驚きを禁じ得ない。その緊張感のなさが平気で官邸内で宴会をしたり官邸内で顔をぶつけて眼帯したりするのだろう。その緊張感のなさが時代的な誇張した「不退転」などという常軌を逸した言葉を濫用させるのだろう。    増税することに「不退転」の決意をするのなら、被災地に対して二度と同じような津波被害による犠牲者を出さない復興と地域造りにこそ「不退転」の決意を示すべきだろう。その方はゆっくりと10ヶ月もかけて「復興庁」を作って霞が関官僚たちの利権の巣窟を作ってやり、このデフレ下という経済状況での増税という経済原則に悖る政策には前のめりに突き進む。野田氏もだが野田内閣を支持する民主党国会議員たちはどうかしている。    しかし図らずもこの国のトップたちのいい加減さが露呈された。小沢氏を「強制起訴」へと導いた第五検審会の委員はおろか議事録すら公開されていない。いや議事録はないという仄聞すら伝わるに到っては、人一人の人権を左右する人たちの意識の低さに驚くし、民主的な法治国家として決してあってはならないことだと、この国の国会議員たちはなぜ全員が最高裁判所や最高検察庁のしかるべき人たちを国会に呼びつけて喚問しないのだろうか。  分かり切ったことだが、彼らは彼らの権利でそうした公的行為をしているのではない。国民の権利の負託

自民党よ、官僚下請け政党から脱却して真正・保守政党を目指せ。

 自民党党大会を見て、自民党の将来も暗いと思わざるを得なかった。なぜなら政権党という冠が取れると、あれほど輝いていた政治家諸氏が単なる自己顕示欲の強い日和見政治家に過ぎなかったことが歴然としてきたからだ。あるいは官僚の代弁者であったり、あるいは米国の代弁者に過ぎなかったり、あるいは地方自治体の代弁者に過ぎなかったり、とこの国の将来に責任を負う理念を示す政治家が余りに少ないと判明したからだ。かつての真正・保守政党だった自民党は何処へ行ったのかと慨嘆せざるを得ない。     真正・保守政党とは何か。保守政党でも真正と限定するのにはわけがある。従前の自民党は保守政党と名乗りながら、長期政権を維持する必要性から改革政党の面も持たざるを得なかった。そのため股裂きに会い、小泉氏のような撥ねっ返りの出現を許してしまった。    真正・保守政党とは国家と国民の為に国益を第一に置く政党のことである。だから国内産業の空洞化を招く「円高」誘導の国際社会に対しては敢然と注文を付ける政党でなければならない。長期的に国力を削ぐ「少子化社会」に対しては仏国以上の抜本的な対策を講じなければならない。そして近隣諸国に迎合するあまり国内居住外国人の数を無制限に許すのではなく、一定規模において制限しなければならない。現行の200万人程度はまだ容認できるとしても、これ以上の増加は国内居住基準を厳しくすべきだし、特に居住外国人の6割を超えて今も激増する中国人に対しては厳しくすべきだろう。    別に偏狭なナショナリズムからそう言っているのではない。ドイツやフランスなど3Kの労働力確保として労働移民を促進した結果、既に全人口の1割を超え、国内に文化圏の異なる一団の異民族を抱えるために様々な社会的軋轢を生じている。  かつて民族自決主義により国際社会は国家形成を促進してきた。つまり民族国家が文化的軋轢を国内に抱え込まない安定的な社会と見做していたのだ。    人には異質なものを排除する性向がある。攻撃しないまでも、少なくとも心地良い感覚を抱かない。そうした社会的不安定要因を率先して抱え込まないことも重要だ。米国のような多民族国家ならまだしも、日本は単一民族国家としてしか経験のない国だ。そこに中国人の一団が社会を形成して彼らの価値観を正々堂々と主張して地方政治に影響力を持ちこめは、日本人社会までも混乱するのは当た

現在のPCはITの担い手になりうるのか。

 現在のPCはとても完成品とは思えない。なぜならHDDの寿命が使用頻度の高いPCでは5年程度でしかないからだ。白物家電製品で5年程度で壊れるものは完成した製品とはいえないだろう。しかもPCは基本ソフトのシェア90%以上を占めるWINDOWSですら絶えず更新しなければサイバー攻撃に耐えられなくなる可能性が高い。    安定的に使用し続けるには決して5年程度でHDDが壊れてはならない。現行PCシステムではHDDが壊れると壊滅的だし、保存していた大切なデータがすべて消え去ることを意味する。  しかも厄介な基本ソフトWINDOWSの存在だ。ここで使っているノートPCはWIN7を基本ソフトに使っているが、何かのはずみにデスクトップの背景が単一色から元の写真に戻らなくなった。いかに操作しようと断じて戻らない。そのために昨日から週末の膨大な時間を浪費して、ついに単一色の背景で諦めることにした。    21世紀は情報の世紀になることは疑いないが、その「情報」の集積と保存が実に心許ない。HDDが五年程度で壊れるのもさることながら、かけがえのない故人となった親しい人たちのデジカメの写真をCDに焼こうがDVDに焼こうがデジタルデータ保存が永遠でないことだ。かつてのアナログ・フィルムを現像したデータならそれなりに劣化しつつも、例えば坂本竜馬の面影を現代人も見ることは出来る。しかしデジタル・データが焼かれたCDなどの表面が劣化したなら、再現不能の事態に陥る。    しかし既に動き出したIT社会で、国家の基本的なデータをデジタルデータとしてHDD等に記録するしかないのも事実として認識しなければならない。現在に於いて経済性と記憶容量でHDDに勝る記憶装置は見当たらない。そうであるならバックアップをしっかり取らなければならないことになる。つまり同時に2個のHDDを動かすシステムが出来なければ国家や企業の枢軸たるデータ記憶機器として使用できないといえるだろう。    まだまだIT機器たちは未完成品だ。私の単一色しか表現できなくなったデスクトップなどはOS操作性に於いての不完全さを露呈しているだろう。  この国のIT先端技術者たちはいつまでWINDOWSの後塵を拝すれば気が済むのだろうか。そろそろ日本発の安定的なOSが現れても良い時期ではないだろうか。

小手先のアリバイ作りはたくさんだ。

  増税への地ならしとして、独法や特別会計を整理する、という。しかしそうした「改革」がこれまで大した実を結んでこなかったのを国民は知っている。あの拍手喝采を浴びた「事業仕分け」ですら政治的な見世物に過ぎなかった。廃止に仕分けられた事業でも官僚たちは看板を掛け変えたり、あるいは他の事業の中へ潜り込ませたり、あるいは平然と仕分けを無視して公務員住宅を造ったり、と遣りたい放題だった。つまり「改革」のアリバイ作りに過ぎなかったのだ。    なぜ抜本的な対策を講じないのだろうか。例えば2009マニフェストに謳った「歳入庁」の設置などのことだ。「歳入庁」を設置して国への納入・納付金の窓口を一本化して財務管理を財務省で一体的に行う方がどんなに行政全般への改革効果が大きいか、想像しただけでも明らかだ。財務省が扱う税などの歳入はこの国の財務的な流れの一部でしかない。それで財務省は本当に「財務」省の役目を果たしていると胸を張って良いのだろうか。    さらに抜本的な改革は国家の帳簿体系を複式簿記へ変更し、企業会計原則を適用した世界基準の簿記へ歳入・歳出の単式簿記を廃することだ。企業会計原則を適用すれば「年度末」に慣行的に行われる「不用額」の使い切り行為や「特会」などの別会計や省庁の「裏金づくり」は根絶される。なぜなら総額主義や継続性の原則や発生主義が厳しく問われるからだ。そして国民に一枚B/SやP/Lなどの財務諸表で一目瞭然にこの国の会計全体像が把握できる利点がある。現行の単式簿記はたとえば魚のブツ切りの頭の部分だけを国民の目の前に差し出して「さあ、赤字だから何とかしろ」と責任転嫁しているようなものだ。    そうした抜本的な改革をしなければ廃止したはずの特会や独法など又またゾンビのように甦るだろう。いや甦らないとしても忍術を使って他の会計や組織に潜り込む隠遁の術を使って生き延びるだろう。官僚たちが一度手にした「利権」を剥がすのは容易なことではない。しかしその使命は政治家にある。そしてこれまで政治家が最も避けてきた重要な仕事でもある。そのためには与野党もないのだが、この国の政治家たちは政局を作って、政局の中で大声を上げるのが「政治ショー」であり国民は「政治ショー」を観たがっていると勘違いしている。    もう国民は年間ツキビト・アシ・ギャラ総額1億円の政治家による田舎芝居のようなくだら

政治家はそれぞれの理念を国民に語れ。

  政局ごっこはもう沢山だ。国民は実効性のある、未来にわたって実現可能な現実的な施策を求めている。「税と社会保障の一体改革」とは消費増税のお題目に据えるべきテーマではなく、本当に国民のための政治を目指すなら「行政と政治の一体改革」ではないだろうか。    社会保障と称する歳出は総額100兆円を超えている。国家予算一般会計規模を超える、実に膨大な金額だ。しかし国民の多くはそれを知らされていない。なぜなら官僚下請け広報機関となっている大手マスコミが伝えないからだ。全体像が分かってしまうと共済年金がいかにベラボーか露呈してしまうからだ。    すべての資料を公にしようではないか。官僚は自分たちのお手盛りだけはちゃっかりと隠して、真面目面してコソコソと増税議論をするように与野党政治家を煽り、大手マスコミに「大変だ、大変だ」と瓦版よろしく騒ぎ立たせている。こうした誤魔化しはもう沢山だ。国家財政が本当に危機的なのなら、なぜ官僚たちは自分たちの贅肉をまず削ぎ落とそうとしないのだろうか。    どうして官僚たち公務員は自分たちだけ高額な俸給を手にし、手厚い退職金を懐に入れ、そして退職に備えて自分たちだけのハローワークを政府内部や各地方自治体に慣例を作って天下り先を確保し、退職後に平均勤労者所得にも勝る共済年金を手にしているのだろうか。それでも国家と国民に奉仕する下僕なのだろうか。いや実態は国家と地方自治体を食い物にする巨大なシロアリではないだろうか。    幼保一元化すら満足に実現できない政治家とは何だろうか。文科省と経産省の縄張り利権争いに終始している幼保一元化論争になぜ大喝を下して、国民不在の不毛な官僚たちの利権争いを叱らないのだろうか。政治家の政治力とは主権在民の国民によって付託されている最高権力のはずだが、現実は官僚たちの下請け小僧程度に堕しているとしか思えない。    シロアリと化し高給を手にしている事実よりも、自分たちが実際に何をしているのか自覚すらない官僚たちの公僕意識のなさを憂える。一般勤労者と数年程度総入れ替えしたいぐらいだ。そうすれば民間企業がいかに厳しい労働環境に置かれているか分かるだろう。そうすれば公的企業のサラリーマンたちも少しは身が引き締まるだろう。    官僚たちを使いこなせない政治家は要らない。官僚たちの権益を削ぎ落し、国家と国民のために働く官僚へ変

財務省の思惑か、全体像を報じない大手マスコミ。

  おおよその話をしよう。社会保障費として支出されているカネは総額で約100兆円ある。その内訳割合は医療費関係が32%で年金関係が53%、福祉が15%ほどとなっている。その財源は106兆円程度あり、各種保険料が約57%で公的負担(税)が32%でその他の収入が11%程というのがこの国の社会保障の大まかな平成21年度の収支だ。    野田首相の言う「消費税増税で社会保障を…云々」というのは財源の内公的負担部分の話だ。つまり財源の32%部分について話しているのであって、社会保障全体の話ではない。社会保障の一体改革とは各種保険料の負担を上げようというのなら財源の57%部分に関しての話だ。そうしたことを押さえておかないと財務省のプロパガンダにコロッと騙されてしまいかねない。    チマチマとした税金の話よりも医療と年金と介護の「保険金収入」が五十数兆円という税の総収入金額よりも多い現実を国民は知らなければならない。つまり「保険料」と呼ぶモノが納付義務を課されている「税」の徴収総額よりも大きいのだ。その保険料のうち国民年金や医療保険の未収がドンドン増えている。    年金受給人口(65歳以上)は約2900万人だから年金支給額総額53兆円を受給人口で割ると一人当たり年額1、827,000円となり夫婦では365万円となる。この金額が年金として果たして妥当な金額なのだろうか、という疑問は残る。確かに現役世代働いて掛け金を支払って来たのだろうが、現役世代で年収が350万円を超えている世帯がどれほどあるだろうか。    ちなみに国民年金では平均受給金額は月額4.6万円で年間55.2万円で夫婦が国民年金受給者なら平均的には110.4万円しかもらっていないことになる。生活保護費以下の年金でどうやって暮らせばよいのだろうか。  老後の年金世代になっても厳然たる大きな格差があって、死ぬまでそれが続くというのはいかがなものだろうか。国は日本国民のすべてに対して最低でも夫婦で200万円ほどの年金を保障してはどうだろうか。    その財源として負担に求めるのではなく、最も優遇されている共済年金と高額な厚生年金受給者の年金上限設定を低くして、支給額を大きくカットしても良いのではないだろうか。功成り名を遂げた人に金満な老後は必要ないだろうが、貧乏のどん底で餓死する老後はそれ以上に厭なものだろう。そうすれば

原発耐性検査の茶番を憂える。

  関西電力が大飯原発3号4号機で実施したストレステストの結果の評価をめくり経産省の原子力安全・保安院は専門家の意見を徴して「妥当」とする判断を下したという。  福一原発の爆発放射能漏れのメカニズムが実地検証による解明がなされていない段階で地震や津波の予測をコンピュータ解析して「安全だ」と判断したそうだ。それは果たして妥当なことなのだろうか。    まず、現在も経産省内に原子力安全・保安院なる組織が存在していることに驚きを覚えた。福一原発事故に対して全く当事者能力を発揮しなかったどころか、SPEEDI情報の速やかな開示による地域住民の被爆を未然に防ごうという姿勢すら見せなかった。その確信犯的な犯罪行為の断罪すらないまま、保安院の組織としての欠陥の検証もなくストレステストを妥当と「判断」したとはいかなる基準に従って判断したというのだろうか。    大飯原発は従前よりも4倍も高い11.4メートルの津波にも耐えられるとしているようだが、福一原発は津波による致命的な損傷もさることながら、地震により原子炉内の細管が破断していたのではないかと疑われている。  つまり爆発放射能漏れという原発にあってはならない、発電装置としては致命的な欠陥事故が起こったことを「安全・保安院」は看板を下ろすほど責任を痛感していなければならないはずだが、依然として経産省内に存在して大きな顔をして「妥当だ」とストレステストの判断を示している。この傲岸不遜にして自信過剰な体質こそがこの国と国民にとって危険ではないだろうか。    そして「専門家」の意見を徴して「耐性判断をした」というが、どのような専門家を呼んでどのような意見を徴したというのだろうか。原発反対者たちがその会議を傍聴させるように求め、排除する当局との間で揉めて開催が3時間も遅れたという。一旦原発事故が起これば専門家の間で被害が留まるのではなく、専門家でも何でもない地域住民が被爆することを考慮するならストレステストの判断に加わらないまでも会議は公開すべきではないだろうか。その会議で何が議論されどのような事実からどのように判断したのか、情報は専門家や役立たずの「安全・保安院」の専有物ではなく、むしろ地域住民にこそ開示されるべきだ。そしてその情報は直ちに原発30キロ圏内の地方自治体や県に報告されているのか、情報の在り様についてSPEEDIの例もある

会計検査院の監査能力。

 共同通信社は1/19日に次のように報じた。<<2010年度末時点で国の特別会計(特会)にある積立金のうち、29の資金(残高約172兆円)を会計検査院が調べたところ、18資金(同142兆円)は必要な規模が具体的に示されていないため、残高が適正かどうかを判断できない状態にあることが19日、分かった。検査院が同日、調査を要請した参院に報告した。検査院は「積立額が過大なら、一般会計への繰り入れを検討できる。説明責任が果たされていない」と指摘した。>>    特会の積立金が過大なのか過大でないのか、会計検査院で判断できなかったという。本来特会であろうとなかろうと、原資が国民の負担金や分担金なら特会で積立金を管理すべきでなく、国庫に納入すべきではないだろうか。民間企業で国のように企業の会計とは別に特会が存在すれば、監査法人から指摘され解消するように改善を求められる。それが国ならなぜ認められるのか理解に苦しむ。    それも半端な金額ではない。国家財政が破綻の危機に瀕していると大手マスコミが騒ぐ割に29もの特会で172兆円もの積立金があるとは驚きだ。どのような権限で官僚たちは自分たちの財布を勝手に持っているのだろうか。国会議員はそれらの特会をすべて取り上げて国で一元管理すべく法改正をすべきだ。企業会計原則に基づく世界基準の会計常識でいえば特会の存在そのものが脱法的だ。    官僚たちの感覚はマヒしているとしか思えない。この国はいつまで公的会計に杜撰な単式簿記の歳入・歳出方式を続けるつもりだろうか。会計検査院はチマチマした歳出を突っつくよりも、そこから指摘すべきではないだろうか。いや官僚による会計検査そのものが既にまやかしに等しいといわなければならないだろう。

死刑制度に対する私見。

  世界的に死刑制度を廃止する傾向にあるようで、日本でも死刑廃止論者が増えているように思われる。しかし、殺人を犯した者に対して死刑以外に罪の償い方があるのだろうか。  殺人は人の命を不法に奪うことだ。命を奪った方がこの世に残り様々な議論の対象になるが、殺された方、つまり命を奪われた者の人権はほとんど議論の対象とされない。ましてや犯人が薬物使用者や精神障害者、あるいは未成年の場合は量刑そのものに斟酌が加えられる。    殺された者の人権はどうなのだろうか。既に口がないから命を奪われた者の怒りや恐怖や無念さを誰も代弁できない。生きている者が推測するしかないが、到底殺された本人に成り替わることはできないだろう。  普通なら当然この世にいて、様々な人生を生き続けている人たちの人権が余りに蔑にされてはいないだろうか。健常者なら概ね二人以上殺害しないと死刑にならない。つまり殺された者の人権は殺した者の半分でしかないことになる。    ましてや精神異常者や薬物依存者なら量刑が減じられる現行制度は殺され損に等しい。それで本当に良いのだろうか。正常な判断ができないから罪に問えない、というのが論拠のようだが、殺人を犯す者の精神状態は果たして正常なのだろうか。異常な錯乱状態や独善的な精神異常だから人を殺せるのではないだろうか。つまり殺人を犯せば何人であろうと法の下に平等に裁くべきだと思う。たとえ精神異常者で精神病歴があろうと、殺人を犯せばこの世の公序良俗の埒外に置くべきだ。    殺された者の人権はほとんど考慮されない、全く無きが如しの現行法に対して異議を唱える。たとえ一人でも殺人を犯せば死刑に処すべきだ。その犯人が精神病者であろうと未成年であろうと薬物中毒者であろうと。  ただし、執行に際しては冤罪の可能性が1%でもあるうちは保留すべきだ。つい先日も当時17歳の服役中の32歳男性が殺人事件の真犯人と判明した。人間のやることだから100%正しいとは言い切れないが、昨今の警察や検察のお粗末さには法の番人としていささか信頼に欠けるきらいがある。だから死刑判決確定後半年以内に執行すべき、とする現行法も改定すべきだといわざるを得ない。    刑罰には「更生」の側面もあるではないか、という死刑廃止論者の声が聞こえるが、それは殺人まで犯していない刑事犯の場合に適用される論理ではないだろうか。殺人とい

官僚と戦わない政治家とは。

  日本の閉塞感と虚無感は傲慢にして非効率な官僚制度の放つ腐臭そのものだ。政治家が切り込むべきは官僚たちが手にしている利権構造であって、国民のすべての懐を「消費増税」で狙うことではない。    大半が民間企業の一般管理部門に過ぎない官僚たちの仕事がIT化により素晴らしく合理化されているはずだが、公務員定数が劇的に削減されたとは寡聞にして知らない。なぜ公務員定数が議論の俎上に上がらないのか、国会議員たちの怠慢を疑う。    会計検査院なる官庁が官僚組織の無駄や違法を検査しているのだが、毎年170億円もの予算を投じて帳簿だけを見ているのなら無用な組織だといわざるを得ない。会計検査院の年間予算の1/10で民間の監査法人数社に監査委託すれば組織や人員の無駄までもきっちりと指摘するだろう。そもそも官僚による身内の監査など茶番でしかないのだ。    170億円といえば4万人程度の市の年間一般会計予算に匹敵する。それほどの巨費を投じて官僚組織や漫然とした仕事ぶりを指摘して来なかったのには怠慢そのものだ。証拠として挙げよといわれれば原子力委員会や原子力安全保安院の仕事振りが国民の記憶に新しいだろう。それらの組織は原子力行政の基幹にどっしりと存在していたはずだが、実際に放射能事故が起こると当事者能力は微塵もないことが露呈した。文科省に到ってはSPEEDI情報を隠蔽して地域住民を被爆させた。それを指摘しない検査院は存在させる必要がない。    八ッ場ダムは半世紀もかけて4000億円もの巨費を投じてまだ本体工事はこれからだという。その八ッ場ダムの目的は「治水」と「飲料水」の確保だという。この半世紀の間に流域で甚大な洪水が繰り返され、首都圏の住民が度々断水と節水に見舞われているのだろうか。そうでないとしたらダムの必要性はないと結論が出ている。それを延々と続けるのは官僚たちの利権構造の為せる業以外の何物でもない。    民主党は羊頭狗肉政権だと非難したことがあったが、現在の民主党政権は羊頭狗肉政権ですらない。羊頭狗肉ならいずれにせよ『肉』を売るのだが、2009マニフェストで高速道路無料化や子供手当の政府支出をするはずだったものが、増税により国民の痩せ細った肉をさらに削ぎ落すのだ。直接支給による『肉』ではなく、増税というデフレ政策を断行する民主党政権は2009マニフェストを反故にしただけではな

果たして日本はガバナンスの働いている近代国家なのか。

   厚労省の調査票が死亡者宛に届いたという。この国の戸籍と住民票管理システムと厚労省の障害者管理システムや年金基本台帳管理システムと連動していないようだ。まったく無駄な電算システムをそれぞれの省庁や都道府県や地方自治体がバラバラに組んで、勝手気儘に税を乱費しているとしか思えない。    既に家電店で普通に売っているパーソナルなコンピュータで全国民のデータ管理ができるだけの能力がある。光回線が全国に張り巡らされている日本で国家管理をすべき省庁のシステムが統合されていないとは驚きだ。  全国から膨大なデータがアクセスされるから相応のサーバを設けなければならないが、それすらも既に民間で開発されているクラウドを使えば簡単にできる。画像やましてや動画を扱うわけでもない、単なる文書によるデータ更新アクセスだけなら大した情報量ですらない。    官僚たちは自分たちが合理化により人員削減されることを極度に恐れているようだ。そして国民には増税と社会保険負担増を平然と権利でもあるかのようにバカな政治家を顎で使って要求させる。全国の民間企業の統計資料に目を通してみるとよい。ここ20年の間に各企業の一般管理部門に携わる人員がどれほど劇的に削減されているか。すべてはIT化の賜物だが、一般管理部署の塊の官僚組織が劇的に人員削減されていないのはなぜだろうか。いまだに官僚たちは電卓を弾きワープロで仕事干しているのだろうか。    実効性のある行革を行うためには情報処理関係の大学生を一時的にシステム検証委員会を立ち上げて卒論の代わりに検証論文を書かせてみると良いだろう。いかに膨大な無駄を官庁は行い、無駄なソフト開発・保守費を乱費しているか、たちどころに指摘してくれるだろう。ゆめゆめソフト会社や電算会社の派遣社員を使わないことだ。彼らはより良い美食のために、省庁に無駄が多くある方が良いに決まっているからだ。

政治家は政局を闘い抜くために存在するのではない。

   小沢氏が群馬県内で行われた会合で「このままいけば野田氏の下かは別として政局は行き詰まり解散になるだろう」と発言したという。全くその通りだろうと頷くしかない。団栗の背比べのような、傑出した政治家は小沢氏一人で、その当人が検察や司法官僚の罠に嵌められて身動きできなくされている。後はどうしようもない自己顕示欲の塊のような政治家たちばかりが永田町を我が物顔でうろうろしているばかりだ。    テレビという代物が出来た時に、大宅壮一氏が「一億総白痴化する」と警告した通りになって仕舞った。報道番組と称するバラエティーでお笑い芸人上がりの司会者や記者上がりの司会者やアナウンサー上がりの司会者が政局を面白おかしく解説して、独断と偏見で政治家をバカにしてみせる。それにコメンテータと称する小説を書かない小説家や映画を撮らない映画監督や学術論文の一本として書いていない大学教授などがテレビ局の方針に順じた見解を述べる。  この国ではテレビ局によって政治がバラうティー・ショートの見世物と化す見事なまでの様式が確立されている。その様式に従っても国民は容易く世論誘導され洗脳されている。    小沢氏が政治家として保証されている基本的人権に従って、なにものにも制約されず活動できるなら、今日ほど惨めな民主党にはなっていないだろう。国民も混乱の内に何となく増税や負担増が天から降ってくる重苦しい思いに捕らわれなくて済んだだろう。しかし検察官僚と報道大手の協力によって、小沢氏は「政治資金規正法を犯した凶悪大犯罪人」として国民に刷り込まれ、著しく政治力を削がれている。    この国の何と能天気なのだろうか。原発は耐用年数40年を一度だけ20年延長を認めるという。コンクリート建築物の単純な耐用年数は60年だが、絶え間なく強力な放射線を浴び続けるコンクリートが単なる対物の耐用年数と同じで良いはずがないのは素人考えでも明らかだ。原子炉の鋼鉄製の容器ですら強力な放射線を浴びる内側はボロボロになるという。碌でもない民間企業の仕様書を丸写しする機関に安全確認を丸投げしていた原子力安全保安院は本当に「安全保安院」なのだろうか。それともそうした名を冠した高給を手にする官僚たちの安息の場でしかないのだろうか。    大手報道機関は小沢氏が引きずり出されている裁判を厳密に検証しているのだろうか。本当に小沢氏が何らかの罪を犯

言葉の軽さは野田氏も同じだ。

  野田首相は強い言葉を多用して「覚悟のほど」を自らの口で広報してきた。その広報の効き目があって物事がすんなり進むのかといったらそうでもない。強い言葉はリーダーシップと独断と紙一重だ。野田氏は「党内論議」を重ねて一致をみる、としているが、「社会保障と税の一体改革」で党内論議をこれまで重ねて来ただろうか。民主党政権の専売特許となった「首相の独断」で物事を進めているのではないだろうか。    記者のインタビューに答えて「解散ありきではない」と幾ら発言しても、これまで「解散風」で脅しに脅した事実を忘却したかのような発言は何だろうか。その日の腹の虫の居所で発言が変わるとでもいうのだろうか。  この時期に増税や社会保険料の負担増を議論するのは景気音痴だというのが経済界の常識だろう。ことに中小零細企業にとって、消費税は容易に価格転嫁できず経費として抱え込むしかない。橋本首相が景気回復期に3%から5%に消費増税して、回復しつつあった景気を急ブレーキをかけて冷え込ませた過去を忘れているのだろうか。年間自殺者が3万人を超えたのはその翌年からだという事実を野田氏は何とも思っていないのだろうか。    馬鹿な評論家が欧州の消費税が軒並み20%を超えているが日本は5%でまだまだ上げる余地はある、と評している。しかしその欧州各国が20%を超える消費税で国庫が潤い財政破綻と無縁だとでも言いたいのだろうか。  現実は欧州各国は財政破綻の瀬戸際に追い込まれている。消費税が低率だから財政破綻に見舞われ、20%を超えれば財政が回復する、というのはすべてを現状の経済状態に固定した静態的な机上で数字をいじくっただけの空論に過ぎない。むしろギリシアの公務員優遇と赤字国債との関係にこそ財政破綻の鍵がある。    事業費が膨張して赤字が積み上がっているのなら歳入を増やし歳出を削減すれば財政は再建できる。しかし人件費で経常的赤字になっていれば事業を縮小しても赤字体質は変わらない。それがギリシアの現状だ。と同時に日本もそれに近い状態にある。事業費と称する中に潜り込ませている人件費部分も抜き出してみると良い。既に税収以上の人件費を国は支払っているのではないだろうか。するといかに税収を上げようと、底の抜けたバケツに水を注ぐのに等しいといわざるを得ず、赤字体質から脱却するのは困難だ。    野田氏は財務官僚の洗脳から本来

東電の電気料金値上げにどれほどの正当性があるのだろうか。

 東電は4月から大口需要者に17%の電気料金値上げを通告した。一般家庭の小口需要者にも値上げを検討せざるを得ないという。  値上げは原発放射能漏れ事故により火力発電に切り替えたため、燃料費の増加が原因だという。しかし本当にそうなのだろうか。    電力会社の購入石油価格は国内でも高いと評判だ。ガス購入価格もガス会社の言値だということで、東電から一切値引き交渉がなかったという。  その原因は現行の一括原価方式といわれる企業利益算定方式にある。つまり原価総額の3%を利益として原価総額に上積して電気料金を定めるとしているため、原価総額が膨らめば膨らむほど利益も増えることになるのだ。そんな会社経営なら小学生にでも出来るだろう。    そもそも自分の腹が痛まないのなら燃料費の値引き交渉はしないで、電力会社が上得意であれば電力会社から燃料納入業者へ天下りできるというものだ。その構図は公共事業が民間工事価格と懸離れたまま放置されているのに酷似している。官僚たちは自分のポケットから工事代金を支払うのでないため、いかに公共事業単価が高かろうと問題ではない。それより公共工事が「甘ければ甘いほど」民間企業へ天下りの原資となる。公共事業だけではない。物品購入や作業外注費や業務委託費など、官僚たちが関わるあらゆる税の使途にそうした利権が渦巻くことになる。    かくして日本は公共事業などや公共料金が高止まりしたまま放置されてきた。本来なら無駄遣いをチェックすべき 政治家たち だが、官僚を敵に回すとサボタージュや面従腹背の嫌がらせを受ける。それでなくても無能な政治家の馬脚を官僚の暴露により国民の前に晒されてはかなわない。なによりも議員と名のつく特別職に与えられている「特権」こそが議員たちを黙らせる官僚たちの打った妙手だ。自尊心と自己顕示欲の塊の議員たちを黙らせるには高額な議員歳費と様々な特別待遇が良く利くのを官僚たちは知っている。    この国の電気料金は国際比較で2倍以上だ。原発の割合の低い国よりも高いのだ。この事実を東電はどう説明するのだろうか。  地域独占企業の弊害ばかり現れている。この際、発・送電分離による発電事業の自由化を推進するしかない。東電や経産省のやりたい放題は終わりにしようではないか。黒い政党であろうと白い政党であろうと、官僚利権構造を解体する政治家とその政党を応援しようでは

政局がらみの恫喝は国会議員の本筋に悖るだろう。

  国民の為に政治を行うのが政治家だ。政治とは何か、それは税の使い方を決めることだ。従って税をどのように使うかについて、確たる理念がなければならない。官僚たちによる官僚たちのための政治であってはならない。  もとより、政治家は選挙で当選するまでは、その多くは一般国民だ。選挙で当選してはじめて政治家になれるが、当選した瞬間にこの国の行政全般が俯瞰できるわけではない。当然ながら、何十年間も税を使う仕事に携わり、あらゆる法に精通している官僚たちが臍を曲げれば、いかにやり手の政治家だろうと手も足も出ないだろう。    だから大臣には人事権がある。官僚を使いこなすには命に服しない官僚を更迭できる権利が大臣になければ官僚天国だ。しかし事実上、官僚に対する人事権は封印され、慣例として大臣が直接高級官僚の人事を行うことはない。だが、それが誤りの元凶だ。政治家はサボタージュする官僚や米国と内通する官僚を徹底して更迭しなければならない。決して官僚たちの抵抗を恐れてはならない。恐れるべきは官僚の抵抗を恐れてこの国と国民のための「政治」を為し得ないことだ。    国会議員は主権者たる国民の付託を受けている。国権の最高機関の構成員だ。その国会議員が官僚の下請けに堕したなら、国民は救いようのない暗黒の闇に追いやられるしかないだろう。ギリシアはなぜ国家破綻の淵に立たされているのか、税収に見合わない公務員数と公務員年金を野放図に増大させたからだ。果たして日本はどうだろうか。官僚たちに対する制御は利いているのだろうか、官僚たちの天下り天国は全面禁止へ向かって削減されているのだろうか、公務員共済年金は厚生年金の平均支給額に見合っているのだろうか、そして真面目に25年以上も掛け金を納付した国民年金受給者は、生活保護費ようりもマシな年金額を手にしているのだろうか。    そうした税の使用に関して最も責務を負うべき政治家が、党大会で参集した全国の幹事長を前にして「増税と社会保険の負担増」しか語れなかったとは何ということだろうか。財務官僚の手足となって精一杯働く野田氏に首相としての資質はもとより、政治家としての資格があるのだろうか。「自分は民主党のために働くのではない。日本の国家と国民のために働くのだ」と大見得を切ったが、頼むから野田氏よ、国家や国民の為と大見得を切るよりも、民主党の2009マニフェスト実現の

他山の石として民主党も2009マニフェストの実現に取り組め。

  大阪市長の橋下氏が民主党の2009マニフェストで掲げられた「歳入庁」をモデルにして、税と保険料を一体徴収する部署を設置するという。国会議員が霞ヶ関官僚たちの抵抗とサボタージュにあって悉く2009マニフェストを撤回している中にあって、橋下氏の決断に拍手を送りたい。    国民にとって名目は色々と違っても、公的機関に徴取されるものはすべて同じ「税」の類に過ぎない。それを官僚たちの縄張り意識から所轄庁省の窓口へ支払うというのは面倒だし、それぞれの場所が離れていることもあって、相談に行くのも面倒だ。しかも制度そのものの存続に関わるほど国民年金保険料や国民医療保険料の収納率が著しく低下している現状は放置できない。    そうした現状を放置して野田首相は「税と社会保険の一体改革」を喚き続けているが、見当外れの誤魔化しと非難するしかない。野田氏の言う「税と社会保険の一体改革」とはつまり官僚たちの特権維持と公務員共済年金の特権を存続させる「改革」でしかない。  増税により公務員改革圧力はなくなり、社会保険改革により破綻が見えてきた共済年金の「積立金」の温存を別枠で図りつつ厚生年金の大船に特別仕立ての小舟を乗せることに他ならない。「一体改革」とは良くぞ名付けた誤魔化しに過ぎず、国民が望む本来の改革なら「年金制度の一体化とその改革」とすべきだろう。    大阪市では「歳入庁」効果はせいぜい徴収窓口の一本化でしかないが、これが国となると大きく変わってくる。つまり各制度の「徴収金窓口の一本化」は各省庁が持っている別財布の一本化を意味する。それぞれの省庁が持っている収納窓口による別財布、すなわち特別会計による行政制度のあり方は官僚たちの利権の温存と収納金の官僚たちによる勝手な名目づけによる乱費以外の何物でもないと証明されている。「私の仕事館」はどうだったか、各地の「グリーンピア」は何だったか、「年金基金」会計は何に冗費されていたか、そして「電源開発費」はどのような利権構造を構築の資金源と化していたのか、国民は嫌というほど知ったのではないだろうか。    官僚たちの勝手な言い分と、それに振り回される資質なき国会議員が跋扈している永田町の現実を見るなら、せめてすべての会計が国会審議の俎上に上り明らかになるようにあらゆる公的機関に入る「税」も「保険料」も「徴収金」も「負担金」も、すべては「歳入

国会議員は地方の声に耳を傾けよ。

  民主党全国幹事長会議で全国から集まった都道府県の幹事長から不満の声が噴出したという。日々国民と接している地方の民主党員たちにとって国政を司る民主党政権と民主党幹部に不満の声が上がるのは当たり前だろう。  民主党は官僚内閣制といわれるほど官僚丸投げの政策を続けてきた自・公政権に「ノー」を突きつけ、2009マニフェストを掲げた民主党に政権交代させた。その民主党と遠く懸離れてしまった野田民主党政権に有権者が幻滅しているのは当然のことだ。    午後から民主党大会で野田氏は「税と社会保障の一体改革」なる官僚優遇政府の温存を訴えるというが、全国から参集した幹事長の耳にすんなりと入るとは思えないし、もしもすんなりと受け入れたなら地方の民主党も国民から見放されるだろう。それでなくても民主党は去年の統一地方選挙で惨敗した。民主党地方組織は国民の心の底からの怒りを満身に浴びて、この季節の北風に吹かれる以上に寒々と震えている。    しかし野田氏は能天気にも「税と社会保障の一体改革」なる官僚利権温存のフレーズを繰り返している。もはや民主党政権に何も期待しない。官僚の虜になり、官僚の手足となって働く政権に国民は何を望むだろうか。2009マニフェストへ回帰するためには野田政権の一日も早い退陣と、小沢政権樹立しかないのではないか。

おざなりな歳費削減ではなく、世界との比較をキチッとせよ。

  この国だけの特殊性のように謳っている部分に、相当な誤魔化しがあると思われる。その最たるものが議員たち公務員特別職の歳費だ。  歳費の支給額を検討する場合は、議員が何たるかの位置づけをまず確立しなければならない。米国では議員はボランティア活動の延長で捉えられていて、国家そのものも国民一人一人の集合体の州が連立したものだという考えが強い。だから小さな村や町では議会そのものがなく、オンブズマンがボランティアで公的支出の妥当性や金額の合理性を判断している。    日本の地方議員も町村はそうでもないが、市になると目玉が飛び出るほどの歳費を頂戴しているところが少なくない。そうすると、議員とは何なのか、という議論をまず有権者は喚起しなければならない。高額な報酬と特権的立場を手に入れたいがために立候補するのではなく、行政のチェック機関として住民代表が議会ですべての行政的手続きを審議し、その妥当性と正統性を判断する適者を選ぶ選挙でなければならない。    市議会議員の歳費もさることながら、都道府県議会議員の歳費は驚くべき水準にある。また国会議員の悪弊を真似ているのか、大卒初任給以上の高額な政務調査費を支給しているところが殆どだ。  議員歳費が多額なのは単に議員に対する高待遇が問題なだけではない。議員と雖も人間だから高待遇に最初は戸惑うものだが、すぐにその特権を手放したくないと思いだす。それが問題の根本なのだ。    議員に与えられている歳費をはじめ様々な特権は地域住民や国民の負担の上にある、という認識を持たなければならないが、実際は特権を手放したくないがためにチェックすべき公務員たちと「タックスイーター」の仲間意識が芽生える。そこが基本的な問題だ。  最初はボランティア活動で始まった地方自治体の外郭各種団体が、そのうちボランティア事務所へ出向く足代として「公務員の旅費規定にある程度の足代を貰えないか」ということから始まり、「公務員の日当規定による報酬程度は貰えないか」となって行き、いつの間にか公務員に準する待遇になっていたりする。    議会で審議する議員たちも有権者に甘く、ついつい「公務員に準じる仕事をしていてボランティアはないだろう」と手当支給に寛大な判断をしがちだ。それも自分たちが実稼働日数の働きに見合わない高待遇を手にしているからだ。  岡田氏が国会議員の歳費を8%程度の

福一原発事故の当事者をなぜ東京地検は告発しないのか。

  放射能被害を地域に及ぼし、これほど広範囲の住民に避難させているにもかかわらず、当事者たちは何ら罪に問われないのだろうか。地震や津波などの自然災害による被災だから罪は問えない、という論には当たらないだろう。  原発は自然災害でも地震や津波には余裕を持って想定し、被害を受けないように二重三重の安全策を充分に施している、と東電は地域住民に説明していなかっただろうか。そして政府も原子力委員会や原子力安全・保安院は原発の安全性に対して国民の代表たる政治家が官僚を指示して安全策を講じていたのではなかっただろうか。    それでも史上最悪ともいわれる放射能漏れ事故を起こした。なぜかという問いが国民全体から投げかけられたのは当然のことで、全国に50以上もある原発すべての地元民を不安のどん底に突き落とした。そして次々と明らかになる原発の安全管理の杜撰さに呆れるばかりだが、つい先日も原子力保安院の外注により点検作業の取り纏めを行っている独法が保安院への報告書が実は点検作業を実施している民間企業の仕様書を丸写しだったと明らかになった。かくも弛緩仕切った官僚たちの天下り利権の巣窟と化した原発事業は廃止するしかないが、それでも原子炉の停止および廃炉に到るまで当事者の信頼を取り戻すには放射能漏れ事故がなぜ起きたか、徹底して追求しなければならないと同時に処罰すべく者は処罰されなければならないだろう。    

TPP交渉で米国自動車業界が早くも注文を付けている。

  TPP交渉への日本参加をめぐって、米国内で自動車業界が早くも日本に注文を付けている。その一つが「軽自動車基準の撤廃」で後一つが「日本の円安政策を廃止せよ」というものだそうだ。  軽自動車は日本国民なら誰でも知っているが、その創設は元々日本国内の自動車の普及を目指して小型車よりも更に小さな安価な車を特別な基準を設けて税なども安くしたものだ。日本の昔ながらの細い路地や狭い宅地事情に合致して一定の市場を確保している。そうした日本国内の事情を無視して「軽自動車基準」は関税障壁だと米国の自動車業界は喚いている。    さらに筋違いなのは「日本が円安」を誘導しているから米国に日本製の自動車が入ってくるという抗議だ。既に米国内で流通している日本製自動車の大半は米国製の日本車になっている。しかも1ドルが70円台という超円高になっている現状を米国自動車業界関係者は知らないのだろうか。経済音痴もここに到っては中国の理不尽な「尖閣諸島も中国の領土だ」と言い張る荒唐無稽さと五十歩百歩だ。  オバマのグリーンニューディールと称するドル垂れ流し政策によって、百兆円規模以上のドルが増刷されて世界にばら撒かれた。その結果がドル安円高になり、それを指してオバマは「景気を回復して、失業を輸出する」と言い、国内の失業率を改善しようとした。結果としてそのインフレ政策は失敗したようだ。既に米国の製造製品で輸出すべき品物は無いに等しい。    だが、図らずもTPP交渉が何たるかが解ったのではないだろうか。つまり関税の撤廃が本質ではなく、あらゆるものを「関税障壁だ」と言い張って、相手国の政治や諸制度を米国流に変えようとする「独断的な圧力」に他ならない。今は圧力で済むが、TPP批准後は日本国外に置かれた調停にかけられ、負ければ日本政府は賠償しなければならない。実際にカナダは米国製ガソリンに混入された添加剤を「有害物質」として輸入制限したが、米国のガソリン業者に提訴されカナダ政府は敗訴し莫大な損害賠償金を支払った。  何が関税障壁として相手が訴えるか分からない。たとえば『契約書が日本語なのは怪しからん』として訴えられて敗訴すれば、やがては公用語は英語にすべき、とされかねない。なにしろTPPに参加したなら、交渉相手は世界一乱暴者の米国だということを忘れてはならない。  それでも日本はTPPに参加すべきだろうか。米

中国の増長の責任は国際社会にある。

 第二次世界大戦の戦勝国が勝手に作った国連で、主要な安保理を構成する常任理事5ヶ国の中で唯一戦勝国でないのは中国だけだ。第一、第二次世界大戦終了時に中国共産党は国家すら形成していなかった。中国共産党が国民党を台湾へ追い払って中国を掌握したのは1948年のことだ。  かつて国際社会は国民党の治める中国を国家として承認していた。台湾に追いやられてからも久しく台湾政府を正式な中国国家として承認していたが、やがて現実的な対応として1972年10月25日の国連総会で中国共産党の支配する中国本土を「中国」として国連に正式加盟させ、台湾の中華民国政府を除外した。    軍事力により中国共産党は一軍閥から一国を代表する政府として国際社会に認められただけでなく、台湾の中華民国の国連安保理常任理事国の立場までも奪い取った。そうした便宜的な国際社会のありようが更に中国に野心を抱かせたとしても当然のことだろう。  日本政府はODAを利用して日本のゼネコンが現地受注する「還流式」国際貢献を長年に亙ってしてきたが、中国は直截的に「対価国益」を求めてODAをアフリカや南米諸国に行っている。余りに直截的に過ぎてアフリカ諸国では中国人と現地人との間で軋轢を生じているようだが「ムダ金は決して使わない」という中国式の勘定高い外交姿勢を押し出している。    中国に投資熱を煽った連中は少しは反省すべきだろう。今でも「加熱する中国」を賛美して「投資すべき」と煽る愚かな投資評論家がいるが、商法の整備はおろか法人登記法すら整備されていない「人治国家」に国際的な商慣行が通用するとでも思っているのだろうか。  中国は貿易で稼いだ黒字相当額の「元」を増刷して国内マネーサプライを増やしてきた。そうすることで手元の外貨ドルとそれを根拠とする「元」の国内流通で加熱する経済成長を可能にしてきた。しかし、それは1980年直前の日本ですら行わなかった爆発的な金融拡大策だ。現実に中国国内の通貨量は日本円換算で250兆円に達しているという。しかしあの国は政府統計が当てにならないのは周知の事実だ。現に地方政府は赤字債を発行してはならない建前になっているが、実際は地方政府幹部の手柄にしたいため地方債発行による中央政府の感知しない資金調達で、地方の公営企業に梃入れして生産を飛躍させている。  そうした地方債の発行残が数兆元にもなり中央政府

増税よりは財政破綻を。

  財政破綻が起きて、国民生活に何が起こるのか。マスコミの増税圧力の為にする「財政破綻は大事だ」と国民を脅す報道に誘導されず、ここは冷静に判断しなければならない。たとえば夕張市は財政破綻した。しかしそれで夕張市は失業の嵐に見舞われているだろうか。確かに市民サービスは削ぎ落とされたが、同時に公務員数の削減や待遇の根本的な見直しがなされた。財政破綻は名誉に大きく関わる問題であって、身の丈の行政を確保するにはこれほど起死回生の良薬はないだろう。    日本は財政破綻するのか、実際はどうかというと、なかなか財政破綻しない、というのが結論だ。なぜなら莫大な国債残高があるものの、その94%は国内の金融機関が引き受けている。欧州諸国で財政危機に瀕している諸国が外国の金融機関から大量に借金したり、欧州安定化基金から財政支援を受けてヨロヨロと自転車操業のような国家財政を国外からの借金や支援で持たしているのとはわけが違う。  日本の国債は国内消化が大部分で対外的な収支は世界随一の債券国家だ。よって日本円の信認は国際的に揺るぎなく、独歩高の現状にある。    しかし、このまま赤字国債を積み重ねて良いわけはない。いずれ借金は返済すべきだが、景気悪化により税収減となったにもかかわらず、官僚たちが対前年比増の予算を組み続けた結果が今日の膨大な赤字国債残となって仕舞った。まず官僚たちは税収や負担金の範囲内で仕事をすべきが本筋で、歳入見込み額を超える予算を組むのは慎むべきだろう。  これからでも遅くはない。歳出削減努力を積み重ね、それでも足らない場合は自ら給与を削減するのが勤めではないだろうか。共済年金も言うに及ばず、まずは国民年金の引き上げに全力を注ぐのが官僚たちの勤めではないだろうか。    増税や負担増を認める「税と社会保障の一体改革」とは官僚甘やかし公務員天国をこの国で続けることに他ならない。断じて増税を認めるべきではなく、官僚が自ら公務員改革を提言しないなら、国民は国家財政破綻の道を選ぶべきではないだろうか。それにより大手マスコミが脅すほどのことは起こらない。終戦直後を思い浮かべれば、何が起ころうと大した問題ではない。

この国の危機は下僕意識のない官僚たちの認識にある。

  確かに官僚や公務員は行政に携わる吏員だ。この国の国民に奉仕する行政職を奉じることにより、国民の納付した税や負担金から俸給を頂戴して暮らしている。しかし昨今の官僚たちにそうした意識は希薄なようだ。  たとえばつい先日、原子力安全・保安院の外郭団体で原発の安全・管理を司る独法がその下請け民間企業の提出した報告書を表紙だけ変えて丸々コピーし経産省管轄の原発保安院に報告していたことが判明した。それも去年だけではなく、何年も代々行われていたと判明している。これで原発が安全なわけがないではないか。  だが、こうしたケースは決してレアなものではなく、道路の空洞調査を行う独法があったように枚挙にいとまがない。多くの外郭団体は本来行政が為すべき仕事を「作業外注」もしくは「外注委託」として独占的に独法なり公益法人に丸投げし、そこが官僚たちの天下り先になっている場合が殆どだ。    この国の危機とは何か。すぐに評論家たちは財政危機だとか、普天間問題でぎくしゃくした日米関係を挙げるが、そんなことは単なる現象的なことでしかない。それなら日本の国家財政が好転すれば危機は去るのだろうか。ユーロ危機や米国のデフォルト危機が去らない限り、この国が安泰だとはいえないだろう。更に言及すれば原油市場への投機や小麦市場への投機から為替市場への投機に到るまで、投機家たちの独善的な「自分さえ儲かれば世界的な物流システムや、その末端にいる多くの国の国民生活がどうなろうと知ったことではない」という儲け第一主義も世界の未来に対する大きな危機ではないだろうか。    普天間が日米の危機だというのはどうかしている。米国は日本国内に駐留する米軍が何処を基地として使用するかは日本政府のハンドリングに従うのが本筋だ。米軍の戦略的な思惑は日本政府と日本国民の上に位置するものでは決してない。なぜなら日米安保条約は主権在民の日本国民の意を挺して日本政府が米国政府と締結しているモノに過ぎないからだ。普天間基地移設に関してまずは現地沖縄住民の総意を無視して、日本政府が勝手に決められるものではないし、公有水面埋立法では現地自治体の承認がなければ出来ない仕組みになっている。米国も法治国家なら日本国の法を熟知しているはずであり、日本政府が無理を承知で袋小路へ懸案を突っ込んでいることを承知の上で「早くしろ」と言っているに過ぎない。つまり普天

野田首相は日本を官僚天国のまま潰すつもりか。

  世界の金融危機を騒ぎ立てるのは為にする議論だ。決して欧州ユーロは破綻しないし、米国ドルも紙屑にはならない。しかし中国元は分からない。  米国ドルは限りなく紙屑に近づくとしても、連邦中央銀行がドル発行権を有している限り、ドル紙幣は絶え間なく増刷され続けるだろう。たとえ1ドル50円を割り込んででも、FRBはドル紙幣手発行権を米国政府に返還することはないだろう。    同じく、欧州ユーロも破綻することはないだろう。際限なくギリシアの財政赤字を支え続け、ユーロ紙幣を増刷に次ぐ増刷を続けてギリシアを支え続けるだろう。ドイツの貿易黒字がその担保となって、結局ドイツはギリシアやイタリアやスペイン、ポルトガルを支え続けるしかない。それが欧州を単一通貨に切り替えた当然の結論だ。政府や政策までも欧州単一にしないで、通貨だけ単一にするという暴挙がどのような結果をもたらすか、ヨクヨク身に染みたはずだ。    ドルは世界の基軸通貨として存在し続けるだろう。たとえ米国政府のデフォルトが迫ったとしても、結局はデフォルトさせることはない。ドルは世界経済にとってあまりに存在が大きくて潰せない通貨なのだ。翻って円はどうだろうか。  円は世界随一の純資産を保有している。国債残高がGDPの2倍近いとして、それがドウシタというのか、と聞き返さなければならないだろう。米国のドルが対外債務超過で対内国債発行の引き受け手がいない事態が発生している。日本の国際とは雲泥の差だ。    だから日本国債の格を下げようと、世界の投機家たちはまったく動揺しないのだ。日本国債残高はイタリアの比ではない、と財務省が躍起になろうと、国民は冷静にこの国のあり方を皮膚感覚で既に承知している。野田氏が「日本再興だ、日本復興だ」と騒ぎ立てても、すでに国民の方が余計に知っている。ここはまず景気対策をキチントやることの方が大事だと思うが、国民の声はどうであろうか。

日本国債の格下げがあろうと、日本の信認は揺るがない、

  未曾有の円独歩高の現状にあって、日本国債が格付け機関により格下げになろうと何の問題があるだろうか。それにより日本国債の引き受けが無くなり、国債金利が急上昇する、というイタリアなどのような事態に陥るとは決して思えない。それを産経子は゛消費増税を実施しないと日本国債が暴落する、」などと根拠もなく消費増税を煽っている。ここまで財務官僚のポチになり切れるとは驚かざるを得ない。    消費増税をこの時期に行えと使嗾するのは景気に配慮を欠く経済感覚ゼロの人ではないかと思う。むしろ2、30兆円程度の国債を無利子日銀引き受けにより政府支出を大胆に行って被災地の災害復興にジャンジャン使うべきだ。そうした国内のマネーサプライを100兆円程度に増やして円の独歩高に対処すべきだ。    財政再建は増税よりも公務員給与と共済年金の支給水準を一般企業並みと厚生年金並みにに引き下げることによって財源は簡単に出るはずだ。それにより外郭団体の天下り公務員OBの給与も連動的に削減されるだろうし、準公務員とされる電力会社従業員給与やNHK職員給与なども一般企業並みに行政指導することにより、公共料金の引き下げも可能となる。    そして公的会計の歳入歳出と特別会計などとバカな分割・分離会計を改めて、世界諸国並みに会計原則に基づく複式簿記と会計報告書に改めるべきだ。それにより税収42兆円で100兆円近い歳出だ、という財務省の「危機的税収」というプロパガンダが崩れることになる。社会保障会計が歳出の大部分を占めている、という説明は聞き飽きているが、それに見合うだけの保険料収入と国民年金掛金収入とが除外された、社会保障費総額を示す財務省のマジックに国民は長いこと騙されてきた。もちろん官僚下請け広報機関たる大手マスコミが国民にそうした偏って誤った情報をひたすらタレ流し続けた罪も問わなければならない。複式簿記にすれば当然のことながら資産の部に年金基金が計上されることになるが、その金額も一体幾らなのか国民は知る権利がある。    すべての財政情報を公務員は公開する義務がある。もちろん財務省は予算要求のあった箇所につけた予算に関して、官僚たちのあらゆる支出記録を徴収し、国会本会議を通じて国会議員に報告する義務がある。第五検審会支出報告に関しても財務省は克明に承知していなくてはならない。2010年の東京地裁に置かれてい

かくして野田政権は反小沢、反国民、親官僚のオールスターキャストとなった。

  2009マニフェストからこれほど遠い民主党政権があるだろうか。自・公政権の終焉と民主党への政権交代を願った者として手酷い裏切りに怒りを覚える。  菅政権の幹事長として岡田氏が力を入れていた「年金一元化」は平成大合併により市町村の地方公務員数が大幅に減少し、数年以内に退職した年金受給公務員OB数が現役公務員数を上回る異常事態に突入するという。共済年金の現行水準を保つのが困難になるため、これまで頑なに官僚たちが維持してきた共済年金単独運営を放棄せざるを得ない状態にある。それを「年金一体化」と称する欺瞞により公務員年金の『超』優遇制度を温存したまま厚生年金の「基礎年金基金」に食いつこうとしている。    それに最も手を貸していたのが岡田氏だ。年金の「一体化」というのなら国民年金を「基礎年金」として共済と厚生年金の下に置く措置は断じて納得できない。すべての国民が加入年金の種類を問わず「生活できる」年金でなければならない。夫婦が公務員の世帯は退職後に手にする年金は世帯単位で見れば莫大なものになっている。毎月のように年金で海外旅行を楽しみ、優雅な暮らしを送るのは、それはそれで現役世代の労働に対するご褒美というので良いかもしれない。ただし、厚生年金と同じ条件であるなら。    国民年金加入者は勿論夫婦が国民年金に入っている場合が多い。平均受給額が一人当たり4万6千円とされる年金では夫婦合計でも9万2千円だ。公務員の夫婦受給者と比べて何倍の格差が生じているのか、正確な資料を国民の前に提示すべきだ。その上で「一体改革」なる文言を使うべきではないだろうか。  そもそも年金世代が現役世代の平均給与より多額な公的年金を受給する正当性があるのだろうか。既に子育てを終え、それほど多額の生活費を必要としない世代になぜ多額の年金が必要なのだろうか。それより基礎年金に貶められている国民年金の底上げをする方が重要ではないだろうか。    税と社会保険の一体改革と銘打っているが、その実態は官僚優遇制度温存でしかない野田政権の誤魔化しを許してはならない。国家財政逼迫を誇大宣伝して増税・負担増へ国民を誘導している財務省が官僚たちの浪費を温存している実態にこそ光を当てて改革すべきだ。  2009政権交代を果たした真正民主党は何処へ行ってしまったのだろうか。検察官僚による小沢氏へのいわれなき人身攻撃に萎縮し

岡田氏が副総理とは野田茶番政権の最終章が始まったようだ。

 岡田氏を副総理に任命すると野田首相は決め、岡田氏もそれを引き受けたようだ。これで野田氏は小沢氏の仲間を政権と党要職から追放する腹を決めたといって良いだろう。なぜなら岡田氏は菅政権の幹事長として党内融和を図るよりも、小沢氏を座敷牢に入れて小沢派を冷遇した張本人だからだ。    これで心置きなく小沢氏は仲間を率いて野田政権に反旗を翻せることになった。第二自民党以上に官僚内閣制政権の野田政権は民主党政権とは到底呼べない代物だ。小泉・竹中改革による市場原理主義・新自由主義によってこの国は格差社会の悪夢に引きずり込まれた。その続きを野田政権はTPP参加や消費増税によって「持てる者」を擁護し、「持たざる者」を社会の底辺へ貶める国家造りに邁進する腹つもりのようだ。    野田政権を操っている官僚たち焦っている。10日11日と行われた小沢裁判の被告人尋問で「推認」の質問しか出来なかった指定弁護士と裁判官によってこの裁判が茶番劇だとバレバレだ。4月に「推認」に次ぐ「推認」で有罪判決を小沢氏に言い渡すことがあったら、この国の司法制度を国民は信頼しなくなり官僚制度までも根本的におかしくなるだろう。既にそうした胚芽はネット世論に現れている。    時間がないとばかりに官僚が野田氏の尻を叩いて岡田氏と前原氏と官僚仲間のオールスターキャストで増税へ一直線でアクセルをふかすつもりだろうが、そうはいかない。国民はとうに第二自民党と化した民主党に愛想を尽かしている。「信なくんば立たず」の箴言は今こそ光り輝くだろう。

「陸山会」事件に関し、この国の大手マスコミの責任を問う。

  どうしても書かざるを得ない強い憤りを感じている。偶々視聴したテレビで昼の報道番組紛いの番組をやっていた。そこで小沢氏が来年四月にも出される判決で無罪になったら政局にどのような影響が出るか、有罪ならどうだと井戸端会議にも劣る会話を記者上がりのコメンテータや若い弁護士やタレント紛いの大学教授が予測して楽しんでいた。それ自体が「小沢氏の陸山会事件」の裏にどのような陰謀や策略があるのか明白な検察官僚と司法官僚の暴走を指摘しない、まさしく官僚広報機関たる大手マスコミの姿勢に沿った幇間たちの姿に他ならない。それはそれで、そのような軽い人物がいつの時代でも、どの国でもいることは認めよう。誰しも国を動かしている権力に逆らわないで、美味しい仕事にありつきたいのは同じだろうから、バカな自分自身を世間に曝して恥をかくが良い。しかし、北野たけし氏の兄を売り物にしているコメンテータが「小沢氏はたとえ無罪になろうと道義的責任がありますからね」政治の表舞台に出るべきでない、とでも言うかのような暴言を吐いたのには怒りが遂に沸騰した。    語るに落ちるとはこのことだ。人は無罪になっても起訴され裁判にかけられただけで道義的責任が生じる、と考える程度の人物が大きな顔をして大学で学生に何かを教え、テレビに出演して大きな顔をしているのだ。彼の前では「推定無罪」の憲法に定められた基本的人権もヘッタリレも何もあったものではない。たとえ無罪でも「道義的責任があるから一歩退くべきだ」というのだ。つまり検察に睨まれた人物は世間の第一線に立ってはいけないと言ったのに等しい。なんという官尊民卑の卑しい発想だろうか。    今朝のどの大手マスコミの発行する新聞を読んでも「陸山会」事件なるものの本質を報じないで、被告人質問で小沢氏が「陸山会」に関することは秘書に任せていた、というのは秘書に責任をなすりつけて逃げている、と断定的に書いている。  国会議員が国政に専念し、後援会事務を秘書に任せっ放しにして何が悪いのだろうか。それとも政治家は一日の終わりに秘書全員を集めて後援会の現金勘定の確認と領収書を突き合わせなければならないのだろうか。政治資金収支報告書を提出する前にその中身を一々点検し算盤を弾いて検算し、添付された領収書などの帳票を検討し内容を今一度点検せよというのだろうか。  それならそのように政治資金規正法を改正し

故意の思い込みと下世話な「推認」はどうにかならないのだろうか。

  小沢氏が不動産取得に用立てた「自分のカネ」と、銀行に融資を仰いで「陸山会のカネ」として小沢氏に返済した4億円を巡って、故意に混同して質問しているとしか思えない裁判の被告人質問だった。  指定弁護士は4億円の使途について秘書と話さなかったのか、と問うと小沢氏は「寮を建てる土地購入のためだろうと思ったが、それが何時かは話していない」と返答している。政治家と秘書のやり取りとして何ら不思議ではない。    秘書と政治家との関係は経営者と従業員の関係よりももっと濃い。経営者なら従業員が勝手に辞めようがそれほど大したことではないが、秘書が勝手に辞めれば大抵の政治家は動揺するだろう。なぜなら秘書は政治家の意を読んで後援会や陳情者と対面している。政治家の支持者とも強い絆を構築し、政治家がいなくても選挙を仕切ることもある。その秘書に対して政治家の生死に関わる選挙でもない、秘書たちの寮を建てる不動産購入に関して一々報告を受けるだろうか。しかも小沢氏ほどの大物政治家が。    人は自分の観念で相手を観るものだ。いじましい者は相手もいじましい人物として接するし、浮気性の男は最も信頼すべき愛する女人に対しても「浮気をしてはいないか」と疑うものだ。金銭に対して細かい者は被告人も金銭に対して細かいと決めてかかる。それは庭に土を運ぶ「トラックを持っている」と言いあう二人がいて、一人は「10回は往復しないと駄目だろう」と言い、一人は「いや、一回で済む」というのと似ている。前者が「持っている」トラックは軽四で後者の持っているトラックが一〇㌧ダンプだったとしたらどこまでいっても話は噛み合わないだろう。トラックの場合は具体的だから話しが錯綜する原因が分かり易いが、金銭感覚や秘書との信頼関係の場合はモノではないから分かり難いだけだ。しかし、それは観念の話であって、小沢氏と同等の観念を有する者なら何の疑問もなく得心できるはずだ。    1/12の『産経抄』氏は伊藤博文氏の『女好き』を例に挙げて、伊藤博文氏が芸妓と遊んでいても天下国家を考えている、と小沢氏の「常に天下国家を考えている」との言辞を揶揄しているが、これも浮気男が愛する女人の「浮気」を邪推するのに似ている。抄氏は国家の指導者の立場に立ったことはおろか、小さな会社でも経営者として従業員の生活を一身に引き受ける立場や、小隊長として部隊兵士の命に責任を

この国の司法は「法と証拠」に依らない「推認」判決を繰り返すのか。

  1/11の被告人質問で指定弁護士は訴因にもない小沢氏の4億円の原資を執拗に問い、裁判官までもが4億円の原資を問うた上で小沢氏に「政治家は政治資金規正法に基づく収支報告書を見ないのですか」と聞いている。  収支報告書に政治家が署名押印する欄はない。会計責任者の署名捺印だけを求めている。つまり政治家が収支報告書を見ないのを前提に「政治資金規正法の収支報告書」の条文が作られているのだ。    報道番組ではヤメ検を出演させて指定弁護士寄りの馬鹿げたコメントを言わしめている。MCまでも「推定無罪」の原則を踏み躙った人身攻撃裁判という核心には一切言及せず、小沢氏が「記憶にない」「知らない」を繰り返した、とさも灰色と国民に刷り込むようなコメントを繰り返していた。全く暗黒時代の戦前もかくあったかと思わせる裁判と大手マスコミだ。    なぜ検察が石川氏の供述書にない内容を「事件報告書」に盛り込んだのか、の犯罪性に言及しないのだろうか。検察による事件偽造という飛んでもないことが行われ、その「事件報告書」を基に審議して委員が存在したのかその実態すら分からない第五検審会が「起訴すべき」と議決したとされているのだ。直ちに小沢氏の裁判そのものを停止すべきが筋と考えるが、東京地裁の裁判官たちはそうは思わないようだ。彼らはヒラメのごとく上司たちの意向を慮って、元秘書たちへの判決と同じく「推認」に次ぐ「推認」で小沢氏にも有罪判決を言い渡すように決めているのだろうか。    こうした愚かな裁判をなぜ国会議員は批判しないのだろうか。自分たちの仲間、国民から選ばれた国権の最高機関を構成する国会議員が検察や司法官僚たちによってスポイルされているのに知らん顔がよくできるものだ。明日は我が身となぜ考えないのだろうか。  いや、官僚たちの下請けに成り下がれば攻撃されることはないと心得ているのだろう。野田政権のように2009マニフェストで政権交代した民主党政権であるのに、自民党もびっくりの増税財務省政権になっているのを見れば、国会議員たちの沈黙も頷ける。しかし、そんな腰抜けは国民の代表ではない。官僚たちに平身低頭し公務員改革の出来ない政治家は国民の代表に値しない。是非とも次の選挙ではバッジを外してもう落選運動を繰り広げようではないか。

日本政府の弱腰が事態の悪化を招いている。

  かつて民主党の愚かな政府高官が「弱腰ではない、柳腰だ」と日本語に無知なことをさらけ出したことがあった。あれは尖閣沖で日本の保安艦に体当たりした中国漁船の船長を取り調べも早々に釈放した時のことだった。  今回も韓国の日本大使館に火炎瓶が投げ込まれ被害を蒙ったことに対して、韓国に対して遺憾の意を伝える程度で済ましてはならない。日本大使館の警備責任は韓国政府にある。そのことを忘れては国際社会で韓国は非難されるだろう。    犯罪を犯した中国人に対しても「靖国に放火したのも自分だ」と言っているのなら、身柄の引き渡しを要求するのも当然のことだ。  そもそも中国や韓国の国民が日本に悪しき感情を抱いている責任は中国当局や韓国当局の反日教育にある。両国が史実に基づく教育を施しているのなら日本国民も我慢しよう。しかし史実から大きく逸脱したプロパガンダを判断能力もほとんど備わっていない義務教育段階で国民に吹き込み、政府までもが大きな顔をして事実と異なることや史実にないことを繰り返し公然と口にしている。日本政府はその都度明確に批判して否定すべきだ。そうしなければ真の友好関係は決して築けない。    靖国神社に放火した中国人は自分の親族が「従軍慰安婦だった」と言っているという。何度も書いたことだが、日本軍に「従軍看護婦」はいたが「従軍慰安婦」なる者はいなかった。なかった事柄を持ち出して中国や韓国の世論に火をつけたのは日本の大手マスコミだが、その事実がなかったとはすでに証明されている。  しかし時の首相が村山談話を発表して「謝罪」し時の自民党総裁の河野洋平氏が追認したことから解決済みの問題が再燃した。どうしてこんなバカな政治家がこの国には存在するのだろうか。    事なかれ主義で自分だけ良い子になろうとする姑息な人物は政治家になるべきではない。両国関係を危うくし、日本国の名誉を毀損する。間違ったことをしてはならないし、外交に関しては欧米諸国の態度を学ぶべきだ。彼らの厚顔無恥こそ外交の神髄だ。欧米諸国はかつての植民地に対して一言も「謝罪」していない。それどころか自分たちが植民地の社会インフラを整備してやったとひけらかし、オランダに到ってはインドネシアに社会インフラ整備の対価を要求し、誇り高いインドネシアは独立した国家としてオランダにオランダが整備した社会インフラの対価を支払った。欧米諸国は

何が問題なのか、政治資金収支報告書そのもののありようこそ問題だ。

 政治資金規正法に基づく収支報告書はそれほど念の入った会計報告書ではない。極めて宥恕範囲の大きな、云いようによっては好い加減な代物だ。第一複式簿記会計ではない。よって厳密な会計帳簿とは言い難く、会計処理基準も現代企業会計で要請されている発生主義の原則も貫かれていない。実に杜撰な「記載要綱」が定められているだけで、それを根拠に不動産の取得時期が記載ズレだとか断定して罪を問おうとしている方が余程どうかしている。だからこれまでは他の国会議員の報告書では記載内容に誤りがあった場合は総務庁の担当者が会計担当者を呼び出して訂正させていたのだ。    それが小沢氏に限っては不動産取得と登記期日のズレが突如として問題にされた。いずれの期であるにしても記載があれば問題としないのが総務省の立場だが、それを検察だけは執拗に問題だとしている。その検察の異常な行動を是認するかのように「4億円の原資が問題だ」とマスコミは騒ぎたてている。しかし国税査察が問題にしていないことを、門外漢の検察が問題にして何が分かるというのだろうか。ましてや江戸時代の瓦版にも劣る大本営発表機関に堕した大手マスコミの論評は的外れもいいところだ。    さらに言えば、今回の「検審起訴」に4億円の出所は問われていない。元秘書たちは4億円に水谷建設からの献金1億円が入っていると何の証拠もなく裁判官の思い込みによる「推認」により認められたが、小沢氏の「検審起訴」の訴因に4億円は問われてすらいない。それをさも疑惑があるがごとくテレビでバカなMCが繰り返し言及するのはなぜだろうか。訴因に関係なくとも小沢氏にそうした疑惑があるがごとく視聴者に刷り込みたいのだろうか。名誉棄損の疑いすらある報道姿勢に怒りを覚える。    執拗に検察役の弁護士が政治資金規正法により提出した報告書の内容を承知していたかと聞いていたが、政治資金収支報告書に代表者の署名捺印は求められていない。つまり代表者たる小沢氏が関与していないことを前提として収支報告書という制度は作られている。だから小沢氏が知らなくても何ら問題ではない。  証券取引所に提出する有価証券報告書なら監査法人の監査が義務付けられ、当然のように代表者の署名捺印も求められている。そのことと政治資金収支報告書とを混同してはならない。何処に小沢氏や元秘書3人の犯罪があるというのか、じっくりと政治資金規正

どうやら交渉しているようだが、

  怪しいといえば怪し過ぎる。漁具を積んでない代わりに、GPSをしっかりと積んでいる漁船とは珍しい。しかも冬の日本海をあの程度の小船で渡って来たとは思えない。近くに母船がいて、そこから放たれた工作船ではないかと疑惑を持たれても仕方のないものだ。  しかし北朝鮮が返せ、と言い、3人も帰りたいといえば返さないわけにはいかない。しかし、3人を返す代わりに拉致被害者を返してくれ、と北朝鮮に言うのは当然のことで、実際に言っているようだ。余りに早い送還が何を意味するのか、もうじき分かるだろうし、そのために急遽中井氏が中国へ赴き北朝鮮と極秘会談しているとしたら、それなりに話の辻褄が合う。拉致問題に関して何らかの成果があることを祈るばかりだ。

少子化対策をどうするつもりなのか。

  特殊出生列が最低だった1.32からやや改善されて1.39になった。しかし喜んでいる場合ではない。人口を維持するには2.08程度は必要でまだまだ日本社会は人口減の状態を解消されないでいる。百年後には9000万人を割り込むとされ、それ以後も特殊出生率が改善されない限り人口減は続くことになる。  未来の人口減社会に起こる様々な事態を想像できない、今の目先だけしか視野にない政治家たちは無責任だといわざるを得ない。原発は未来の国民に負荷を与えないために停廃止すべきだが、原発問題よりも更に未来に負荷を与えるのが人口減社会だ。    確かに、人口増加社会も様々な軋轢をもたらす。社会インフラの整備や増加した人たちに対する住居の確保も必要だろう。しかし人口増加社会は発展的解消が可能だ。かつて戦後復興期にこの国は国内需要に支えられてテイクオフした。その上で工業技術の革新などにより戦前の「メイド・イン・ジャパン」が現在の「メイド・イン・チャイナ」と同義語だったものを、戦後の経済成長と軌を一にして粗悪な「メイド・イン・ジャパン」から優れた工業製品の代名詞へと評価を一変させた。    この国土に1億2千万人は多過ぎるのかも知れない。江戸時代の人口は概ね3000万人前後で推移した。この国の国土だけで養える人口はその程度だといえるだろう。明治になって人口は急激に膨れ上がり倍の6000万人を超えるのにそれほど時間はかからなかった。現在はさらにその倍の人口を日本は抱えているが、日本社会は1億2千万人を前提として整備されている。将来予測からいえば人口は一定の方が社会インフラの維持管理からいっても無駄がない。しかし、まさしくヒトは生き物だ。工業製品の生産管理のようにはいかない。    人口が半減すると当然GDPも著しく縮小するだろう。社会インフラを担う「税収」も半減すると覚悟しなければならない。肥満体だった人がダイエットによりスリムになったのなら服を買いかえれば済むが、社会インフラはそういうわけにはいかない。何事も継続していなければ意味を失い、一点の断裂が大きく社会インフラの価値を損なう。例えば高速道路がそうだし、新幹線がそうだし、光ケーブルがそうだ。この国の長い海岸線と急峻な河川を考えても維持・管理のためには最低限の社会インフラをしっかりとしていなければ自然災害の猛威に未来の日本国民は日常的に襲わ

中・韓の反日教育に対して日本政府は誤りを指摘し、史実に基づいて毅然と抗議すべきだ。

  中国と朝鮮半島の反日教育は常軌を逸している。正当性を欠く政権は国外に国民共通の敵を求めて国民に刷り込むものだ。それも出来るだけ隣国に対して国民が憎悪を抱くように仕向けて、国内の失政を国民に刷り込んだ「憎むべき国」に対して敵愾心を煽れば内政問題を敵対国への憎しみにより解消できるという精神的な「補完関係」を利用しているに過ぎない。    しかし、それにより日本がいかに関係諸国に好意を示し援助しようと無に帰すとは何ともやりきれない。半島と日本は戦争をしたわけでもないのに「損害賠償」を求められ、中国に対しては日本の何十倍も侵害し中国国民の名誉を著しく毀損した英国に比して余りに過大な「損害賠償」を求められている。    そろそろいい加減にしようではないか。中国や韓国に対して、日本を敵視する教育を止めるように正式に日本政府は申し込もうではないか。それが嫌なら、あらゆる外交関係を閉じても構わない、とする態度に出るべきだ。今なら中国へ進出した日本企業が投資した資金や利益を日本へ持ち帰ることは可能だ。しかしバブルが弾け中国が未曾有の金融恐慌に陥ったなら、中国に展開した日本企業は生産設備を含め中国に強制的にプールするように命じられている企業利益までも没収されるだろう。中国政府を信じ生産拠点を移したツケと言えばそれまでだが、中国投資熱を煽った経産省も責任を負わなければならないだろう。    今後とも、偏向した義務教育により自国民に反日教育を止めない限り、中国や韓国と正常な外交関係を結ぶことは不可能だ。韓国タレントが在日を煽って韓流を演出して日本円を稼いでも、それは上辺だけのことでしかない。一朝事が起これば冷静な判断能力はたちまち停止して「日本憎し」の捏造された歴史教育が韓国人の中で芽吹くのだ。反日教育を近隣諸国が止めない限り決して、日本と近隣諸国との真の友好関係は築けないだろう。    馬鹿な政治家が勝手に謝罪したり、国益を無視した「可愛いっ子」になりたがる幼稚な政治家が「村山談話」を追従したりする限り、日韓関係は根本的なところではついに正常化しないだろう。日韓首脳会談で歴史的に過ちの「従軍慰安婦」問題を過ちと百も承知している韓国大統領が持ち出さざるを得ない良心の屈辱を、韓国大統領に味あわせる愚行を今後とも韓国は繰り返すのだろうか。その責任の一端は「良い子」になりたがった村山富市氏と

日本の二大政党制の危うさの原因は国民目線の喪失にある。

  かつて自民党政治が売りにしていたのは「経済成長」だった。戦後復興から産業の立て直しと輸出産業の振興にあらゆる力を結集して国民総所得を肥大化させた。その際力を発揮したのは経産省や国交省などの産業基盤を支える官庁と官僚たちだった。その努力の結果日本は経済大国として戦争で徹底的に破壊された廃墟から甦った。    しかし過ぎたるは及ばざるがごとしという。経済規模が巨大化するのと軌道を一にして、許認可権限を握る官庁の利権構造も目に余るようになってきた。かつては高効率的だった制度事業が非効率と高コストの権化と化し、利権の巣窟と化した。国民経済に寄与した産・官・学総掛かりの産業構造はいつしか「利権ムラ」と化して、産業振興に寄与しないどころか国民経済にとって弊害をもたらすようになった。格好の例が地域独占によって守られ巨大権益化した電力事業者と原発と経産省の関係だ。    国民は子細な検証はしていないまでも皮膚感覚として、巨悪な利権構造の頂点に霞ヶ関の官僚たちが君臨しているのを知っている。霞ヶ関が国会議員たちも巻き込んで利権構造の腐臭ふんぷんたる官僚たちのための政治を展開している現実に気付いている。だから官僚たちの利権の源泉たる制度事業に乗らない国民への直接支給の子供手当や農家戸別補償や高速道路利権構造そのものを破壊する高速道路無料化などを2009マニフェストに掲げた民主党に政権交代させた。国民の選択は決して間違っていなかった。本来なら民主党政権によって官僚たちの肥大化した利権構造が削ぎ落とされ、官僚組織や外郭団体がスリム化されて数十兆円規模の歳出削減による2009マニフェストを実行する財源が捻出できるはずだった。    それが国民の望む二大政党制政治だった。自・公が官僚体制擁護勢力なら民主党は国民政党として対立する政策を掲げて切磋琢磨するのが国民の望んだ最も望ましい政党政治のあり方だったはずだ。  しかし、それを徹底して破壊したのは検察と司法当局だった。つまり官僚たちが先手を打って小沢氏の元秘書の犯罪をでっち上げ、大手マスコミを使って小沢氏を誹謗する「政治とカネ」なるプロパガンダを連日連夜したり顔をしたテレビ報道番組やお笑い番組の出演者たちの口を使って流し続けた。それにより小沢氏はいわれなき「罪」を問われる立場に貶められ、官僚たちは秘かにほくそ笑み、二大政党制は形骸化してたちま

今頃になって、何を呑気なことを言っている。

 震災・津波と福一原発事故放射能漏れと、未曽有の災害に見舞われて早くも10ヶ月も経って、野田氏は被災地の復興に「産業復興、雇用の創出なくしては福島の再生はあり得ない」と3度目の福島視察で言ったという。余りにも時間がかかり過ぎた、何という怠慢ぶりだろうか。人は10ヶ月も職を断たれれば誰でも暮らしに困窮する。生きるために職を求めて別の土地へ移っても仕方ないだろう。被災地を再生するためには何よりも産業が以前のように復興しなければならない。    逸早く必要なのは被災地の産業再生だ。そのことを震災直後からこのブログで何度も書いてきた。2重ローンや産業復興資金に対して超法規的な措置を講じる「経済特区」の指定と「迅速な資金供与」を被災地へ日銀引き受けによる円の増刷で対処すべきと、何度も提言してきた。円の独歩高に対処するには為替介入ではヘッジファンドを利するだけで、国際的な投機資金の制限を行う為替制度改革がない限り、円高に対処できない。最も有効な円高対策の手段は円そのものの国内マネーサプライを増やすことだ。つまり被災地へ復興資金として円を放出することだった。未曽有の事態に対処するために、しかし官僚たちは従来の手段を講じて、今後も官僚お得意の制度事業で対処しようとしている。    野田氏は凡庸な首相だと評価せざるを得ない。この緊急時にありきたりの感想を述べてさらに時間をかけようとしている。2月に復興庁を作ってそれから本格始動しようとするとは何とも間抜けだ。その間に官房長官は国会解散をやるだとか、幹事長は消費増与野党税幹事長会議をやるだとか、仙谷氏は総選挙に向けて新マニフェスト作りを始めるだとか、能天気な政治家たちのご都合主義によってこの国の政治は機能不全に陥っている。  政治とは何のためにあるのか。国家と国民のために税の使い方を決めるためにある。断じて官僚たちのためにあるのではなく、ましてや政治家たちの御都合のためにあるのでもない。この基本的な中学生でも知っている政治のあり方をここで書かなければならない情けなさが、野田氏には分かるだろうか。