試算も示さない「一体改革」とは何なのか。

 かつて年金改革で「百年安心年金」というのがあった。それも誤魔化しに過ぎないとすぐにバレてしまったが、「一体改革」が試算すら示さないその場凌ぎの創作だと自ら告白してしまったようなものだ。


 しかし何とも分からないのが実際の支給額だ。<<厚労省民主党の指示で昨年3月に行った財政試算では、必要財源は平成87年度で年61兆3千億円に達し、消費税率は17・1%となる。生涯平均年収が260万円以下の人に最低保障年金を満額支給し、690万円で打ち切る案を実行すると、年収420万円以上の人の支給額は現行制度を下回るとされる。>>と新聞紙上に掲載されているが、実際の年収モデルによる支給額はどこにもない。


 


 年金を支給すべき財源がないのなら最低を確保した上で高額年金支給部分を圧縮するのが筋だ。どこまでも「現役年収の5割支給」というのが正しいのだろうか。つまりそれを根拠にすると年収420万円だった人の年金は210万円以上ということだろうか。690万円で基礎部分を打ち切るとはどういう意味なのか、690万円×50%-7万円(基礎部分)×12ヶ月という算式で得られる231万円という意味なのだろうか。それなら年収1000万円だった人は年金額が416万円ということなのだろうか。


 


 年金額に現役世代の年収を反映させることがそれほど必要なのだろうか。負担した年金納付額によって差別するというのなら医療保険も当然そうすべきで、たとえば年間最低医療保険金しか支払っていない人は大部屋だが、年間50万円以上支払っている人は一人部屋に入れるという意味になるのではないだろうか。


 年金に現役時代の年収を反映させなければならないとするのは高額年収を得ている人たちの発想だ。多く負担しているのだから多く頂戴しても良い、というのは応能負担ではなく「支給反映権利付き負担」とでもいうべきではないだろうか。それが死ぬまで国民を年金支給額で差別する合理的な説明になるのだろうか。


 


 つまり「社会保障」としての年金とは何なのだろうか、という根本的な議論をしなければならないだろう。その高額な年金受給者の権利を確保するために広くすべての国民に過重な負担を強いる日本式消費税を17%にしなければバランスしない、という議論に合理性があるのだろうか。すべての国民一人一人に最低年金だけを等しく支給する、というのでは何がいけないのだろうか。そうして、日本式のすべての品目に同じ税率を課す過重な消費税を少しでも低く抑えるのが政治というものではないだろうか。高額年収所得者たる霞ヶ関官僚たちの独善的な理論に汚染されてはならない。それでも定年後に高額な年金が欲しい人は民間保険業社の年金商品に加入しての掛け金を掛ければ良いだけのことだ。


 


 定年退職後の暮らしで勤労者平均年収よりも高額な年金を頂戴することが算式として算定されることを別にして、道義的に果たして正しいことなのだろうか。既に子育てを終えてそれほど人生にコストが必要とは思えない老後において、高額な年金をもらい続けることに心が痛まないだろうか。定年退職後に毎月のように海外旅行を繰り返す共稼ぎ公務員たちは本当に国民の公僕だったのだろうか。そして、むしろ海外に視野を広げるべきは現役世代や若い世代にこそ必要なのではないだろうか。尊厳ある老後に必要な生活費はいくらなのか、国民は真剣な議論をすべきで、支給額に差別を持ち込み国民同士を貧富の差により反目させる現行手法は決して好ましくない。


 


 政治家たるものは姑息なことは排して、すべてを白日の下に晒して議論すべきだろう。そうすればこの国の政策理念がどこに基準を置いたものか明白になるだろう。官僚による官僚のための政策議論に終止符を打ち「国民の生活が一番」の政治へ回帰すべきだ。



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