高市政権を「権力の個人化」と、批判のための批判は見苦しい。
<2月18日、第221特別国会が開かれ、高市首相が第105代の内閣総理大臣に選出された。自民党が単独で3分の2以上の議席を確保するという前代未聞の状況の下で、国政運営はどうなるのか。高市の政策は、積極財政、そして右寄りの路線である。数の力で、それらの政策を実現させることは可能なのであろうか。 権力の個人化 高市が衆議院を解散したとき、その結果を予想できた者は誰もいなかったであろう。高市自民党圧勝の理由については、様々な分析が行われている。しかし、万人を納得させるような説明ができているとは思えない。 たとえば、小選挙区制による効果、つまり投票数と議席数の乖離(死票の多さ)などの技術的な点は明確に指摘できるし、高市人気と中道改革連合の不人気が大きな要因であることは疑いえないであろう。初の女性宰相であること、これまでの大多数の男性首相のしかめ面と違って、明るい笑顔を絶やさないこと、「働いて、働いて」など簡潔な語句で決意を述べることなどが原因であろう。 これを「権力の個人化(la personalization du pouvoir)」と表現してもよい。選挙に臨んで、高市が「自分を選ぶのか、野田や斎藤を選ぶのか」という二者択一を国民に問うたが、まさにその問いかけに、それが典型的に表れている。 これは議院内閣制での選挙戦術ではなく、大統領選での戦術である。議院内閣制下では、国会が首相を選択する。複数の連立政権となれば、最大会派の代表が首相に選出されるとはかぎらない。 まさに、大統領選的手法が功を奏したようである。 日本ではリベラル派が退潮しているが、その背景にはエリートや知性主義への庶民の反感がある。高市の出身である神戸大学は、名門校であるが、東大に比べて、全国的にはエリート校としての知名度は低い。そこで、高市は庶民性をアピールするのに成功している。日本では、反エリート、反知性主義の風潮が強い。 アメリカの反知性主義はキリスト教に根ざすもので、リベラルと呼ばれる知識人への反発が、聖書を盾にする戦いとなる。ところが、日本では“神なき反リベラル”であり、まさに知性を欠いたポピュリズムである。信仰に基づくものではないので、風向きが変われば、一気に逆方向に動く。高市人気も、何らかのスキャンダルや政策の失敗で、いつ退潮するかわからない。日本の反知性主義は危うすぎるのである...