政治家は政局を闘い抜くために存在するのではない。
小沢氏が群馬県内で行われた会合で「このままいけば野田氏の下かは別として政局は行き詰まり解散になるだろう」と発言したという。全くその通りだろうと頷くしかない。団栗の背比べのような、傑出した政治家は小沢氏一人で、その当人が検察や司法官僚の罠に嵌められて身動きできなくされている。後はどうしようもない自己顕示欲の塊のような政治家たちばかりが永田町を我が物顔でうろうろしているばかりだ。
テレビという代物が出来た時に、大宅壮一氏が「一億総白痴化する」と警告した通りになって仕舞った。報道番組と称するバラエティーでお笑い芸人上がりの司会者や記者上がりの司会者やアナウンサー上がりの司会者が政局を面白おかしく解説して、独断と偏見で政治家をバカにしてみせる。それにコメンテータと称する小説を書かない小説家や映画を撮らない映画監督や学術論文の一本として書いていない大学教授などがテレビ局の方針に順じた見解を述べる。
この国ではテレビ局によって政治がバラうティー・ショートの見世物と化す見事なまでの様式が確立されている。その様式に従っても国民は容易く世論誘導され洗脳されている。
小沢氏が政治家として保証されている基本的人権に従って、なにものにも制約されず活動できるなら、今日ほど惨めな民主党にはなっていないだろう。国民も混乱の内に何となく増税や負担増が天から降ってくる重苦しい思いに捕らわれなくて済んだだろう。しかし検察官僚と報道大手の協力によって、小沢氏は「政治資金規正法を犯した凶悪大犯罪人」として国民に刷り込まれ、著しく政治力を削がれている。
この国の何と能天気なのだろうか。原発は耐用年数40年を一度だけ20年延長を認めるという。コンクリート建築物の単純な耐用年数は60年だが、絶え間なく強力な放射線を浴び続けるコンクリートが単なる対物の耐用年数と同じで良いはずがないのは素人考えでも明らかだ。原子炉の鋼鉄製の容器ですら強力な放射線を浴びる内側はボロボロになるという。碌でもない民間企業の仕様書を丸写しする機関に安全確認を丸投げしていた原子力安全保安院は本当に「安全保安院」なのだろうか。それともそうした名を冠した高給を手にする官僚たちの安息の場でしかないのだろうか。
大手報道機関は小沢氏が引きずり出されている裁判を厳密に検証しているのだろうか。本当に小沢氏が何らかの罪を犯して法廷に立たされていると思っているのだろうか。いや、そうではなく、大手報道機関こそ天の命に従って無理やりそう思い込んで、現実に向き合った振りをして固く目を瞑っているだけなのだろう。
小沢氏が検察官僚と大手報道機関のプロパガンダによって被告に貶められている現実に憤慨しない国会議員は国権の最高機関の構成員たる政治家の資格はない。これほど酷い国策捜査と、政治家に対する国家司法権力の介入はまるで戦前の特高警察さながらだ。こうした事態を許容する政治家は能天気と誹られても仕方ないだろう。