「市民感覚」と称するもの

 検審会の「不起訴不当」の決議を受けて、検察が小沢氏から4回目の聴取をするという。政治資金規正法違反で「陸山会」会計担当者で元私設秘書の石川議員が行った会計報告を知らなかったのは不自然とするもののようだ。それが市民感覚かもしれないが、これまでの取り調べで「知っていた」とする証拠は何もなかった。


 


 小沢氏の政治資金団体の会計を会長たる小沢氏が隅々まで承知していないのは「おかしい」とするのは市民感覚かもしれない。そして有価証券取引法に関する会計報告で虚偽の記載、たとえば粉飾決算などしていれば担当者は勿論のこと社長まで罪に問われることを指して小沢氏も当然罪に問われるとするのなら、それは法律を知らないものの言だ。


 


 有価証券報告書では会計原則に基づく会計処理と監査法人による監査が義務付けられ、社長の自署押印が求められている。しかし政治資金規正法では収支報告書に監査員の監査が義務付けられていないばかりか、政治家本人の自署捺印も求められていない。もちろん会計責任者が法に従って処理記載されるとしているが、個別限定列挙されている会計処理はとても会計原則に依るものでない。たとえば会計処理は発生主義が厳しく定められているとはいえず、現金主義による極めて曖昧な処理基準といわざるを得ない。


 


 たとえば現金主義のため最終的に処理されていない借受金や、仮勘定は記載する必要がないとされている。そうした収支報告書に金額の多寡にかかわらず不動産購入の記載時期がずれていても大した問題ではない。つまり現金主義によるということは確定主義によることでもあるから不動産の購入がいつの時点で確定するのかは法解釈でも様々な異論のあるところだからだ。そもそも一切の記載がなかったのなら問題だが、二ヶ月程度の時期のズレで記載が年度を跨いだことに、これほどの大騒ぎを想定するような会計基準ではない。そして政治団体が不動産を購入することは禁じられていない。小沢氏個人の名で登記されているのを以て小沢氏が承知している証拠としているのかもしれないが、政治資金団体は登記対象とされていないためそうした処理をしたと考えるのが順当だ。登記法で法人か個人が登記すべきとされているため小沢氏個人の名で登記されているのだろうが、小沢氏の名で登記するには小沢氏の三文判と住民票があれば登記できる。したがって秘書が不動産購入に際して事務所での過去の事例から小沢氏の名で勝手に登記したとしても何ら不自然ではない。


 


 そうした法的な知識を有する「市民」が判断するのなら検審会もマスコミが騒ぐほどの存在といえるが、籤で当たっただけの一般人がワイドショー程度の感覚から「政治家本人も承知していたはずだ」と思い込んで「不起訴不当」とするのは危険だ。それを梃にして検察が小沢氏から聴取するのは捜査権の乱用といわざるを得ない。検察が小沢氏を立件しようと執念を燃やしてもできなかったことが、今更できるわけもなくただただ政局絡みで小沢氏の政治力を殺ぐ目的以外に何があるというのだろうか。そうした検察の思惑に「市民」と称する素人の手を借りて、法的な検証もしないでマスコミが大騒ぎしているだけのことだ。


 


 公訴以外にも検察に関して国民の権利としてなぜ捜査したのか公の場で尋問する機会を与えなければ公平とはいえないだろう。つまり検審会は検察内部の犯罪を検察が立件しない場合の市民による監視として設けられた制度であって、不起訴とされた国民を再び法廷の場へ引っ張り出すための超法規措置のためではなかったはずだ。本当の意味で検察の暴走を止める手立てを国民も持たなければ「為にする」捜査で国民、特に政治家が政治の場から抹殺されかねない。そうした危険性がこの国の検察にあることを国民は危惧しなければならない。検察の捜査によって小沢氏が窮地に陥った際に、何人の法学者がそうした警鐘を鳴らしただろうか。彼らは何のために法理論を研究しているのか、何のために研究者としての暮らしを保証されているのか、真剣に考えなければならないだろう。


 成熟した社会を作るためにはワイドショー的なマスコミが幅を利かすのではなく、冷徹な検証を国民が普段の暮らしで行うような習慣を涵養することが必要で、そうした社会を作る役割の一端を担うのが学者の役目の一つであるはずだ。



このブログの人気の投稿

それでも「レジ袋追放」は必要か。

麻生財務相のバカさ加減。

無能・無策の安倍氏よ、退陣すべきではないか。

経団連の親中派は日本を滅ぼす売国奴だ。

福一原発をスーツで訪れた安倍氏の非常識。

全国知事会を欠席した知事は

安倍氏は新型コロナウィルスの何を「隠蔽」しているのか。

自殺した担当者の遺言(破棄したはずの改竄前の公文書)が出て来たゾ。

安倍ヨイショの亡国評論家たち。