外圧とは何か。

 前回の第5検審会の小沢氏不起訴を受けて審査された結果は「外圧」の成果に満ちたもと思わせるに十分なものだった。


 本来なら、検察がどのような理由で「不起訴にしたか」を聴取して「市民からなる」検審会委員11人が判断すべきものだが、第一回目としては例外的に助言する「補助弁護士」が委員会に臨席したという。それも元検察官の「ヤメ検」弁護士だったと報じられている。異常な事態といえば異常な状況の中で前回の検審会決議「起訴相当」が全会一致でなされたと考えるべきだろう。


 


 外圧の排除ができるか、といえば今回もほとんど不可能だ。なぜなら検審会委員は3ヶ月ごとに半数改選されるため、今度の判断は全く前回とは異なるメンバーでなされ、しかも二回目は助言者の弁護士が就く決まりだ。つまり1回目と状況は全く変わらないことになる。小沢氏を強制起訴に持ち込もうと検察がそこまで考えて細工したものと考えるのが順当だろう。それなら1回目の検審会判断こそが「外圧」により捻じ曲げられたものとして排除すべきものだろう。


 


 しかし、検審会にそのような「対抗手段」の入り込む仕組みのない独善的な仕組みになっていて、しかもメンバーや議論経過や採用された証拠事実なども一切が非公開なのだ。これほど密室でしかも秘密裡で行われる「市民」と称するものの判断に一国の政治家が振り回されて良いものだろうか。あたかも88ヶ所もある国内米軍基地のたった一ヶ所の移転先を巡って日本国の首相の首が飛んだような愚かしい状況だ。日本という国のガバナンスはどうなっているのか、外国人の正常な目で観察すれば、これほど滑稽な風景は日本だけのものだろう。


 


 検察とマスコミにより作り上げられたイメージから「一般の市民」は影響されず純粋論理的に小沢氏の事実関係を議決することができると考えられるだろうか。そうした情緒的なものも「外圧」の一種だとすれば、検察審のメンバーが本当に一般市民であれば世間から自由な純粋法理論的な存在であることは不可能だ。そのような状況下に判断された議決で人が起訴に持ち込まれるとしたら、この国は法治国家とは言い難い。人を公判に持ち込むことに、もっと畏れをもたなければならないはずだ。


 


 マスコミや野党議員は先日の「起訴不当」議決ですら欣喜雀躍の喜びようだ。まるでスズメのように羽ばたきそうなほど喜んでいる。彼らは小沢氏への個別的な事柄だとみなし、政敵が塗炭の苦しみの泥沼に絡め取られている状況を喜んでいるのだが、検察や一部の権力者による任意の民間人を闇雲に起訴へ持ち込む道を開くことになりかねない。そうした検審会という「市民」を標榜する非公開の機関を利用した危険なゲームをしていることに気付かない愚かさだ。戦前の治安維持法はどのような過程を経て強化され恐怖監視社会へと変貌していったか、少しでも暗黒の戦前史を学んだ者なら分かるはずだ。そうした検察・警察権力の暴走を許してはならないし、マスコミがそれに協力するとき法に依らないリンチが公然と行われる恐怖を国民は実感しなければならない。小沢氏の個人的な「悪人」イメージで人を判断するとしたら、それこそイメージというマスコミによって作られた個々人の心の闇に棲む外圧の正体だ。いままさに国民は検察とマスコミによるリンチを目の当たりにしている恐怖を覚えなければならない。



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