仮想現実と現実の相違。

 爆発的なネットの普及により、ネットといかに付き合うべきかを社会が対応する暇もないうちに暮らしの隅々にまで入り込んでしまったようだ。ネットは別名「電脳社会」とも呼ばれ、バーチャルリアリティーを翻訳すれば「仮想現実」だ。


 


 「仮想現実」は仮想であって現実ではない。いかに3Dが進歩して現実と見紛うほどの迫力を得られたとしても、電子の世界の中で演じられている「仮想」に過ぎない。


 


 ただ厄介なのは様々なサイトが存在してPCやモバイルなどを介して端末と端末を繋いでそこに「いる」人と人を繋ぐ手段でもあることだ。この場合にもそれなりの仕来りと礼儀がなければならないはずだが、いきなり自分の部屋から相手の部屋などへ入れることから近しい関係と勘違いしてしまうことだ。


 


 ネットがこれほど発達していなかった頃に人が人を知るには書物や人の噂を介してか、あるいは直接に出会って話をするしかなかった。つまりある程度の自我と他者との距離感があったし、直に出会うためには電話なり訪ねて行って理解しあう時間と空間が必要だった。


 


 ネットが直接繋がる電脳空間の利便性は誰にも否定できないし、だからこそこれほど急激に広まったのだろう。しかし人と人が付き合うにはそれなりの手続きと礼儀が必要なのはいうまでもない。懸念されるのは剝き出しの「自己」がネットの中に多く見られることだ。一人の人間として自分の意見をネット上に提示するのは多くの人々に中にはこうしたものの見方もある、との多様性の確保から大切なことだ。多様性の確保はある意味、社会の安全弁の確保でもある。一つの意見で暴走するのでなく、一つの意見への服従を強いて他の意見を抹殺して社会を一つの意見に染め上げる「単層」社会にしないために必要だ。


 


 国の指導者が一つの意見に国民を誘導した時その国は碌なことにならない、ということは歴史が証明している。多様性の確保から様々な意見がネットで語られることは否定されるべき類のものではない。しかし、この場合も他者へのいたわりは必要だ。意見が異なるからといって感情的な「罵詈雑言」を浴びせるのは感心しないばかりか、罵詈雑言を浴びせる人の人間性を疑ってしまう。


 


 村崎百郎氏が殺害される、という痛ましい事件が起こった。人は実に儚い存在だ。たったの十数分、酸素が途切れれば命を失ってしまう。様々な叡智を創出する頭脳もほんの数分、血流が途切れるだけで脳細胞は永遠に死滅する。しかも人は亀のように身体を守る固い甲羅を持たないばかりか、特別に訓練した武術家以外は素手で刃物を持つ者に立ち向かう術を知らない。この程度の無防備にして脆弱な存在にも拘らず、銃や砲や果ては核兵器まで人は手にした。それを奔放に好き勝手に使用するとどんな事態が引き起こされるかはここ百年の間に二度の大戦だけでなく、数知れない紛争で人は学習したはずだ。


 


 村崎百郎氏は前衛的な雑誌で恋愛行動などで積極的にして無茶苦茶な「あおる」ような記事を書いていたという。それを実行して失敗したのか、犯人は「騙された」と供述しているようだ。


 たとえば歌舞伎などは「現実ではない」と承知した上で観劇している。落語なども現実にありえないことと承知した上で八っさん、熊さんなどが長屋で演じる世界を楽しんで笑っている。仮想現実の仮想の部分で楽しんでいる。流行の「お笑い」も仮想をいかに巧みに創り出して観衆を「のせる」かに芸人の妙手の優劣が存在し、観衆もそこを楽しんでいる。


 


 作家が創作活動をした結果を問われて、殺害されては堪らない。作品は多く存在する考え方の一つを提示したに過ぎず、それを発表するのはネットであるにせよ雑誌であるにせよバーチャルリアリティーだ。人にとって現実は一つしか存在しないが、仮想現実なら人の数ほど存在することになる。その中から何を選んで何を選ばないかは人の自由だ。ただし、結果責任は選択した個人に帰するのは当然の帰結だ。その覚悟がなければ簡単に人の意見に乗って「あっ、しまった」と臍を噛まないことだ。


 


 芸人世界では即答の妙が珍重される。しかし現実社会にネタ帳はないし、繰り返し練習したことを舞台で復元してみせることもない。人がスマートに振る舞って観衆から拍手喝采を浴びることは現実社会では皆無に近い。誰しも手探り状態で試行錯誤しつつ懸命に生きている。人はカッコ良くないのが普通であり、多くの失敗を繰り返しているものだと若い頃から知らなければならない。失敗して恥を知り、身を慎む術を心得るのが社会性の涵養かも知れない。しかしネット社会ではその機会はなかなかない。気に食わなければスイッチを切ればよいし、意に染まなければ匿名性の影から罵詈雑言を浴びせれば幾らか気が晴れるだろう。だが、それが進歩だろうか。ネットそのものの存在をどのように評価すれば良いのだろうか。


 


 世界でネット依存症が顕在化しつつある。ネットの中でしか自己実現の充実感を得られない、ということからネットにはまり込んでいくようだが、それを抑制する手立ては他人にはない。本人が自己責任で自己をコントロールするしかない。自己コントロールが苦手な子供や未成年には親や社会がお手本となり教えるべきなのだが、親の世代にネットはなかったり、あってもやってなかった親がネットに嵌った子供に教訓を垂れるのは国難だ。しかし常識的な範囲で対処できないことはない。幅広く社会を知り、自我と他者とは別人格だと自覚しなければならない、と教えることだろう。


 


 これからもっと仮想現実が現実の中に入り込んでくると思わなければならない。それも十分に現実の装いを纏って現実に同化して近寄ってくると思わなければならない。それに対して教育はどのように対処すべきか、社会の叡智を集めてガイドラインを作らなければならない。ネットは個々人の問題だと放置するには余りに巨大になりすぎたが、規制しては何にもならない。ネットとの賢い付き合い方と仮想現実の向こうには実に儚い生命体の人間がいて、一度失われた命はリセットで元気百倍に復元できないのだと、しっかりと教えることだろう。



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