このブログを書き始めた動機は既存の大手マスコミへの不信だった。
2000件近いこのブログの当初に辿ってみると、最初のブログは欠陥車トヨタを追及する米国議会公聴会の「集団ヒステリー」としか思えない集団催眠による「トヨタ=欠陥車」という決めつけに対する反発だった。結果として私の直感は正しく、トヨタにあった不具合は米国産のレクサスにサービスとして敷き詰めたカーペットがアクセルの下に巻き込まれて生じる不具合に過ぎなかった。それはいかにも大雑把な米国産トヨタ車の欠陥だった。 公聴会で問題とされた電子制御装置の不具合によりアクセルぺたるが戻らない、とした米国議会の「推定」は誤りで、単に運転者がアクセルペタルとブレーキペタルの踏み間違いによる暴走に過ぎなかった。 次に書いたのは小沢氏の元秘書たちが逮捕され、民主党幹事長の小沢氏が大手マスコミから轟々たる非難の荒らしを浴びている理不尽さに対する抗議文だった。 地方の田舎大学の経済学部を卒業したに過ぎない者の目に映った、大手マスコミが騒ぎたてる小沢氏の政治団体「陸山会」の収支報告書の虚偽記載、とは何だろうかとの疑問が湧きあがったのが書き始めるきっかけだった。ネットで政治資金規正法と収支報告書の記載要項を検索して調べると、検察や大手マスコミが大仰に騒ぎたてている収支報告書はごく簡単な「小遣い帳」程度のモノに過ぎない代物と判明した。 収支報告書は企業会計原則の発生主義はおろか、間抜けな現金主義すら厳密に適用していない公的会計にも劣るものでしかない。牧歌的な学生生活を過ごした者でも経済学を学んだ見識に照らすと、収支報告書への記載の有無を根拠に『犯罪を問う』のはかなり無理ではないかと思わざるを得ない、というのが私の直感だった。 バカな政治評論家が政治資金規正法を厳格化し、収支報告書に政治家の自署捺印も求めるようにしてはどうか、と尤もらしく主張しているが、そうすると収支報告書は複式簿記に企業会計原則に準ずる基準を適用し、会計士の監査を要請しなければならないだろう。するとどうなるのか、自爆テロのような「虚偽記載」を収支報告書に書きこむ秘書が事務を執っていたら、政治家は一発でアウトになるだろう。さらに政治家に政策秘書とは別に会計担当秘書を公金支出で設置しなければならないことになるだろう。そうした高コスト社会にするのが良いのか、それとも政治家の収支報告書は性善説に立って訂正で...