常識が通用する国家であって欲しい。
明日4/26は検審起訴された小沢氏に判決が下される日だ。新聞紙上や週刊誌は無罪か有罪かを運動会の「赤勝て、白勝て」と同じレベルで論じている。
日本は法治国家なのかと疑いを抱く。裁判官によって判決が異なる、というのはどういうことだろうか。公判で示された「法と証拠」によって裁かれるのなら、小沢氏への無罪判決は動かない。
小沢氏の検審起訴には公判以前の問題もある。検察審査会で「起訴議決」した曖昧な「推定無罪」の原則を踏み躙る「裁判で白黒をつけよ」という議決とは一体何だろうか。しかも検察審査会委員に提出されたという「捜査報告書」が田代検事により虚偽により捏造されていたことが判明している。
その時点で、裁判官は公訴棄却すべきではなかっただろうか。しかし裁判官は面白い見世物でもあるかのように、訴因を失った公判を維持し続けた。
さらに、第五検審会そのものの疑惑まである。果たして第五検審会委員は存在しているのか、という由々しき疑問だ。しかも審査会議が開かれたのかという疑問まで浮上している。それも極めて高い精度で「審査会は開かれていなかった」というものだ。
小沢氏の裁判は疑惑に満ちている。登記の「期ズレ」が疑惑隠しの大犯罪だ、と検察は見做してストリーを捏造したが、実は「期ズレ」は犯罪ではなく、収支報告書では一向に問題にされない事柄でしかなかったことが会計学の権威によって証言されている。つまり小沢氏が「期ズレ」を元秘書たちと共同謀議した、というのが「訴因」だが、たとえ謀議したとしても犯罪でない事柄を謀議して何が犯罪になるのだろうか。しかも小沢氏は「期ズレ」謀議を知らない、と証言している。バカなマスコミが「知らないのはおかしい」と評しているが、会計担当者の印鑑だけで済まされる報告書の提出に政治家が「知らなかった」と言えばそれまでだ。
裁判官は検察を裁くべきだ。大手マスコミを裁くべきだ。裁判所を裁くべきだ。この国の政治を捻じ曲げ、政治への国民の信頼を根底から損ねたのは「捏造された疑惑事件」で、責任は等しく彼ら全体にある。誰一人として「この事件はおかしい」と全国紙もどのテレビ局も疑問を挟まなかった。この底知れない恐怖を誰も感じないとしたら、既に日本は戦前の大本営に誘導された時代と全く同じ情報統制下にあるのではないだろうか。
明日の判決に注目すべきとすれば、元秘書たちに「推認」に次ぐ「推認」で有罪判決を言い渡した前代未聞な破廉恥裁判官の二人目が存在するか否かの確認だけだ。