この乖離は何だろうか。
昨夜インターネット動画サイトで10党が出席して党首討論が行われた。ただ維新の会の党首は姿を見せなかったが、独りよがりの党代表らしい欠席だった。その様子を視聴する人によるアクセス数は140万にも達して、一時接続が困難になるほどだった。 党首討論を主催した動画サイトはインターネットの機能の「書き込み」を可能にしていたため、各党首の発言の間も画面上を右から左へと視聴者の書き込みが止まることなく流れていた。それをある新聞社が「どの問題が議論されている時どれぐらいの書き込みがあったか」をカウントしたようだ。そうすると「脱原発」を討議している時に他のマターの時の4倍から5倍の書き込みが殺到したという。 各新聞社の世論調査では「脱原発」は国民が選挙で関心を持っている政策順位では下位にあって、%ではコンマ以下という数字が並んでいた。しかし党首討論のネット動画への書き込みでは他の政治課題を圧倒する最大関心事だった。この飛んでもない乖離はどのように考えれば良いのだろうか。 各新聞社の世論調査と動画ネットを視聴するネット市民との関心事が大きく乖離しているということなのだろうか。それとも各新聞社が実施した世論調査が何らかの理由で偏り、国民の全体像を反映していないということなのだろうか。 各新聞社の世論調査担当部局や編集責任者はこの疑問に答える義務がある。なぜなら新聞報道の信頼性に関わる重大な問題だからだ。 思いたくはないが、マスメディアは世論調査を捏造しているのではないかという疑念を抱かざるを得ないことがある。調査対象者一人に何分間電話をかけているのか知らないが、5分としても500数十人なら2500分ほどで時間にしたら40時間余りだ。音声情報ならすべてをネットにアップするのは困難なことではない。もちろん個人情報に関する部分はピーを入れるのは常識だが、異なる人に調査しているか否かは声で検証できる。そして質問内容や聞き方も「誘導」していない証拠にもなるだろう。テレビ報道にも利用される「世論調査」だから国民世論に与える影響を考えると第三者による検証可能な仕組みを作っておくべきではないだろうか。 新聞社が特定の政党の政策をこの時期に論って「ポピュリズム」だと批判するのはいかがなものだろうか。大衆迎合だと、いかにも大衆はバカで迎合する...