令和の時代に日本がなすべきこと。
平成が今日限りで終わるという。一つの時代が終わろうとしている。私にとって実に感慨深いのは私の両親が没した年こそ「平成」の時代だったからだ。 私の父親は大正九年に生まれた。つまり西暦でいえば1920年生まれで、先の大戦終結時には25歳という最も悲惨な世代の一人だった。彼の同級生は十人いたら七人は戦死している、という激烈な時代の生き証人だった。 母親は大正十一年生まれで、終戦時には二十三歳だった。父親と結婚するまでは広島の陸軍病院の看護婦をしていた。そこに広島第五師団騎兵隊の兵隊だった父親が中支戦線で労咳を患って入院していた。 二人は婚姻を機に広島を離れ、父親は代用教員として山口県日本海側の日置村の青年学校で教鞭をとっていた。それで広島の原爆を免れた。 私は戦後に生まれた。いわば団塊の世代だが、戦後の貧しかった日本も、朝鮮戦争特需に湧く日本も知っている。そして当然のことながら戦後高度経済成長も実体験として体験した。 両親は平成の御代に相次いで亡くなった。父親は八十四歳で、母親は八十九歳で、いずれも見送ることが出来た。子としての務めを果たすことが出来た。 平成とはそういう時代だった。つまり戦前・戦後の日本を支えてきた多くの青年が年老いてこの世を去った時代だ。彼らは一様に戦争体験があり、心から平和を願っていた。 ただ毅然とした戦前の日本人の「気概」も併せ持ち、進駐軍の米兵に対して複雑な思いを抱いていた。しかし天皇陛下を恨むことなく、皇室に対して尊崇の念を生涯抱き続けていた。 父親に関して記憶しているのは「従軍慰安婦」が日韓間の問題として浮上した際、そのニュースを見た瞬間に「バカなことを、売春婦じゃないか」と呟いたのを覚えている。そして彼は毎年正月に靖国神社へ「戦友に会いに行く」といって上京していた。 父親は戦後の自虐史観に強く反発していた。戦争に踏み切らなかったら、日本は他のアジア諸国と同様に欧米の植民地になっていた、と常々言っていた。だから日本は戦った、そのどこが間違っているのか、と彼は憤慨していた。唯一間違ったのは負けたことだ、と。 歴史は勝者が書く。敗者は歴史書では必ず悪役に仕立て上げられるが、日本は断じて歴史上の悪役ではない。悪役は武力を背景に世界に植民地争奪戦を繰り広げた欧米列強だ。 しかし欧米列強が勝者とな...