高齢者免許返納の大合唱は年齢差別社会の礼賛に他ならない。

 果たして週末のテレビの報道番組はコメンテータ達の「高齢者は運転免許を返納せよ」の大合唱だ。マスメディアが煽り立てるとロクなことはない。
 現在でも高齢者はお節介な「高齢者講習」という名の自動車学校への寄付を強制されている。しかし件の悲惨な事故を起こした元高級官僚は高齢者講習で実地試験をクリアしたばかりだった。

 なぜ自動車の進化を促す論調が主流とならないのだろうか。第一「アイサイト」などの自動停止装置は商品化されている。その人認識装置をもっと高度化すれば、人を跳ね飛ばす自動車は根絶できるだろう。
 もっと良いレーダー・センサーを開発して、曲がり角など視認できない物陰の人まで検知することだって現代科学テクノロジーを動員すれば可能だろう。そうして自動車が危険を判断するようにすべきが工業製品として当然のあり方のはずだが、自動車に限っては暴走車を放置したままだ。

 人を全知全能として運転者に全責任を負わせている現在の自動車の方がどうかしている。人は常に健全な状態であり続けるのは不可能だ。感情の揺れが運転に少なからず影響を与えるだろうし、突発性の疾患で突如として人事不省に陥ることだってあり得る。
 慢性疾患を患っていなくても、心臓麻痺や脳溢血など若者でも発症しないとも限らない。運転時にそうした人事不省に陥った場合の事故回避する自動車の開発も不可能ではない。しかし政府をはじめ、自動車会社が「安全自動車の開発」に乗り出したというニュースを聞いたことがない。

 そして「認知症」や「判断能力の低下」が高齢者に多い、という理由だけで高齢者の運転を「禁止」する、もしくは「抑制」する方向にマスメディアの議論がベクトルを合わせるのに、何らかの恣意性を感じる。それは、もしかすると、世論操作ではないのか、と。
 マスメディアが一方方向へ片寄ると決して良い結果にはならない。若者が運転免許離れして、閑古鳥が鳴いている自動車学校の救済策としか思えない「高齢者講習」の実施など、全くの愚策というしかない。その「愚策」の証拠が母子を自転車ごと跳ね飛ばした元・高級官僚が高齢者講習を受けたばかりだったということだ。

 繰り返すが、フォードが現在の原型となる自動車を発明して以来、自動車の基本原理は何も変わっていない。アクセルとブレーキと方向舵を一人の人が全知全能の「神」となって操縦する、という原理は何も変わっていない。
 文化の進歩から取り残された自動車を現代文化にふさわしいAI化すべきが自動車会社の使命ではないだろうか。高齢者免許返納を声高に叫ぶしか能のないコメンテータ達は無能の誹りを免れない。人は年齢によって社会的に差別されるべきではないからだ。

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