平等とは「機会の平等」であって、「結果の平等」ではない。
Xに以下の投稿があったが、これが本当なのか東工大の見解を聞きたい。 「東工大の女子枠の平均倍率約1.4倍(一般選抜の平均約3.5倍)、情報理工にいたっては定員割れで女子枠の受験者全員が合格してて笑った。その上で、女性入学者全体の半分以上が女子枠合格者で完全にバカを入れる為のシステムになっていて終わり過ぎてる。」というものだ。 米国では「人種差別撤廃」という理由で、人種別人口割合で大学入学者数を割り振る、ということにしているようだ。それは試験結果で入学者を決めればアジア系が多くなり、黒人の入学者数が人口比に比べて少なくなるからだという。 しかし、それは人種による逆差別ではないか、という批判が起きている。入学試験という性格から、学力本位で決めるのが平等ではないか、という意見が全米でも湧き上がっているようだ。そうした人種間の差別をしないという運動が間違った方向へ向かった場合は正すべきではないだろうか。 日本の入試において入学する男女比を最初に決めて、それに合わせて入試合格者を決めるのは如何なものだろうか。男女と云った性別に関わらず入学試験の点数の高い順に合格を判定するのが「平等」ではないだろうか。 あくまでも「平等」は機会の平等であって、結果の平等は「平等」とは云えない。世間には「取締役の○○%を女性にする」とか、「議員の○○%を女性にする」と云った取り決めがなされている団体もあるようだが、それこそ恣意的な社会を生み出す元凶になりかねない。法律で機会の「平等」が否定されていない日本で、結果の平等を決めるのはナンセンスだ。