平等という不平等について考えよう。
世間には「平等という不平等」が種々ある。良くいわれるのが相続する権利だ。生前いかに被相続人の世話をしようと、相続する権利は法定相続人で「平等」に定められている。 独居老人が当たり前となった昨今、在宅介護などで相続人以外の人が世話をすることは普通にある。あるいは近くに暮らす親族が一人で世話をする場合もある。しかし被相続人が亡くなるとワラワラと法定相続人が集まってきて、財産相続を巡って相続する権利を主張して揉めるのは日常風景だ。 それだけではない。被相続人の不動産処分に関して法定相続人全員の同意を得て「遺産相続分割協議書」を作らなければ相続財産の処分が出来ない。相続人が亡くなっている場合はその子の、全く顔も知らない「代襲相続人」の同意も得なければならず、困難の度合いは格段に高まる。 中にはたった一人しかいない相続人が揉め事から嫌気がさして「相続放棄」をし、相続財産が宙に浮く場合がある。こうしたケースではその財産は国のものとなるのだが、隣接する不動産の所有者が「欲しい」と思ってもおいそれと手に入れることはできない。しかるべき「入札」の手続きを裁判所に申し立てなければならず、ややこしい手続きが定められている。 選挙制度の一票を巡る「権利の平等」もいかがなものかと首を傾げたくなる。今度の参議院選挙制度改革で「合区」が行われるようだが、単純に一票の平等を追求するなら今後とも合区は増えるだろう。今回の参議院選挙制度改革を行っても一票の格差はやっと3倍未満に収まったに過ぎない。それが平等を定めた憲法に合致するのかというと疑わしいだろう。 翻って、合区により「県選出の国会議員」という代表を持たなくなる選挙民の平等性はどうなるのだろうか。選挙区の面積を無視した国会議員一人あたりの選挙民の平等性のみを求める現行選挙制度が「民主的な選挙制度」として正しい有り方なのだろうか。 選挙制度の「平等」の概念を変える必要があるのではないだろうか。一票の平等と同時に地域代表を有する「平等」という概念を選挙制度に導入しなければ過疎県の代表者が国会から消えてしまいかねない。 国政選挙に面積割の平等という概念も取り入れなければ、候補者が駆けまわって選挙区の有権者に訴えるのが困難な選挙区ももすでに出ている。オホーツク海に面する選挙区は面積の広大さから日本で一番過酷な選挙区だといわれている。一票