多文化共生とは何か?

<◇言語境界は「紛争の火種」 
 日本国内には言語境界は存在しません。例えば共通テスト、すべて日本語というひとつの言語によって行われます。方言という差異はあるにせよ、日本国内には、基本的にはどこでも日本語が通じるという普遍性が存在します。
 つまり、言語境界と国境がほぼ一致しているのが日本の大きな特徴の1つです。一方、世界を見渡せば、言語境界と国境が一致している地域はほとんどありません。
 1つの国の中に言語境界があれば、すでにそこには「紛争の火種」が存在する、というのが世界の実情です。言語境界は、いわば「むき出しの導火線」です。
 そうした感覚が日本人にはありません。意識する機会も方法もないので、世界の紛争を見た時、なぜあの人たちは喧嘩しているのだろう、どうして争っているのだろう、という感覚が先に立ちます。
 つまり、他国で起きている戦争について日本人が理解できないのは仕方のないことなのだ、と言うこともできます。島国根性と言われればその通りでしょう。
 ただし、多くの日本人が他国で起きている戦争を理解できないことのもうひとつの理由として、言葉の定義が曖昧である、というたいへん大きな問題があります。あの人はわかったような、わからないようなことを言う、という感覚を覚えることがあるのは、それは、その人の使う言葉の定義が曖昧だからです。
 例えば、戦争に関する報道番組などで「地政学的リスクがある」という言い方が出てきます。そこで、地政学とはどういう意味で使っていますか、という質問を投げかけると、ほとんどの人は言葉に詰まります。
 曖昧なまま、ふわっと言葉を使っているだけである場合が多いのです。日々、その場の空気に合わせて、わかったような、わからないような、そんな曖昧な言葉を使っているが日本人なのかもしれません。
 言葉の定義が曖昧だから、セルビア人とは何者か、ということがわかりません。したがって、セルビアとコソボの間で何が争われているのかもわからないわけです。

◇簡単に口にすべきではない多文化共生
 わが国はよく海外から宗教音痴、つまり宗教に関する知識と理解がないと言われますが、民族音痴でもあるわけです。ここはやはり、海外の人たちと日本人との違いとしてしっかり認識しておくべきでしょう。
 つまり日本人は、民族紛争ないしそこから起こる戦争についての理解度については海外の人たちよりも劣っているのです。だからこそ、日本人は簡単に「多文化共生」という言葉を口にします。
 多文化共生とは、総務省の定義によれば、「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」です。
 わが国には言語境界などなく、日本人は「紛争の火種」などない状況の中で暮らしています。そこで、多文化共生はたやすくできるものと勘違いをしている人がいます。
 世界のほとんどの国には、それぞれの国の中に何かしらの境界が存在し、それを原因とした対立で苦労しています。
 日本人は自らが置かれている状況を正確に把握して、言語境界のないことは利点でもあり同時にマイナス点でもあることを認識すべきでしょう。
 そうした日本の地域性をしっかりと理解するなら、多文化共生といった、いわば世界の普遍性を安易にわが国に持ち込むことはできないはずです。
 もちろん、普遍性と地域性の両立を考えることは大事なことではあるでしょう。しかし、最近、世界の普遍性ばかりを絶対的な価値観のように考え、日本の地域性を無視して世界の普遍性を持ってこようとする人たちが非常に多いという印象があります。
 わが国は海洋国家です。外国人が歩いてやってくることはできません。わが国はよく、難民受け入れ数が少ないと国内外から批判されますが、経済的に困窮した難民というレベルの人たちが日本列島にやってくること自体、なかなか難しいことであると理解しておくべきです。
 中央アメリカにニカラグアという、冷戦時代、アメリカ合衆国とソ連の代理戦争がずっと続いていた国があります。最近、ラテンアメリカでは反アメリカ的な動きがあり、ニカラグアもその例外ではありません。内戦が続き、治安がいいとは決して言えませんから隣の国へとわたる難民の数が多いわけですが、それはやはり陸続きであり、歩いていけるからこそといえます。
 難民といわれる人たちは、船あるいは飛行機に乗ってわが国にやってきます。本当に難民なのか、工作員ではないのか、という懸念が生じるのは当然のことです。
 かわいそうだから受け入れてあげようという気持ち、感情先行の姿勢は排除しなければいけないでしょう。多文化というものを理解できない人が多文化共生を実行しようとすれば、必ずどこかで破綻します。
 日本と同じく島国と呼ばれる国にイギリスがあります。2020年初頭にEUから完全に離脱しました。
 EUに加盟していたということは、ヨーロッパという比較的大きな地域において信じられている普遍的な価値観を受け入れていたということです。そして、「大いなる社会実験」を経て、やはりイギリスの地域性に合わないという判断が行われての離脱だったわけです。
 日本がおよそ日本人だけでやってきたように、イギリスはほとんどアングロ・サクソンだけでやってきました。そこに、EUの普遍的価値観に則って、例えば大勢のポーランド人を移民として受け入れ、うまくやっていけるかということを考えた時にイギリスは、国民投票において、僅差ではあったものの「無理である」と判断したわけです。イギリスはわが国に先んじて、普遍性と地域性の矛盾に苦しんだ上で、今一度考え直すという経験をした国です。>(以上「『なぜ日本人は戦争音痴なのか』」より引用)





日本人に多文化共生は必要か?」と題する宮路秀作(代々木ゼミナール地理講師)氏の論評を引用した。なぜなら早朝にNHKが放映した(再放送か)「多文化共生のススメ」といった内容の北海道の地方自治体を取材した番組を見たからだ。
 それは反日放送が多いNHKらしく、多文化共生を進めるのは人として当たり前だ、といった観点から編集した番組だった。その中でパキスタン人が建築したモスクが不法建築だと指摘した場面があったが、建築基準法や都市計画法など様々な法令を処す関する部署に多数あるため不法建築になったとして、パキスタンのようにワンストップ行政なら不法建築にはならなかった、と某大学教授がコメントする場面があった。

 確かにパキスタンではシステム上は「ワンストップ」として統合・自動化が進んでいるものの、物件の規模(大規模な商業ビルや工場、特殊な土地開発など)によっては、上位の審査委員会による個別審査が必要になり、審査完了までに所定の日数がかかる場合がある。また、現地のインターネット環境や行政側のシステムエラーにより、実務面では依然として現地のエージェントや弁護士(コンサルタント)の手を借りて進めるのが確実であるという点では日本と大して変わらない。日本でも建築の専門家に依頼していれば不法建築にはならなかったのではないか。
 NHK番組に登場した某大学教授は余りに日本の行政機関に対して批判的に過ぎはしなかっただろうか。引用文中で「多文化共生とは、総務省の定義によれば、「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」」だと定義している。しかし件のパキスタン人たちは地域自治会に加入していなかった。地域住民と積極的に受け入れてもらう努力をしてこなかったのも事実だ。そうした身勝手な態度でありながら、自分たちの文化を守ろうとするなら地域住民と軋轢を生むのは当然ではないだろうか。

 ただ基本的に観念すべきことは欧州諸国が直面している大量難民と、日本に押し寄せている外国人労働移民とは根本的に異なることだ。それは欧州諸国の移民は歩いて行けるが、日本の場合は航空機に乗ってやって来ることだ。
 欧州諸国に押し寄せた難民・移民は文字通り着の身着のままで祖国を脱出した人たちだが、日本にやってきた外国人労働移民の大部分は航空券を購入して「金儲け」のためにやって来た人たちだ。だから日本の地域文化や社会秩序などに関心ないし、地域社会に馴染もうと努力などすることもない。彼らはただ金儲けのために地域社会で徒党を組み、集団で経済活動をしているだけだ。もちろん祖国の高尚な文化や宗教の伝導者でもない。

 引用文中で宮路氏は日本の「移民政策」を考える際の手本として英国を取り上げてい。それは英国も日本と同じ島国で、日本と似通った英国独自の文化が根付いていた国だからだ。その英国が EU離脱を決めたのは洪水のように押し寄せた難民・移民の受け入れを拒絶するためだった。
 英国はほとんどアングロ・サクソンだけでやってき国だ。単一民族で醸成してきた英国の伝統文化と社会に対して、外国人移民がもたらす異文化の衝撃は凄まじいものだった。そのため外国人移民が集中するロンドン市街地から英国人が逃げ出すように郊外へ移転したため、現在のロンドンはすっかり外国人移民に乗っ取られている。

 宮地氏は「日本の地域性をしっかりと理解するなら、多文化共生といった、いわば世界の普遍性を安易にわが国に持ち込むことはできないはず」だと断定する。その指摘は正鵠を得ている。なぜなら日本は英国などと同様な多文化共生などとはそぐわない単一民族の国だからだ。単一民族の日本人が営々と築いてきた文化を守り育んできたのが日本だからだ。
 その日本に金儲けのためにやって来た様々な国の人たちと日本人が「文化共生」など出来ないし、そうする必要もない。むしろ日本に金儲けのためにやって来た外国人が「郷に入れば郷に従う」べきだ。それが出来ないのであれば、祖国へ帰るのが本筋だ。日本には日本の宗教観があり、日本の暮らしがある。移民してきた外国人がそれを阻害するのなら、日本人が拒絶反応を示すのが自然ではないだろうか。

 件のNHK番組で北海道大学の女性教授が「パキスタン人と交流して理解することが必要だ」と尤もらしく説いていたが、それこそが地域住民にとって大きなストレスではないだろうか。移民してきた外国人の暮らしを守るよりも、地域住民として地域社会を守り安心・安全に暮らしてきた日本人を尊重すべきではないか。なぜなら、ここは日本だからだ。
 多文化共生とは異国人が混在して暮らすことではない。それぞれ世界中の異なる国々がそれぞれの国々で独自の文化をはぐくみ、それぞれの国々を尊重することだ。パキスタン人はパキスタンで暮らして祖国の発展に資し、祖国の文化や伝統を守り育むのが本来あるべきパキスタン国民の務めだ。そうした一つ一つの国が人口規模や軍事力や経済規模とかかわりなく、お互いに尊重することこそが多文化共生ではないだろうか。なにも一つの国に多国人が集ってそれぞれの文化や宗教を主張しあうことではない。それは多文化共生ではなく、文化のカウスでと呼ぶべき類のものだ。流行りのように多文化共生を唱えるのを、そろそろやめようではないか。外国人は祖国へ帰って、祖国で暮らすことこそが自然だ。飛行機に乗ってやってきた人たちは決して難民ではない。たとえ難民だとしても、難民となった事由が解消したなら、祖国へ帰って祖国復興のために働くべきではないか。彼らの文化や伝統は彼らの国でこそ守られるものだからだ。

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