池田屋事件と吉田稔麿考。
<◇池田屋事件の通説
元治元年(1864)6月5日、新選組が京都三条の旅館・池田屋を急襲した、いわゆる池田屋事件が起きた。吉田稔麿の死をめぐる従来の通説は、「乃美織江手記」に基づくものである。
同手記によれば、稔麿は江戸に向かう途次の京都で政治活動中であり、池田屋事件当日、捕縛された古高俊太郎奪還の協議を宮部鼎蔵らと計画して京都留守居役・乃美の制止を振り切り、密談場所の池田屋に参集した。協議中に新選組に襲われ、いったんは脱出して藩邸にその旨を注進し、池田屋に戻る途中の加賀藩邸前で敵と遭遇して討死したとされる。
また、「浦靱負日記」(6月13日条)には、「七日京都発の有吉熊次郎及び長府人熊野清左衛門昨夜帰り報じて日く、五日夜会津等の兵凡七百藩邸を囲む、又衆あり池田屋を襲ふ宮部鼎蔵等数人殺さる、吉田稔麿一旦邸に帰り變を報じ槍を提げ復た出で加州邸前にて敵と闘ひ死す」とある。
これは、前日に京都から事件の報告に戻った有吉熊次郎の証言に基づくものである。有吉は池田屋から生還し、7日には乃美の命令で京都を出立した。しかし、有吉は稔麿と必ずしも同一行動を取っていたわけではなく、しかも大混乱の京都藩邸から取るものも取らずに出立させられた経緯があり、事実を正確に把握できていなかったと考えるのが妥当である。
稔麿の遺髪とともに遺族に届けられた時山直八・中村芳之助書簡(吉田清内宛、6月22日)でも「当節御屋敷至て混雑大取込ニ付、委敷事ハ後便ニ可申上」と記されており、その時点でも京都藩邸が騒然としていたことが確認でき、有吉が出発時点で正確な状況を把握することがいかに困難であったかが理解できよう。
「「池田屋事件」の通説を覆す新事実、「天稟の英才」吉田稔麿は突入時にいなかった?長幕融和の喪失と長州藩への遺産ーー幕末維新史探訪2026(22)幕末志士・吉田稔麿の実相―幕長融和に斃れた足軽出身の天才策士⑥」と題する読み物を紹介する。記述しているのは町田明広(歴史学者・神田外語大学教授)氏だ。町田氏は歴史小説も発表されていて、氏の作品はamazonでベストセラーになっている。云うまでもなく池田屋事件とは1864年(元治元年)6月5日の夜、京都の三条木屋町にあった旅館・池田屋で、新選組が尊王攘夷派の志士たちを急襲した事件だ。少数精鋭の新選組が大きな手柄を上げ、その名が世間に広く知れ渡るきっかけとなった。
元治元年(1864)6月5日、新選組が京都三条の旅館・池田屋を急襲した、いわゆる池田屋事件が起きた。吉田稔麿の死をめぐる従来の通説は、「乃美織江手記」に基づくものである。
同手記によれば、稔麿は江戸に向かう途次の京都で政治活動中であり、池田屋事件当日、捕縛された古高俊太郎奪還の協議を宮部鼎蔵らと計画して京都留守居役・乃美の制止を振り切り、密談場所の池田屋に参集した。協議中に新選組に襲われ、いったんは脱出して藩邸にその旨を注進し、池田屋に戻る途中の加賀藩邸前で敵と遭遇して討死したとされる。
また、「浦靱負日記」(6月13日条)には、「七日京都発の有吉熊次郎及び長府人熊野清左衛門昨夜帰り報じて日く、五日夜会津等の兵凡七百藩邸を囲む、又衆あり池田屋を襲ふ宮部鼎蔵等数人殺さる、吉田稔麿一旦邸に帰り變を報じ槍を提げ復た出で加州邸前にて敵と闘ひ死す」とある。
これは、前日に京都から事件の報告に戻った有吉熊次郎の証言に基づくものである。有吉は池田屋から生還し、7日には乃美の命令で京都を出立した。しかし、有吉は稔麿と必ずしも同一行動を取っていたわけではなく、しかも大混乱の京都藩邸から取るものも取らずに出立させられた経緯があり、事実を正確に把握できていなかったと考えるのが妥当である。
稔麿の遺髪とともに遺族に届けられた時山直八・中村芳之助書簡(吉田清内宛、6月22日)でも「当節御屋敷至て混雑大取込ニ付、委敷事ハ後便ニ可申上」と記されており、その時点でも京都藩邸が騒然としていたことが確認でき、有吉が出発時点で正確な状況を把握することがいかに困難であったかが理解できよう。
◇史料が示す真相―稔麿は事件直前まで池田屋にいたのか?
このように、「浦靱負日記」の基となった有吉報告は信用し難く、稔麿が池田屋を脱出して注進のため、いったん藩邸に戻り、再度同志を救出すべく池田屋に赴いたという通説は、稔麿が一度は藩邸に戻ったこと、そして事件の注進後に藩邸を出ていることからの誤認である。しかも、稔麿は池田屋事件の中心人物であっただけに、ドラマティックな場面として語られ、後世の脚色も加わって誤った通説が形成されてしまったのだ。
まず注目すべきは、塩屋兵助(稔麿の定宿・二條寺町東入の旅館主人)および子息・源助の書簡(里村文左衛門宛、6月12日)である。稔麿は5日早朝、塩屋に使いを送って夕方までに旅装を整えるよう依頼した。
塩屋が依頼品を届けると、さらに追加注文があり夕方に届けたところ、稔麿は上機嫌に礼を述べ、すでに4・5人と密談中であったという。なお、古高が捕縛された桝屋への手入れは辰五ツ時(午前6時40分頃)から巳四ツ時(午前9時30分頃)であり、古高奪還を目的として旅装を依頼したわけではない。
さらに、塩屋兵助妻・雪女の書簡(里村宛、6月13日)には、「日暮に源助池田屋迄持ち来り候」とある。2回目の依頼品は、夕方に池田屋まで直接届けられていたのだ。志士たちは、夕刻までには池田屋に集まり始めており、その中心人物であった稔麿は最初からそこに居合わせていた。しかも、2回目の依頼品を池田屋に直接届けさせていることから、その夜の会合は古高の捕縛の有無に関わらず、事前に予定されていたことは自明であろう。
このように、「浦靱負日記」の基となった有吉報告は信用し難く、稔麿が池田屋を脱出して注進のため、いったん藩邸に戻り、再度同志を救出すべく池田屋に赴いたという通説は、稔麿が一度は藩邸に戻ったこと、そして事件の注進後に藩邸を出ていることからの誤認である。しかも、稔麿は池田屋事件の中心人物であっただけに、ドラマティックな場面として語られ、後世の脚色も加わって誤った通説が形成されてしまったのだ。
まず注目すべきは、塩屋兵助(稔麿の定宿・二條寺町東入の旅館主人)および子息・源助の書簡(里村文左衛門宛、6月12日)である。稔麿は5日早朝、塩屋に使いを送って夕方までに旅装を整えるよう依頼した。
塩屋が依頼品を届けると、さらに追加注文があり夕方に届けたところ、稔麿は上機嫌に礼を述べ、すでに4・5人と密談中であったという。なお、古高が捕縛された桝屋への手入れは辰五ツ時(午前6時40分頃)から巳四ツ時(午前9時30分頃)であり、古高奪還を目的として旅装を依頼したわけではない。
さらに、塩屋兵助妻・雪女の書簡(里村宛、6月13日)には、「日暮に源助池田屋迄持ち来り候」とある。2回目の依頼品は、夕方に池田屋まで直接届けられていたのだ。志士たちは、夕刻までには池田屋に集まり始めており、その中心人物であった稔麿は最初からそこに居合わせていた。しかも、2回目の依頼品を池田屋に直接届けさせていることから、その夜の会合は古高の捕縛の有無に関わらず、事前に予定されていたことは自明であろう。
◇史料が示す真相―稔麿は事件発生時に池田屋にいなかった?
次に、決定的な証拠となるのが稔麿の帰邸の事実である。稔麿は巳四ツ時(午後10時半頃)、池田屋からいったん長州藩邸に帰着した。新選組が池田屋に突入したのもほぼ同じ巳四ツ時であり、稔麿は突入時に池田屋に不在であったというのが新事実である。
稔麿は、京都での古高奪還計画等の後事を桂小五郎に託し、自らは翌日の出立に備えて帰邸したのだ。池田屋脱出者の注進が、「吉田様始皆々様御立の御酒にて、夢にも御存じなき処へふいをうち」伝えられると、池田屋での戦闘が終わろうとしていた子九ツ時(午前零時頃)に、稔麿は再度池田屋に向かうべく藩邸を出奔した。
ところが、加賀藩邸前の酒屋「しなの屋」の門口において、二条通から御用改をしながら三条付近で新選組と合流するために南下してきた会津藩兵等多数と遭遇し、即死した。遺骸は6日夜明け前に長州藩邸に収容され、7日に霊山に埋葬された。
この事実を最も明確に示すのが、近野勝之進・原善兵衛の書簡(阿武久兵衛宛、6月7日)である。「六日之夜、三條定宿池田屋惣兵衛方へ壬生浪士其外乱入之由注進有之候付、不取敢吉田稔麿杉山松介両人邸内罷出候処、途中において吉田狼藉ものへ出会及刀傷深手負即死、松介儀ハ深手負邸内へ罷帰り夕方相果申候」とある。
稔麿は、池田屋での異変の注進が届くと杉山松介とともに藩邸を飛び出したが、途中で会津藩兵等と遭遇して即死し、杉山は重傷を負いながらも藩邸に戻り、翌日夕方に死亡したのだ。近野・原の居所は京都藩邸であり、しかも、この書簡は池田屋事件後に最も早く記されたものであることから、池田屋への新選組突入時、稔麿がそこにいなかったことの確かな証左となっている。
次に、決定的な証拠となるのが稔麿の帰邸の事実である。稔麿は巳四ツ時(午後10時半頃)、池田屋からいったん長州藩邸に帰着した。新選組が池田屋に突入したのもほぼ同じ巳四ツ時であり、稔麿は突入時に池田屋に不在であったというのが新事実である。
稔麿は、京都での古高奪還計画等の後事を桂小五郎に託し、自らは翌日の出立に備えて帰邸したのだ。池田屋脱出者の注進が、「吉田様始皆々様御立の御酒にて、夢にも御存じなき処へふいをうち」伝えられると、池田屋での戦闘が終わろうとしていた子九ツ時(午前零時頃)に、稔麿は再度池田屋に向かうべく藩邸を出奔した。
ところが、加賀藩邸前の酒屋「しなの屋」の門口において、二条通から御用改をしながら三条付近で新選組と合流するために南下してきた会津藩兵等多数と遭遇し、即死した。遺骸は6日夜明け前に長州藩邸に収容され、7日に霊山に埋葬された。
この事実を最も明確に示すのが、近野勝之進・原善兵衛の書簡(阿武久兵衛宛、6月7日)である。「六日之夜、三條定宿池田屋惣兵衛方へ壬生浪士其外乱入之由注進有之候付、不取敢吉田稔麿杉山松介両人邸内罷出候処、途中において吉田狼藉ものへ出会及刀傷深手負即死、松介儀ハ深手負邸内へ罷帰り夕方相果申候」とある。
稔麿は、池田屋での異変の注進が届くと杉山松介とともに藩邸を飛び出したが、途中で会津藩兵等と遭遇して即死し、杉山は重傷を負いながらも藩邸に戻り、翌日夕方に死亡したのだ。近野・原の居所は京都藩邸であり、しかも、この書簡は池田屋事件後に最も早く記されたものであることから、池田屋への新選組突入時、稔麿がそこにいなかったことの確かな証左となっている。
◇桂による自叙の信憑性
桂小五郎の「池田屋及び蛤御門の變に関する自叙」も、再検討を要する。桂は戍五ツ時(午後9時15分頃)に池田屋を訪れたが同志不在だったとしている。しかし、稔麿らが夕刻すなわち酉六ツ時(午後8時頃)以前から池田屋で会合を開始しており、稔麿の帰邸が巳四ツ時(午後10時半頃)であることから、両者は確実に池田屋で出会しており、桂の述懐の信憑性には大いに疑問がある。
桂は稔麿らと会した上で池田屋を離れており、稔麿らは桂が池田屋にまだいるか、または対馬藩邸にいると考えて、稔麿が池田屋へ、杉山が対馬藩邸へと向かったのではないか。「乃美織江手記」に、「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由」とあることも、稔麿らの行動とともに考え合わせれば、桂が池田屋にいたことは間違いない。
桂の「自叙」は、志士を統率する立場にありながら逸早く逃走し、有能な自藩士を自分のために失った負い目から、関係者がいなくなった明治になって書かれたものであり、その信憑性は極めて低く、批判的に扱わなければならない。
桂小五郎の「池田屋及び蛤御門の變に関する自叙」も、再検討を要する。桂は戍五ツ時(午後9時15分頃)に池田屋を訪れたが同志不在だったとしている。しかし、稔麿らが夕刻すなわち酉六ツ時(午後8時頃)以前から池田屋で会合を開始しており、稔麿の帰邸が巳四ツ時(午後10時半頃)であることから、両者は確実に池田屋で出会しており、桂の述懐の信憑性には大いに疑問がある。
桂は稔麿らと会した上で池田屋を離れており、稔麿らは桂が池田屋にまだいるか、または対馬藩邸にいると考えて、稔麿が池田屋へ、杉山が対馬藩邸へと向かったのではないか。「乃美織江手記」に、「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由」とあることも、稔麿らの行動とともに考え合わせれば、桂が池田屋にいたことは間違いない。
桂の「自叙」は、志士を統率する立場にありながら逸早く逃走し、有能な自藩士を自分のために失った負い目から、関係者がいなくなった明治になって書かれたものであり、その信憑性は極めて低く、批判的に扱わなければならない。
◇長幕融和の喪失と長州藩への遺産
稔麿の特筆すべき事績は、文久3年(1863)末から翌元治元年にかけての長幕間の裏面交渉・融和運動にある。稔麿自身が着想したこの周旋を藩が容認し、その円滑な実行を企図して遠近附への破格の昇進が実現した。藩要路が稔麿にいかに多大な期待を寄せていたかが、この一事からも明らかである。
しかし、その突然の死は長州藩と幕府双方にとって調整弁を失ったことを意味し、計り知れない痛手となった。長幕融和の唯一の可能性が、喪失したのだ。
「東風不競密話」の管見が提示した、「猛虎の深山によるの勢をなし、徒然動くべからず」という戦略は、当面は藩地に割拠して人心を鎮静化し、規律を整えて倹約に励み武備を充実させ富国強兵を図れば、いずれは中央政局での覇権を握れるという方針であり、その後の長州藩の行動指針に大きな影響を与えた。
この戦略的志向は、高杉晋作と桂小五郎(木戸孝允)に引き継がれ、倒幕路線の精神的支柱となったことは、改めて強調しておきたい。
稔麿の特筆すべき事績は、文久3年(1863)末から翌元治元年にかけての長幕間の裏面交渉・融和運動にある。稔麿自身が着想したこの周旋を藩が容認し、その円滑な実行を企図して遠近附への破格の昇進が実現した。藩要路が稔麿にいかに多大な期待を寄せていたかが、この一事からも明らかである。
しかし、その突然の死は長州藩と幕府双方にとって調整弁を失ったことを意味し、計り知れない痛手となった。長幕融和の唯一の可能性が、喪失したのだ。
「東風不競密話」の管見が提示した、「猛虎の深山によるの勢をなし、徒然動くべからず」という戦略は、当面は藩地に割拠して人心を鎮静化し、規律を整えて倹約に励み武備を充実させ富国強兵を図れば、いずれは中央政局での覇権を握れるという方針であり、その後の長州藩の行動指針に大きな影響を与えた。
この戦略的志向は、高杉晋作と桂小五郎(木戸孝允)に引き継がれ、倒幕路線の精神的支柱となったことは、改めて強調しておきたい。
◇稔麿の歴史的意義
わずか23歳で命を落とした吉田稔麿は、松下村塾の同窓・伊藤博文が「天稟の英才」と証言したように、幕末長州が誇る真の傑物であった。その事績を、生い立ちから池田屋事件での死に至るまで丁寧にたどることで、従来見過ごされがちであった幾つかの重要な歴史的論点が浮かび上がってくる。
池田屋事件における稔麿の行動の実相、長幕融和運動における稔麿の中心的な役割、そして屠勇取立という先駆的な発想、これらは幕末政治史の理解を深める上で、改めて正当な評価を与えられなければならない。
高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文らが等しく認めた稔麿の政治的洞察力・外交感覚・周旋能力は、今日なお十分な光を当てられることなく埋もれている。今回の連載によって、その再評価の一助となることを切に望みたい。>(以上「JB press」より引用)
わずか23歳で命を落とした吉田稔麿は、松下村塾の同窓・伊藤博文が「天稟の英才」と証言したように、幕末長州が誇る真の傑物であった。その事績を、生い立ちから池田屋事件での死に至るまで丁寧にたどることで、従来見過ごされがちであった幾つかの重要な歴史的論点が浮かび上がってくる。
池田屋事件における稔麿の行動の実相、長幕融和運動における稔麿の中心的な役割、そして屠勇取立という先駆的な発想、これらは幕末政治史の理解を深める上で、改めて正当な評価を与えられなければならない。
高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文らが等しく認めた稔麿の政治的洞察力・外交感覚・周旋能力は、今日なお十分な光を当てられることなく埋もれている。今回の連載によって、その再評価の一助となることを切に望みたい。>(以上「JB press」より引用)
「「池田屋事件」の通説を覆す新事実、「天稟の英才」吉田稔麿は突入時にいなかった?長幕融和の喪失と長州藩への遺産ーー幕末維新史探訪2026(22)幕末志士・吉田稔麿の実相―幕長融和に斃れた足軽出身の天才策士⑥」と題する読み物を紹介する。記述しているのは町田明広(歴史学者・神田外語大学教授)氏だ。町田氏は歴史小説も発表されていて、氏の作品はamazonでベストセラーになっている。云うまでもなく池田屋事件とは1864年(元治元年)6月5日の夜、京都の三条木屋町にあった旅館・池田屋で、新選組が尊王攘夷派の志士たちを急襲した事件だ。少数精鋭の新選組が大きな手柄を上げ、その名が世間に広く知れ渡るきっかけとなった。
様々な文献に当たり歴史小説を書くと、通説とは異なる見解が湧いて来るものだ。それは現在一般的に知れ渡っている「通説」は当時の社会や常識を色濃く反映しているからだ。当時の治世者や権力者にとって都合の悪い部分は意図して隠蔽され、一部が捏造されて伝えられていることも多分にありうる。
桂小五郎(後の木戸孝允)が新選組の襲撃された池田屋から自身が最初に逃亡した不名誉を恥じて、最初から池田屋にいなかったことにしたのは頷ける。もっとも、桂小五郎は「逃げの小五郎」と嘲られていた。桂は江戸三大道場と謳われた斎藤弥九郎道場で鍛え神道無念流の免許皆伝の腕前だった。しかし彼は「大検見役(情報収集官)」の役職にあったため、生きて帰藩し報告する義務があった。だから敵に遭遇すると戦わずに逃亡した。決して卑怯者の誹りを受けるものではないが、当時の桂が事実を改竄したことは充分にありうる。
吉田稔麿は天保12年(1841年)萩郊外松本村の足軽の家に生まれた。後に「育み」制度により藩士となった。吉田松陰の松下村塾で学び、高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一とともに「四天王」と呼ばれる英才だった。伊藤俊輔(後の博文)とは家が近く同じ年だったため、松下村塾に一緒に通い本の貸し借りなどもしていた。
池田屋事件により多くの志士たちが命を落とし、明治維新が一年遅くなっとと云われている。その中心人物はもちろん桂小五郎だが、吉田稔麿は桂小五郎の意を受けて京都に集まった脱藩浪士たちを糾合する役回りを務めていた。
当時の京都は前年(文久三年)会津藩と薩摩藩による「八月十八日の政変」で長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊攘派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職は新選組を用いて、京都市内の警備や洛中に潜伏する脱藩浪士の捜索を行わせた。
5月下旬ごろ、新選組諸士調役兼監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。捜索によって、武器や長州藩との書簡などが発見された。
元治元年(1864年) 6月5日早朝、古高を逮捕した新選組は土方歳三の手で拷問にかけ自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものだった。ただ古高について述べられた日誌には、自白内容の記述がないことから、彼が自白したのは自身の本名のみであったという説もある。
取り調べにより新選組は尊攘派の浪士らが時をおかず会合を行うと知った。急遽会津藩に報告のうえ徹底した市中探索を提案し、同日夕刻には会津藩の援軍を待たず、新選組は単独で三条から四条方面の捜索を開始した。
元治元年(1864年) 6月5日早朝、古高を逮捕した新選組は土方歳三の手で拷問にかけ自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものだった。ただ古高について述べられた日誌には、自白内容の記述がないことから、彼が自白したのは自身の本名のみであったという説もある。
取り調べにより新選組は尊攘派の浪士らが時をおかず会合を行うと知った。急遽会津藩に報告のうえ徹底した市中探索を提案し、同日夕刻には会津藩の援軍を待たず、新選組は単独で三条から四条方面の捜索を開始した。
亥刻(22時ごろ)過ぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で斬り込み、残りの隊士は屋外を固めた。屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線から離脱した。また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱した。
襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士たちは応戦しつつ、現場からの脱出を図った。裏口を守っていた新選組隊士安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1か月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。
新選組側は一時は近藤・永倉の2人となったが、土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。
池田屋事件の犠牲者は尊王攘夷派の志士は宮部鼎蔵(肥後藩・自刃)・吉田稔麿(長州藩・戦死)・北添佶摩(土佐藩・自刃)・大高又次郎(林田藩・戦死)・石川潤次郎(土佐藩・戦死)・杉山松助(長州藩・負傷のち絶命)・松田重助(肥後藩・戦死)等で、新選組側の犠牲者は奥沢栄助(当日死亡)・安藤早太郎(負傷のち死亡)・新田革左衛門(負傷のち死亡)となっている。
続く翌朝の市中掃討で新選組は会津・桑名藩らと連携し20名あまりを捕縛した。この市中掃討も激戦となり会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。
吉田稔麿は桂小五郎の配下となって、脱藩浪士たちとの連絡役を勤めていたのではないだろうか。なぜなら桂小五郎の従者だった伊藤俊輔は前年文久3年5月12日(1863年6月27日)秘かに井上聞多、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉ら他の4人の仲間と共に横浜港を出発し、英国へ留学していたからだ。
当時、京の三条河原町にあった長州藩邸で長州藩は脱藩浪士たちを支援していた。京藩邸を訪れる浪士たちに金品を与え連絡などを取り合っていた。その役目は桂小五郎が責任者として取仕切っていたが、実務は伊藤俊輔が当たっていた。が、伊藤俊輔がいなくなった後は吉田稔麿がその任に当たったと思われる。当然のことながら池田屋の集会は桂小五郎の命により、吉田稔麿が脱藩浪士に連絡し手筈を整えたのではないか。だからこそ、吉田はいったん難を逃れて藩邸に急を知らせた後、再び池田屋に向かう途中で討たれて絶命した。
前年の政変「七卿落ち」により朝廷の影響力を失った長州藩が、何らかの策謀により失地回復を試みたのは確かだろう。しかし「洛中に放火して~云々」といった騒乱まで計画していたとは思えない。なぜならこの後1864年7月19日(元治元年6月16日)に長州藩は蛤御門の変に突入するが、あくまでも朝廷に上奏して失地回復しようと試みていたからだ。いきなり御所に火を放ったり、公家を殺害するなどしてはいない。
吉田稔麿が傑出した人物だったからこそ、桂小五郎は伊藤俊輔がいなくなった後に重用したのだろう。また吉田稔麿は桂小五郎の期待に応えて、脱藩浪士たちを纏めていた。彼らが元の藩に働き掛けて「勤王討幕」に動いていたら、明治維新は戊辰戦争を経ることなく実現していたかも知れない。そうした歴史考証は今後次第になされ、解明されていくだろう。