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政策転換しない限り、民主党に「野党第一党」の資格はない。

  この夏の参議院選挙へ向けて、海江田代表が記者会見で「野党第一党」として中心となって自公政権に対抗しなければならないと発言したようだ。しかし海江田氏が本気で民主党が「野党第一党」と思っているとしたらお笑い草だ。  もちろん民自公「三党野合」で決めた「消費増税」では自公と相違は全くない。同じく「原発再稼働」でも自公と民主党は双生児のように似通っている。さらにTPPに関しても「参加意欲満々」では民自公の何処に相違があるというのだろうか。つまり民主党に「野党第一党」と発言する根拠は何もない。むしろ仲間外れにされた与党の「ハグレ鳥」といった方が相応しいだろう。    第一、海江田氏が記者会見するのに細野幹事長と同席するのはまだしも、岡田「顧問」とも同席したのでは野田政権の民主党と何も変わっていないという印象を国民に与えるだけだ。民自公「三党野合」政治がまだ続いているとしか国民には見えない。それなら民主党がどうなろうと知ったことではない、という思いになったとしても仕方ないだろう。なにしろ民社党は野田代表の下、自公と何も変わらない政党に変貌したのだから。    海江田氏は経済評論家上がりで選挙戦術にはあまり明るくないようだ。本気で「変わった民主党」を演出するつもりなら野田政権下の執行部の一角を占めた人物を海江田民主党の中枢から遠ざけなければならない。岡田氏や前原氏や枝野氏や安住氏やましてや菅氏などと記者会見で同席してはマズイと普通に思わないようでは「党改革イメージ戦略」は破綻しているといわざるを得ない。    この夏まで、時間があるようで実はない。そうすると、今月下旬に召集される国会で直ちに激突しなければならない。「消費増税」には徹底して反対し、「原発再稼働」にも徹底して反対し、原発新設を口にした安倍氏を論戦でトコトンやり込めなければならない。TPPも国益のために「頭から反対」を唱えて生半可な理解を示さないことだ。徹底した反対を海江田代表は国会論戦で演じて、野田民主党とは決別したことを国民に明確に示すことだ。それで野田氏や岡田氏などが態度を硬化したら「出て行け」と引導を渡すことだ。彼らこそ民主党を第二自民党に堕落させた張本人だからだ。    海江田氏は人の良い「オッサン」では党再建は出来ないと心すべきだ。挙党体制、などと甘っちょろいことを言っていては党再建は出来ない。野田氏た

NYタイムズは内政干渉するつもりか。

  安倍氏が河野談話を見直そうとしているのは史実に基づく判断に戻すだけの話だ。なにもNYタイムズから北朝鮮に対する日米韓の協調関係に水を差すから止めておけ、といわれる筋合いのものではない。ましてや「修正主義」だと批判されるいわれはなく、河野談話そのものが史実に反するものであり、NYタイムズが「従軍慰安婦」という文言を用いることに違和感を覚える。  NYタイムズは従軍慰安婦なるものを検証して記事を書いているのかと疑念を抱かざるを得ない。それとも韓国の手先となって日本に内政干渉するつもりなのか、第二次大戦の進駐軍さながらに今も米国民は宗主国気取りなのかと怒りさえ覚える。  そもそも「従軍慰安婦」なるものは存在しなかったと史実に明らかであり、謝罪するかのような談話を官房長官(当時)が発表すべきものではない。安倍氏が歴史に照らして是正しようとするのは疾しいことではなく、多くの日本国民は村山氏以来捻じ曲げられていた日韓関係を根本から正す第一歩だと歓迎する。

巨象を倒す蟻の群れになろう。

  未だに人類滅亡の炎に取り憑かれている人たちがいる。世界の各地で再三再四事故を起こして、人類はいかに危険なものか十分に学習したはずにも拘らず、どうしても原子力の呪縛から逃れられない人たちがいる。  放射性廃棄物の最終処分場もないままに54基もの原発をこの狭い国土に建設し、膨大な使用済み燃料棒や高濃度放射性廃棄物を青森県六ヶ所村のみならず全国の原子施設に累々と貯蔵され、それらもほぼ飽和状態にある。    それでも原子の炎に魅了された人たちは再び燈して処分する術もない放射性廃棄物を延々と吐き続けるつもりなのだ。地震や津波の被害がなくても、原子力発電は既に行き詰っている。  そうした事実を隠蔽したまま、安全基準や活断層や津波堤防建設などに問題をすり替え、再稼動に血道を上げている人たちの倫理観は何処に存在しているのだろうか。原子力が巨大な存在であるように、原子力の周囲で形成された既得権益も倫理観を麻痺されるに十分なほど巨大なのだろう。    既に日本国民の八割強が原子力発電を否定している。そうした事実を「現実的でない」とか「電気料金の高騰を招く」だとか「CO2により地球が温暖化する」だとか、様々な屁理屈を並べ立てて掻き消そうとしている。しかし国民の多くはその欺瞞性に反吐が出る思いで向き合っている。なにしろ屁理屈を垂れ流しているのはすべての全国紙やすべてのテレビ局を支配するこの国のマスメディアという巨象だ。かつては大本営発表をタレ流して国民を悲惨な戦争へ導いた実績を持つ。その巨大な権力が根元から腐っていると、ネット市民は気付いている。そして我侭に振舞う巨象に立ち向かう蟻として個々人が小さな声を発している。    原発がこの国のマスメディアと同じように巨象だとしたら、個々の発電量の極めて小さな小規模水力や太陽光や地熱などは蟻だろう。しかし、ついに巨象を虚像に排して蟻が個々人の国民を助ける日が必ず来る。この国のマスメディアの欺瞞性も、すべての国民が知るときが必ず来る。その日まで我らは巨象に立ち向かう一匹の蟻となろう。

嘉田氏の限界か。

  嘉田氏が未来の党の代表を降りるという。あれほど小沢氏に敵意剥き出しにして未来の党の共同代表就任を拒否していたにも拘らず、自分が代表を降りるというのでは辻褄が合わない。所詮は政界全般が俯瞰できず、マスメディアに踊る二流の政治家に過ぎなかったということだ。  つまり政治理念に基づき政策を決定し、万難を排して前進する指導力が決定的に欠如していたということだ。マスメディアが「消費増税」や「脱原発」や「TPP参加」を選挙の争点から隠して、いつも選挙争点としてあがる常連「景気対策」を持ち出した戦略にまんまと乗せられないようにするか、というのが今回の選挙の最大の眼目だった。それを嘉田氏は周回遅れの「小沢マター」にまんまと乗せられた。既に小沢氏は「無罪確定」により隠す必要も何もなかったのだ。  それを大津市長のバカげた基本的人権を無視したような小沢発言にビビリまくり、マスメディアもその大津市長の発言を小沢氏へのネガティブキャンペーンに利用した。滋賀県知事といい大津市長といい、田舎者には困ったものだ。    中央政界で演じられた検察官僚とマスメディアぐるみの人格破壊攻撃の実態が何もお解りでなかったようだ。せめてはネットを精読されていれば少しは理解の一助になっただろうが、飯田氏を含めて嘉田氏周辺は哀れなほど無知だったようだ。  その挙句が選挙大敗後の内輪揉めだ。嘉田氏が「大敗の責任を取ります」と一言言って退けば何も波乱は起こらなかった。しかし嘉田氏は自分自身が最高に可愛いナルシストだったようだ。バラパラと討ち死にした未来の党の仲間の骨を拾おうともせず、自分の立場のみを安堵しようとした。指導者としてあるまじき振る舞いだ。嘉田氏の政治生命はここに尽きた。誰も嘉田氏に命を賭して尽くそうとはしないだろう。そこが徹底的に小沢氏とは異なる。

<年頭に当たって>日本は普通の国家を目指すべきだ。

  世界で日本は普通の国家だろうか。かつての表現を用いれば、日本は西側諸国に属し、資本主義国家として明治より歩み続けている。  先の大戦で敗北するまで、日本は世界の潮流に従って「富国強兵」を国是として、欧米列強の帝国主義諸国と伍して世界で確かな立場を築いてきた。それをとやかく批判する国民も一部にいるが、日本が欧米列強の植民地にならず、むしろ併合した朝鮮半島と台湾の人たちを文化の恩恵に浴すように導いた人道主義は高く評価されるべきものだ。    戦後の歩みは明治維新よりも一層困難な歩みだったと回顧する。その桎梏は現在にも残り、「日本の防衛」を名目に米軍が日本の各地に駐留してが、その実態は米国による日本支配であることを日本政府と日本国民は容認している。  しかし曲がりなりにもサンフランシスコ条約により独立し、日本は独立国家として60年以上も歩み続けていることになっている。その矛盾した現実が日本国内の基地問題として顕在化し、国民も日米地位協定が不平等な条約で、それが米国による日本統治の残滓であることに気付いている。    戦後日本は世界に類例を見ないほど「お人好し国家」として近隣諸国、とりわけ韓国と中国に義務とされていない援助を営々とやってきた。韓国と中国にとって日本の援助が両国の経済がテイクオフする一助になったのは疑う余地のないところだが、経済成長をはじめると足並みを揃えて両国は「反日国家」になった。  国家間の援助は個人間の援助とは異なることを日本は学んだはずだ。両国は条約根拠もなく援助してくれた日本に感謝するのではなく、自国の尊厳を保つために「日本からの援助」を自国民に秘匿し、日本を敵国として「反日教育」を堂々と開始した。両国の政府が国民を統治するに当たって、両国政府は国民から尊敬される対象でなければならず、日本からの援助も一助となって経済的な基盤と社会インフラを築いてきたとは口が裂けても国民に知らせることは出来ないのだ。    だから韓国はあたかも「独立戦争」を戦って日本から独立を果たしたかのように「嘘の歴史」を韓国民に教えている。国家として「独立記念日」まで制定して国家行事を行っている。中国も同様に1948年に国民党との内戦を制して独立したにもかかわらず、日本と独立戦争を戦ったかのように自国民に教え込んでいる。だから中共政府が国連に「戦勝国」として安保理常任理事国

これほど乱暴な議論は前代未聞だ。

  かつて職員140人だった町役場が合併によって新市の総合支所となって40人にまで減少したとき、町の住民は騙されたと気付いた。40人に減らされた職員では74平方kmに及ぶ管轄区域をすべて管理することは出来なくなったからだ。  合併により町から立候補して市議会議員になっている3人の議員では多勢に無勢で町のことを町の住民で決めることは出来なくなった。教育委員会も町からなくなり、年行事までも従来から町にあった殆どのものが予算の都合で廃止された。    かつては町会議員に関してはかばかしい評判を聞かなかった。知名士がなっているようだという悪評が満ちていた。しかし合併により町住民が溜飲を下ろしたのも最初の数年だけだった。今度は誰に頼んでよいのか分からず、生活道の補修や公民館の屋根修理などが放置されるようになって慌てた。  大前氏は地方議員は職のない若者か暇だらけの老人たちのハローワークだと酷評するが、果たしてそうなのだろうか。いたって彼らはマジメにやっていたのではないかという反省が町にはある。かつて町会議員の報酬は20万円にも満たず、手取りは15万円前後と、他に職がなければ生活出来ないものだった。合併後の市議会では従前から45万円もの高額報酬が市議会議員に支給されていたと知って町の住民は驚いたほどだ。彼らが「皆様のためにご奉仕したい」と選挙で絶叫しているのが当選するためのお題目に過ぎないと知ったからだ。    その合併前の町会議員も自治法に定める定数24人のところを16人にまで減らしていた。大前氏が言うように1/10まで減らしたら2人以下ということになる。非現実的なことを余り調子に乗って発言しないことだ。  職員数を減らせというのも程度問題だ。1/10では立ち行かないことは町の合併経験から明らかだ。1/10ということなら140人いたのだから14人ということになる。1万7千人の住民窓口だけでも10人は必要で、他の上・下水事業や道路維持・管理や学校教育等等の部署を4人で賄うことは到底出来ない。    合併により周辺町村部の社会インフラが目に見えて悪化している。行政の効率化ということから、周辺部を切り捨てられるのだろうと旧町住民は話して心配している。  この国の富の再配分は上手く機能しているのだろうか。格差社会は富の再配分がうまく機能しないことから起こっているのではないだろうか。

国家情報管理にハッカーを利用せよ。

  内閣官房情報セキュリティーセンターの指摘により農水省にハッカーが侵入し環太平洋経済連携協定交渉を巡る事前文書など3000点以上が海外へ流出している疑いがあることが判明したという。いわゆるサイバー攻撃は韓国からなされ、ハングル文字が操作画面に残されていたという。  TPP交渉は協定が締結されるまで交渉内容は一切秘匿されることになっている。それが国家間の取り決めなら、正式参加前の事前交渉であろうと日本の農水省から内容が漏えいすることがあってはならない。    まさか、と疑いを抱かざるを得ないのは、省益のためにTPP参加交渉を困難にする意図があって外部と接続したPCに秘密文書を放置していたのではないか、という農水省の未必の故意だ。   流出したと疑われる機密文書は政府機密性の統一規範3段階のうち2番目に該当し<漏洩により国民の権利が侵害されるか行政事務の遂行に支障を及ぼすおそれがある情報>に指定されているものだという。そうした国家機密に属する文書を記憶させたPCをインターネットに常時接続していたのかと懸念を持つ。農水省内部のイントラネットで使用していれば漏洩することはなかったはずだ。あるいは霞ヶ関内部のネットで外務省とやり取りしていればハッカーの侵入は防げるはずだ。    米国では国家最高機密は世界の命運を握るため、ハッカー攻撃への備えを絶えず最新のものにしている。そのため元ハッカーを雇い入れてセキュリティの開発を競わせていると聞く。ネット・セキュリティは絶えざるイタチゴッコで攻撃する者と防衛する者との熾烈な開発競争を演じている。  そうした面で日本の内閣官房セキュリティーセンターの人員がどのような構成になっているのか全く不案内だが、外国との交渉機密文書の漏洩は深刻な事態だとの認識を持たなければならない。機密漏洩を公表していない農水省の態度は理解に苦しむが、臭いものに蓋では済まされない。実態解明と徹底した防止策に霞ヶ関は取り組むべきだ。

国家と国民のために現代の不倒翁・小沢一郎氏の復活を期待する。

  マスメディア演出による徹底した第三極「維新の会」騒動と争点隠しと未来の党潰しに遭って、小沢氏の仲間は惨敗した。この国の選挙で今回ほど酷いモノはないだろう。民主主義を否定するかのような「ポピリス゛ム」批判に遭って、安倍氏は悠々と原発再稼働へ前進しようとしている。大衆世論をポピュリズムと評すのなら、なぜマスメディアは執拗に世論調査をするのだろうか。あらゆるポピュリズムを排するのなら、国民世論の動向とは関係なく首相の思いつくままに政策を推進するのだろうから、間接民主主義を支える選挙制度すら不要なものと断ぜざるを得ないことになりはしないだろうか。    この国のマスメディアのいい加減さにはいささか食傷気味だ。もはやウンザリしている。相手するのすら嫌になるが、ここで筆を折るとマスメディアの思う壺だ、と我が身を叱咤激励する。  小沢氏が大勢の国会議員を新年会で自宅に呼び集めると陰の権力者だと批判するが、数が少ないと「実力に翳りが、」と拍手喝采する。何とも愚かな連中だ。  選挙は今回が最後だったわけではない。これからもこの国が議会制民主主義を採っている限り永遠に続く。そうした数限りない選挙の一現象に過ぎない。    安倍氏は大勝して政権を獲ったがために、争点隠ししていた事柄について政権の意思を明確にしなければならないことになった。もはや争点隠しでこの夏の参議院選挙を戦うことは出来ないし、次期衆議院選挙では安倍氏が今回実に上手く国民を争点隠しで騙したツケを支払わなければならない。それはマスメディアの煽りで上昇気流に乗った自民党の補完勢力に過ぎない「維新の会」も同じだ。彼らも裸を晒して実力で選挙に臨まなければならなくなった。    小沢氏は少数精鋭で選挙に臨むべく戦列を整え、落選した戦士たちを励ましつつ臨むだろう。政治理念は圧倒的に小沢氏を支持している。脱原発は国民の総意だ。消費増税反対も国民の過半数の支持を得ている。TPP反対も国民の圧倒的多数の支持を得ている。しかも小沢氏は「無罪」の清廉潔白の身の上だ。何も恐れるものはない。これからも小沢総理の実現を目指して愚直に粘り強く支持してゆく。

元旦早々新聞で「漫才」ですか。

  読売新聞の元旦号には驚いた。この新聞社は何が何でも原発を稼働させなくては気が済まないらしい。社説でも大人気ないほど大きく取り上げたし、4面の曽野氏と橋本氏の対談「日本全体が幼稚になった」には度肝を抜かれた。なにしろ「電気なくして民主主義なし」と断言しているのだ。 江戸時代や明治初頭に電気はなかったが、地域社会には民主主義的なコウやユイの運営はあったし、まがりなりにも明治時代に発足した議会制民主主義は電気があったからなのか。歴史を知らないにも程がある。    更に国民目線は「迎合主義のポピュリズムだ」と読売の論説委員か何かをしている橋本氏がノタマウには驚く。ポピュリズムに乗っかり、それを最も利用しているのがマスメディアではないだろうか。その最たるものが巨人軍のオーナーたる所以ではないだろうか。  一方で商売として大衆迎合しておきながら、原発推進では国民の8割超が反対しているが、政治家には「現実を無視しろ」と教唆している。これが民主主義だろうか。四肢滅裂とは曽野氏と橋本氏の対談読物に極まる。新年早々新聞紙上で漫才を演じているのではないかと驚いた。    原発再稼働や新設が経済成長と何の関係があるのだろうか。ましてや民主主義と何の関係があるというのか、論理破綻をきたしている読売新聞は全社を挙げて集団催眠術から目覚めることだ。さもなければインチキ新興宗教の機関紙まがいのアジ紙として国民からソッポを向かれてしまうだろう。

虚飾の時代。

  この国は虚飾の時代に突入している、と深く実感する。政治家の言葉も飾り立てられているが実態は選挙に勝つための虚しいものでしかない。それをこの国のマスメディアは一言も攻撃しないで「現実的な政策」だとして許容する。  たとえ現実的な許容されるべき政策であるにせよ、選挙の時との言行不一致は政治家として致命的な暴挙だと批判すべきがマスメディアのあり方だ。他のことではない、安倍氏が原発新設にまで言及したから怒っている。    虚飾をこの国はいつから公明正大に許容するようになったのだろうか。飾り立てて自己主張するが、実態は虚しいものだという類のものが世間に氾濫している。  江戸時代にも「かたぶく」者はいた。幡随院長兵衛などがその好例だろうが、彼は騙し討ちにあって殺されている。傾く(かたぶく)ことは命懸けだった。しかし現代では街に出れば傾いた者が日常的に歩いている。テレビを視聴すれば傾いた者が大きな顔をした御託を並べている。    現代の若者に嫌われようと批判を浴びようと敢えて書かなければならない。現代の日本社会は非日常的なものと日常的なものとが混在化した社会だ。  たとえば漫才はお祭りなどの非日常的な空間で演じられたものだ。演じる者はそうした生業が地域社会の中で受け容れられないものだとの自覚の上で演者を演じていた。かつて歌舞伎役者もそうだった。    しかし現代社会では非日常空間を見回すまでもなく、歌舞伎役者さながらの虚飾を身に纏った若者が街に氾濫している。おそらく強烈な自己顕著欲と自己主張のつもりなのだろうが、そこに何ら思惟的な深みは感じられない。牛でもなかろうに鼻にまで穴をあけてピアスをつけたり、白髪隠しでもあるまいに金髪に染めたりと、なかなか虚飾に忙しいことだ。  テレビ画像の中は非日常的な演芸で満ちている。毎日がお祭りか無礼講のバカ騒ぎだ。いい歳をした男が髪を染め顔を黒くしピアスをこれでもかと耳朶につけて奇妙なステップを踏んでみせる。それも極めて非日常的なステップだ。下手をすれば靭帯とか腱を痛めそうなステップだ。極めつけに 頭で床を廻って見せるに到っては、 まかり間違えば頚椎損傷を起こしかねない愚行と断定するしかない。  一体それは踊りなのか、むしろ上海雑技団の類ではないのかと目を疑う。 若者にそうした真似をさせるのが正しいことなのだろうか。 しかしこの国の文科省はそ