虚飾の時代。

  この国は虚飾の時代に突入している、と深く実感する。政治家の言葉も飾り立てられているが実態は選挙に勝つための虚しいものでしかない。それをこの国のマスメディアは一言も攻撃しないで「現実的な政策」だとして許容する。


 たとえ現実的な許容されるべき政策であるにせよ、選挙の時との言行不一致は政治家として致命的な暴挙だと批判すべきがマスメディアのあり方だ。他のことではない、安倍氏が原発新設にまで言及したから怒っている。


 


 虚飾をこの国はいつから公明正大に許容するようになったのだろうか。飾り立てて自己主張するが、実態は虚しいものだという類のものが世間に氾濫している。


 江戸時代にも「かたぶく」者はいた。幡随院長兵衛などがその好例だろうが、彼は騙し討ちにあって殺されている。傾く(かたぶく)ことは命懸けだった。しかし現代では街に出れば傾いた者が日常的に歩いている。テレビを視聴すれば傾いた者が大きな顔をした御託を並べている。


 


 現代の若者に嫌われようと批判を浴びようと敢えて書かなければならない。現代の日本社会は非日常的なものと日常的なものとが混在化した社会だ。


 たとえば漫才はお祭りなどの非日常的な空間で演じられたものだ。演じる者はそうした生業が地域社会の中で受け容れられないものだとの自覚の上で演者を演じていた。かつて歌舞伎役者もそうだった。


 


 しかし現代社会では非日常空間を見回すまでもなく、歌舞伎役者さながらの虚飾を身に纏った若者が街に氾濫している。おそらく強烈な自己顕著欲と自己主張のつもりなのだろうが、そこに何ら思惟的な深みは感じられない。牛でもなかろうに鼻にまで穴をあけてピアスをつけたり、白髪隠しでもあるまいに金髪に染めたりと、なかなか虚飾に忙しいことだ。


 テレビ画像の中は非日常的な演芸で満ちている。毎日がお祭りか無礼講のバカ騒ぎだ。いい歳をした男が髪を染め顔を黒くしピアスをこれでもかと耳朶につけて奇妙なステップを踏んでみせる。それも極めて非日常的なステップだ。下手をすれば靭帯とか腱を痛めそうなステップだ。極めつけに頭で床を廻って見せるに到っては、まかり間違えば頚椎損傷を起こしかねない愚行と断定するしかない。


 一体それは踊りなのか、むしろ上海雑技団の類ではないのかと目を疑う。若者にそうした真似をさせるのが正しいことなのだろうか。しかしこの国の文科省はそうした踊りをカリキュラムに組み込むという。決して悪い冗談ではなく、本気でそうすると決めたようで、教師たちを集めて指導しているというから驚く。


 


 そうするほどなら文科省はなぜ地域の非日常的な舞を継承しようとしないのだろうか。意味のないアクロバットのような所作の習得に学校教育の時間を割くよりも、地域の神楽や田楽踊りなどを継承するように全国教育委員会に号令掛けようとはしないのだろうか。


 この時代は虚飾の時代だ。意味もなく飾り立て、装束で目立ちたいとの思いを最高潮に発揮する。政治家も政治理念で勝負するのではなく、「ワイルドだぜ」といった類のギャグ程度の認識で「脱原発」を標榜したりする。それも選挙で勝つためだけだ。羞恥心の欠片もない「選挙請負人」の助言に従って争点隠しを平気でこの国の国会議員たちが演じたとすれば何をか況や、だ。恥を知るべきだ。


 


 世界に誇る日本の伝統文化は現代を生きる我々が創ったものではない。現代を生きる我々は一体何をやっているのだろうか。未来のこの国の人たちに誇れる遺産を残しているだろうか。


 政治家たちは芸人さながらに非日常的な虚飾にまみれて当選を果たし、当選したからには「こっちのもの」で何をやっても許される、という数の論理と議決の仕組みを利用しては議会制民主主義は終焉を迎えざるを得ない。


 国民に信を問うて自民党政権は出来あがったのだろうか。この国の政治の根幹にかかわる選挙で「争点隠し」を演じた候補者たちは万死に値するし、それを批判しないマスメディアは愚劣にも程があると、ネットの中から批判するしかない。



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