東北・北海道の災害地を映像で見て思うこと。

 なぜ早期に避難しなかったのか、というのが最初の感想だった。9名も死亡した老人ホームの同じ敷地に3階建ての施設があったのに、なぜ早期に避難させなかったのだろうか。
 なぜ、老人施設などを川縁に建てるのだろうか、という疑問も湧いた。川は氾濫するものだ、という常識は明治時代まで普通に日本人は持っていた。肥沃な耕作地は氾濫により上流から栄養分に富んだ土砂が流れて来ることにより形成された。つまり氾濫原こそが肥沃な耕作地だったわけだ。

 川は長年の間に流れを変えている。歴史にある限りでも大河が流れを変えている史料は幾らでもある。川は氾濫するものだという常識がかつての日本人にはあった。しかし河川改修により「流れを固定化」することにより現代の都市計画が作られた。
 川は氾濫するものではなく、人は川辺にまで宅地化しても「安全」だという幻想を抱いた。それが間違いだ。川は整備した想定雨量を越えれば氾濫する。都市のマンホールなどの下水道ですら雨量一時間当たり50mmを限度として造られている。それを超える豪雨が降れば下水道は機能しなくなる、というのは常識だ。

 しかも画面で見る限り、被害を拡大したのは「流木」だ。間伐などで伐採した杉などを伐採地に放置するのが現在の森林組合の対処法だが、それが被害を大きくしている。さらに決壊した堤防なども映像で見る限り、コンクリートで固められたものではなく、土を固めた重力式の極めて牧歌的な堤防ばかりだ。
 そうした堤防は私の暮らす西日本ではまず見られない。一級河川のみならず市町村が管理する二級河川ですらコンクリートでガッチリと固められている。そうした築堤が東北や北海道で行われていなかったのはなぜだろうか。

 さらに氾濫原を想定していない都市づくりにも驚く。川は想定した雨量以上の豪雨があれば氾濫する、という、という常識さえあれば、氾濫した場合にどの範囲まで濁流が侵入しても地域住民の日常生活に影響が出ないか、という計算が為されていないという場当たり的な都市計画には構想力の欠如に驚く。
 防災の専門家と称する連中は一体どのようなレクチャーを都市計画の職員や地方議員や首長にしてきたのだろうか。津波危険地域の指定がなされているのと同様に、豪雨時に想定される河川の氾濫に伴う危険地域の指定を行政は行うべきだ。そうした前提の上で、防災の避難訓練などを行うべきだ。

 それは自然災害だけに当て嵌まる手法ではない。若年者のイジメによる自殺などにも利用できる。人の心が壊れる限界は個人差があるにしろ、SOSサインは発するものだ。そうした際に、シェルターとして気軽に避難できる施設を地域に設置すべきだ。それも格式ばった行政施設に設置するのではなく、駅構内やスーパーなどの一角に自由に過ごせる部屋を設けるなどすれば良い。
 避難場所がないから生徒・児童は自殺に走らざるを得なくなる。河川でいえば「氾濫原」を設けて、悲劇的な結末に自ら突き進まないように、別の価値観を持つ空間を用意することだ。人生は学校がすべてではない、生きていれば良いことは幾らでもある、と気付かせることだ。

 同様に、土地利用とはすべて田や畑にすることではない。氾濫原として牧草地を行政が確保しても良いではないか。そうしたゴム紐の伸びシロのような空間が都市計画でも必要だ。そうしたことを思わせる東北や北海道の被災地の映像だ。被害に遭われて命を落とされた方々のご冥福をお祈りいたします。合掌。


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