社会学に絶対基準はないが、その時代の社会常識が「社会の中立」だ。

<沖縄県名護市辺野古沖の小型船転覆事故で、研修旅行中だった同志社国際高校(京都府)の女子生徒らが亡くなったことを受け、文部科学省は、同校の教育内容が政治的中立性を定めた教育基本法に違反すると認定した。「教育の政治的中立性」とは何なのか。早稲田大の近藤孝弘教授(政治教育学)に聞いた。

 ――3月、平和学習で辺野古を訪れた同校の生徒18人が分乗した小型船2隻が転覆し、女子生徒ら2人が亡くなり、計14人が重軽傷を負いました。

 教育活動中に起きた事故であり、安全管理に不十分な点がありました。危険が予測できなかったとは言えず、学校の責任が問われます。しかし、安全管理上の問題と政治的中立性とは分けて考える必要があります。

 この違いを見落とすと、現場の教員を萎縮させ、有意義な教育が難しくなります。平和と民主主義を支えるという教育の目標にとって、大きな障害が生じてしまいます。

 ――教育における「政治的中立性」をどう考えるべきでしょうか。

 日本では政治的中立性という言葉が普通に使われます。しかし、これが確保されているかどうかは結局のところ、自分の考えに近いか遠いかでしか判断できません。非常に難しいものです。

 そもそも政治的中立性の判断を、文部科学省や学校を所管する京都府庁に委ねてよいのでしょうか。立場の中立性が保証されない者によって中立性の基準が設定されることになれば、それは自己矛盾だと言えます。

 特に政府が政治的中立性を恣意(しい)的に判断すれば、学校法人や教育現場に対して、中立的でない指導がなされる可能性があります。>(以上「朝日新聞」より引用)




辺野古転覆、政府は「政治的中立性」語れるのか 早稲田大・近藤教授」とは妙な見出しだ。何が妙かというと「政府は「政治的中立性」語れるのか」という早稲田大・近藤教授の言葉が、だ。
 何が政治的中立か判らない、というのは一つの真理だろう。確かに立場が変われば「中立」の見解も変わる。しかし少なくとも一つの社会で「中立」と見做される基準があるのも事実だ。さもなくば、メディアが「左派」だとか「右派」だとか識別すること自体がナンセンスになり、社会学は存在しないことになる。

 それでは「辺野古沖移設反対運動」は「政治的中立」なのか。その活動に参加している多くのプロ活動家諸氏は「中立」だと信じて活動しているのだろうか。また国民の多くが「辺野古沖移設反対運動」は政治的に「中立」だと感じているだろうか。
 早稲田大・近藤孝弘教授(政治教育学)は「政治的中立性の判断を、文部科学省や学校を所管する京都府庁に委ねてよいのでしょうか。立場の中立性が保証されない者によって中立性の基準が設定されることになれば、それは自己矛盾だと言えます」と論じている。近藤氏の伝で云うと世の中はすべて曖昧模糊として捉え処のないモノになり果ててしまう。

 一つの基準を定めない限り、思想分類学的な学問は成立しない。そうすると仮に現在社会が「中立」だとして、それよりも「反国家的」な立場を取る者が「左派」であり、「国粋的」な立場を取る者が「右派」ということになる、としなければ社会思想の分類すら不可能になる。
 そうすると「辺野古沖移設反対」運動は道交法に違反して公道を占拠して座り込み、国が進める辺野古沖移設事業現場海域を小型ボートで侵入して工事を妨害する、という行為は明らかに「反国家的」な行動ではないか。だからメディアも彼らを「左派活動家」と称している。

 そうした一応の分類が近藤氏の高邁な学問からすると稚拙な現実対応の分類でしかなく、政治的に左派か否かすら断定できないものかも知れない。しかし現実に多くのメディアが「左派活動家」と彼らを呼び、反対運動を「左派活動」と称しているからには、極めて通俗的な社会思想分類であろうとも受け入れるしかないだろう。
 だから「京都市教育委員会や文科省が社会通念に照らして「辺野古沖移設反対運動」が「政治的中立」に悖るか否かを判断するのを「マヤカシだ」と否定する方こそ無知傲慢だと批判するしかない。

 つまり教育における「政治的中立性」は社会通念における価値判断を援用することでしか成り立たない。それは通常メディアが日常的に行っている「左派」か「右派」かの判断基準に従うしかないし、学校教育は「左派」にも「右派」にも偏らない教育を生徒に施すべきだとする教育基本法という法律に従うべきだ。
 社会の常識は極めて曖昧で移ろいやすい。つい先日まで「CO2地球温暖化」は正義の「水戸黄門の印籠」だった。CO2排出が地球を温暖化させて地球を破滅に導く、という「印籠のような論理」に平伏した。しかしCO2地球温暖化は真実ではなく、日本車を潰すための策謀でしかなかった。マンマとその策謀に乗って、日本政府までがEV購入補助金制度を設け、再エネ推進法を設けて全国の山林を伐採して太陽光パネルを敷き詰める、という狂気の沙汰を推進していた。

 しかし街中にある普天間基地を辺野古沖に移設する「国家事業」の何処が間違っているというのか。普天間基地の危険性を少しでも軽減するための事業が「反対運動」によって遅れている、という事実関係の何処が「政治的」ではないと云えるのだろうか。
 馬鹿げた「辺野古沖移設事業反対」運動が「平和教育家に資する」と考える方が常軌を逸しているし異常だ。それを「政治活動」だと京都市教育委員会や文科省が判断するのは「基準のない思想を識別するのは弾圧だ」と指摘する政治教育学の教授の方こそどうかしている。彼は一体如何なる学識論文を以て教授になったのだろうか。早稲田大学の学問の質こそ、ゼロから検証しなければならないのかもしれない、との危惧を抱くのは私だけだろうか。

このブログの人気の投稿

それでも「レジ袋追放」は必要か。

麻生財務相のバカさ加減。

無能・無策の安倍氏よ、退陣すべきではないか。

経団連の親中派は日本を滅ぼす売国奴だ。

福一原発をスーツで訪れた安倍氏の非常識。

全国知事会を欠席した知事は

安倍氏は新型コロナウィルスの何を「隠蔽」しているのか。

安倍ヨイショの亡国評論家たち。

自殺した担当者の遺言(破棄したはずの改竄前の公文書)が出て来たゾ。