今年7月に天変地異が起きると予言するのはノストラダムス大予言の現代版か。
<「7月に日本で大災害が起こる」――こんな不穏な噂が国内はもとよりアジア圏にも広がっている。
2021年に出版されたたつき諒氏の漫画『私が見た未来 完全版』(飛鳥新社)がネタ元とされている。
その中で「本当の大災難は2025年7月にやってくる」と明言するとともに、「日本とフィリピンの中間あたりの海底がボコンと破裂(噴火)」し、「南海トラフ地震の想定をはるかに超える壊滅的な大津波が日本の太平洋側を襲う」という予知夢の内容を紹介していた。
2021年に出版されたたつき諒氏の漫画『私が見た未来 完全版』(飛鳥新社)がネタ元とされている。
その中で「本当の大災難は2025年7月にやってくる」と明言するとともに、「日本とフィリピンの中間あたりの海底がボコンと破裂(噴火)」し、「南海トラフ地震の想定をはるかに超える壊滅的な大津波が日本の太平洋側を襲う」という予知夢の内容を紹介していた。
「地震の予知は困難」と内閣府がコメント
同作は、すでに90万部を超える大ヒットになっており、中国語版も発売され、香港や台湾でも大きな話題になっている。
台湾のニュースメディア「風傳媒」は、「2025年7月5日に日本を中心とした巨大地震と津波が発生するという『予言』が、台湾や香港のSNS上で急速に拡散し、現地では不安の声が広がっている」と伝えた(「7月5日、日本で大地震」予言SNSで拡散 台湾・香港で訪日控える動きも/2025年5月14日/風傳媒日本語版)。
旅行客にまで影響が出始めたこともあり、内閣府が「地震の予知は困難」と異例のコメントをする事態になった。
同作は、すでに90万部を超える大ヒットになっており、中国語版も発売され、香港や台湾でも大きな話題になっている。
台湾のニュースメディア「風傳媒」は、「2025年7月5日に日本を中心とした巨大地震と津波が発生するという『予言』が、台湾や香港のSNS上で急速に拡散し、現地では不安の声が広がっている」と伝えた(「7月5日、日本で大地震」予言SNSで拡散 台湾・香港で訪日控える動きも/2025年5月14日/風傳媒日本語版)。
旅行客にまで影響が出始めたこともあり、内閣府が「地震の予知は困難」と異例のコメントをする事態になった。
「世直り」と「自己変革」
このような騒動を「嘘八百」「でたらめ」であるとして、一笑に付す人が多いかもしれないが、このような破局的な予言が流行する現象には、実に多くの「真実」が含まれているので要注意だ。
とりわけ重要なキーワードとなるのは、「世直り」と「自己変革」である。前者は古くから庶民に親しまれてきた“災害観”だとすれば、後者は近代特有の変身願望に根差している。
予言といえば、1970年代から1990年代にかけて世の中を席捲した「ノストラダムスの大予言」が有名だろう。「1999年の7の月、空から恐怖の大王が降りてくる」というフレーズは多くの人々に浸透し、オウム真理教のようなカルト宗教に入信する人々まで現れた。
さらに時代をさかのぼれば、大正時代に関東大震災を予言したとされる宗教家(新宗教「大本」の教祖の一人である出口王仁三郎)の逸話などがある。
近現代にだけフォーカスすると、最近の現象のようにも思えるが、日本は地震国ということもあり、古来様々な予言が人々の間で語られ、消費されてきた。
典型的なのは「地震鯰」だ。民俗学者の宮田登は、「日本のフォークロアは、変災の予知を魚族の王たちが行なってくれることを語ってくれる。それはかつて柳田国男が『物言ふ魚』として指摘したことであった」と述べている(『江戸のはやり神』ちくま学芸文庫)。
その好例として「江戸の俗信仰として流行した地震鯰」を挙げ、「大変災による不可抗力なカタストロフィを招来するものが、それを予知する鯰であると同時に、鯰そのものだと信じられているのである」と述べた。
鯰は子どもを通じて危機を知らせることもあれば、人に化けて直接告げることもあり、そのバリエーションは多様である。
このような騒動を「嘘八百」「でたらめ」であるとして、一笑に付す人が多いかもしれないが、このような破局的な予言が流行する現象には、実に多くの「真実」が含まれているので要注意だ。
とりわけ重要なキーワードとなるのは、「世直り」と「自己変革」である。前者は古くから庶民に親しまれてきた“災害観”だとすれば、後者は近代特有の変身願望に根差している。
予言といえば、1970年代から1990年代にかけて世の中を席捲した「ノストラダムスの大予言」が有名だろう。「1999年の7の月、空から恐怖の大王が降りてくる」というフレーズは多くの人々に浸透し、オウム真理教のようなカルト宗教に入信する人々まで現れた。
さらに時代をさかのぼれば、大正時代に関東大震災を予言したとされる宗教家(新宗教「大本」の教祖の一人である出口王仁三郎)の逸話などがある。
近現代にだけフォーカスすると、最近の現象のようにも思えるが、日本は地震国ということもあり、古来様々な予言が人々の間で語られ、消費されてきた。
典型的なのは「地震鯰」だ。民俗学者の宮田登は、「日本のフォークロアは、変災の予知を魚族の王たちが行なってくれることを語ってくれる。それはかつて柳田国男が『物言ふ魚』として指摘したことであった」と述べている(『江戸のはやり神』ちくま学芸文庫)。
その好例として「江戸の俗信仰として流行した地震鯰」を挙げ、「大変災による不可抗力なカタストロフィを招来するものが、それを予知する鯰であると同時に、鯰そのものだと信じられているのである」と述べた。
鯰は子どもを通じて危機を知らせることもあれば、人に化けて直接告げることもあり、そのバリエーションは多様である。
地震は世の中の好転への予兆?
日本の災害史研究が専門の歴史学者の北原糸子は、「地震鯰絵」を読み解く中で、共通して見られるのは、「地震とは神の御使、或いは神そのものの大鯰が動くことであり」「(神の)善き計いを世の中の好転への予兆とする」考え方であったという(『安政大地震と民衆』三一書房)。これは「世直し」というよりも、受動的なスタンスの「世直り」といえる。
北原は、「災害という異常事態がもたらした非日常状態」に着目した上で、幕府による救済活動や町人や武家、寺院による施しなどが行われ、「一種の理想郷に近いという状態」が出現したことが背景にあるとする。
もちろん、人が死に火災が町をのみ込む悲劇を少しも消し去りはしないが、「鯰絵における災害=地震は決して禍一色で捉えられてはいず、世直り、万代楽、御代万代、といった言葉に表れているような現実(災害後出現した社会)の謳歌なのである」と。
要するに、災厄の禍の面だけではなく福の面にもスポットを当てた理解の仕方であり、それは神意によって巻き起こる自分たちにはコントロールできない破壊的な事象を、まるで社会変革のための必要悪であるかのような物語として受容することをも意味した。
これは、関東大震災の際に流行した「天譴(てんけん)」という言葉にも当てはまる。
天の怒り、天罰が人間社会に下るという思想だが、評論家の松山巖(いわお)は、「天譴の観念が持ち出されることによって、天災は人間にとって有意味な、しかも積極的な方向に有意味な事実となる」という社会学者の清水幾太郎の言葉を引き、「要するに、天譴という観念を語ることで、震災が生み出したどのような悲惨もバランスがとれてしまう」とその核心を突いている(『うわさの遠近法』講談社学術文庫)。
『私が見た未来 完全版』では、天譴色はほとんどないが、壊滅的な被害の後に「ものすごく輝かしい未来」が約束されているとし、「みんなが助け合い、協力し合って、あらゆるものごとがプラスの方向に進んでいく世界」と断言していることは、まさにこれが「世直り」であること明確に示しているといえるだろう。
つまり、誰が予知をするかは本質的な問題ではない(予知夢はある意味で超越的な何かからの警告のメッセージとも受け取れるが)。災害の予言とは、生き残った者たちを祝福するかのような「世直り」とセットになっているのだ。そこには、解放や高揚、互恵的なコミュニケーションに満ちた時空が永続することへの切なる願いがある。
日本の災害史研究が専門の歴史学者の北原糸子は、「地震鯰絵」を読み解く中で、共通して見られるのは、「地震とは神の御使、或いは神そのものの大鯰が動くことであり」「(神の)善き計いを世の中の好転への予兆とする」考え方であったという(『安政大地震と民衆』三一書房)。これは「世直し」というよりも、受動的なスタンスの「世直り」といえる。
北原は、「災害という異常事態がもたらした非日常状態」に着目した上で、幕府による救済活動や町人や武家、寺院による施しなどが行われ、「一種の理想郷に近いという状態」が出現したことが背景にあるとする。
もちろん、人が死に火災が町をのみ込む悲劇を少しも消し去りはしないが、「鯰絵における災害=地震は決して禍一色で捉えられてはいず、世直り、万代楽、御代万代、といった言葉に表れているような現実(災害後出現した社会)の謳歌なのである」と。
要するに、災厄の禍の面だけではなく福の面にもスポットを当てた理解の仕方であり、それは神意によって巻き起こる自分たちにはコントロールできない破壊的な事象を、まるで社会変革のための必要悪であるかのような物語として受容することをも意味した。
これは、関東大震災の際に流行した「天譴(てんけん)」という言葉にも当てはまる。
天の怒り、天罰が人間社会に下るという思想だが、評論家の松山巖(いわお)は、「天譴の観念が持ち出されることによって、天災は人間にとって有意味な、しかも積極的な方向に有意味な事実となる」という社会学者の清水幾太郎の言葉を引き、「要するに、天譴という観念を語ることで、震災が生み出したどのような悲惨もバランスがとれてしまう」とその核心を突いている(『うわさの遠近法』講談社学術文庫)。
『私が見た未来 完全版』では、天譴色はほとんどないが、壊滅的な被害の後に「ものすごく輝かしい未来」が約束されているとし、「みんなが助け合い、協力し合って、あらゆるものごとがプラスの方向に進んでいく世界」と断言していることは、まさにこれが「世直り」であること明確に示しているといえるだろう。
つまり、誰が予知をするかは本質的な問題ではない(予知夢はある意味で超越的な何かからの警告のメッセージとも受け取れるが)。災害の予言とは、生き残った者たちを祝福するかのような「世直り」とセットになっているのだ。そこには、解放や高揚、互恵的なコミュニケーションに満ちた時空が永続することへの切なる願いがある。
災害という非常事態が人々の意識を目覚めさる
もう一つは、災害学における被災者の意識の変容に基づくものである。歴史家のレベッカ・ソルニットは、災害という非常事態が人々の意識を目覚めさせ、倦怠や無意味な感覚がつきまとう安全と快適さが保障された日常では得られない目的意識や活力をもたらす側面に強い興味を示した。
そして、それを「コミュニティや信仰としての宗教ではなく、一時的なものではない解放を成し遂げるために、直面する状況にもっと上手く適合でき、優雅で寛大な反応ができるようになる。そんな変化を自身に起こす術としての宗教」と評した(『【定本】災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』高月園子訳、亜紀書房)。
続けて、「ほとんどの宗教が信者たちを誰もが直面するのを恐れているものに向き合わせる。死すべき運命、死、病、喪失、不確実性、苦しみ――人生は常にちょっとした災難であるとでもいわんばかりに」と述べ、「宗教は災難への準備――日々の災難をただ生き延びるだけでなく、それを落ち着いて行い、冷静さと利他主義でもって対処させる装置――と見なすことができる」と主張した。
このくだりにおいても、『私が見た未来 完全版』と奇妙に響き合う。「大切なのは、準備すること。災難の後の生き方を考えて、今から準備・行動しておくことの重要さを改めて認識してほしい」と書かれているからだ。
ソルニットのいう宗教は、社会を揺るがすほどの巨大な災害という危機を外部から注入してもらうことで、自らの最良の部分が覚醒させられ、その潜在していた力量がいかんなく発揮され、通常ではあり得ない物事を次々に成し遂げることができる――いわば「災害による自己変革」への期待に支えられていることは間違いない。
もう一つは、災害学における被災者の意識の変容に基づくものである。歴史家のレベッカ・ソルニットは、災害という非常事態が人々の意識を目覚めさせ、倦怠や無意味な感覚がつきまとう安全と快適さが保障された日常では得られない目的意識や活力をもたらす側面に強い興味を示した。
そして、それを「コミュニティや信仰としての宗教ではなく、一時的なものではない解放を成し遂げるために、直面する状況にもっと上手く適合でき、優雅で寛大な反応ができるようになる。そんな変化を自身に起こす術としての宗教」と評した(『【定本】災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』高月園子訳、亜紀書房)。
続けて、「ほとんどの宗教が信者たちを誰もが直面するのを恐れているものに向き合わせる。死すべき運命、死、病、喪失、不確実性、苦しみ――人生は常にちょっとした災難であるとでもいわんばかりに」と述べ、「宗教は災難への準備――日々の災難をただ生き延びるだけでなく、それを落ち着いて行い、冷静さと利他主義でもって対処させる装置――と見なすことができる」と主張した。
このくだりにおいても、『私が見た未来 完全版』と奇妙に響き合う。「大切なのは、準備すること。災難の後の生き方を考えて、今から準備・行動しておくことの重要さを改めて認識してほしい」と書かれているからだ。
ソルニットのいう宗教は、社会を揺るがすほどの巨大な災害という危機を外部から注入してもらうことで、自らの最良の部分が覚醒させられ、その潜在していた力量がいかんなく発揮され、通常ではあり得ない物事を次々に成し遂げることができる――いわば「災害による自己変革」への期待に支えられていることは間違いない。
予言ブームに乗るわたしたちの熱狂と課題
『人生は心の持ち方で変えられる? 〈自己啓発文化〉の深層を解く』(光文社新書)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします
自己啓発文化の視点から捉えれば、それは「自己啓発の手段としての災害」と位置付けることができるだろう。
この圧倒的ともいえる受動性は「世直り」とまったく同じ性質のもので、内部からの契機は一切存在しない。「災害待ち」と言っても過言ではない。
このように見ていくと、予言ブームに乗っかってしまうわたしたちの熱狂の正体が明らかになる。と同時に、それが負っている課題の深淵も浮き彫りになってくる。
なぜ、日々の暮らしにおいて「それ」ができないのか、という率直過ぎる問いがせり上がって来るのだ>(以上「東洋経済」より引用)
「「7月に日本で大災害が起こる」「想定をはるかに超える壊滅的な…」――ネット上を騒がせる"大災害予言"が嘘とも言い切れない理由」と題して、出版界の予言ブームに真鍋 厚( 評論家、著述家)氏が参入している。
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自己啓発文化の視点から捉えれば、それは「自己啓発の手段としての災害」と位置付けることができるだろう。
この圧倒的ともいえる受動性は「世直り」とまったく同じ性質のもので、内部からの契機は一切存在しない。「災害待ち」と言っても過言ではない。
このように見ていくと、予言ブームに乗っかってしまうわたしたちの熱狂の正体が明らかになる。と同時に、それが負っている課題の深淵も浮き彫りになってくる。
なぜ、日々の暮らしにおいて「それ」ができないのか、という率直過ぎる問いがせり上がって来るのだ>(以上「東洋経済」より引用)
「「7月に日本で大災害が起こる」「想定をはるかに超える壊滅的な…」――ネット上を騒がせる"大災害予言"が嘘とも言い切れない理由」と題して、出版界の予言ブームに真鍋 厚( 評論家、著述家)氏が参入している。
未来は「未だ来ず」の世界であって、誰にとっても「未確定」だ。だから予知や予言が持て囃されるのだろう。未来が確実に予言できるなら、災難を避けることが出来るだけでなく、莫大な利益を手にすることだってできるだろう。
しかしテレビではBPO(放送倫理)という規制があって、予言の類を大々的に放送することは世間を惑わす、として禁じられている。しかし、なぜか出版業界のそうした規制はユルユルだ。だから1999年世紀末の人類滅亡を予言した「ノストラダムスの大予言」なる書籍は紙価を高しめた。
だが世紀末に人類は破滅しなかったし、地球も終わりはしなかった。しかしノストラダムスの大予言を支持した評論家マガイの誰も弁明一つしなかった。それほど予言はお気楽な商売だ。
現在、今年7月に日本の何処かで「大災害」が起きる、という予言の書が頻繁に出版された。もちろん確率的に「関東大震災」から100年も経過しているから、従来の東京直下型の大震災が起きても不思議ではない。南海トラフ大震災も前回の昭和南海地震が1946年12月21日に発生したから既に80年近く経っている。いずれも確率的にいつ起きても不思議ではない。
また富士山の噴火は約5600年前まで遡ると約180回発生しており、平均で30年に1回程度と高い頻度で起きている。しかし直近の大噴火は約300年前の宝永噴火(1707年)てせ、以降は大噴火していない。 だから富士山がいつ大噴火しても不思議ではない、と専門家は噴火の危険性を喚起している。
つい先日鹿児島で桜島の噴火活動が活発化し、それに連動して阿蘇山も活発化するのではないかと見られている。ことほど左様に、日本は地震に噴火と災害大国だ。いつ何があっても不思議ではない国土に私たちは暮らしているし、数々の大災害を乗り越えて、日本国民はこの国土で旧石器時代から悠久の歴史を刻んできた。世界史的な観点からみても、日本列島の文明史は世界各地の文明発祥に勝るとも劣らない一万数千年もの歴史が確認されている。
自然に天変地異は付き物だ。それが短い生涯のうちに起きるか否かは運命というべきだ。地球温暖化にしても数万年というサイクルで見れば、すべての地球表面の氷河が消える間氷期と地球の大半が氷河で覆われる氷河期とを繰り返している。現在の温度計の誤差でしかない数℃の気温変化でCO2削減を叫んでいる人たちは地球環境の揺れ幅を知らない大袈裟な騒動でしかない。そして今年7月の天変地異を予言している者は、地球が人類に与えて来た数々の自然災害の歴史を知らない者の譫言でしかない。