盛り上がる「財務省解体デモ」と、それを一切報道しないオールドメディアの乖離は何か。

<財務省解体デモが盛り上がっている。大手メディアはほとんど報じないが、報じないことすらも財務省権力の強力さの証拠であると解釈されることにより、デモはますます熱気をあげる結果となっている。

 さて、今回論じたいのは、この状況を傍観する人々の態度についてである。知的水準が高いと自認する人間であればあるほど、多くの人々が熱狂している状況を一度冷ややかな目線で観察してみたいという欲望に抗うのは難しい。ついつい「財務省解体だって? そんな簡単なことでお前たちの生活がどうにかなるわけがない。世の中はそんなに単純ではないのだよ・・・」とシニカルな態度で斜に構えたくなるのだ。
 なるほど、財務省悪玉論はいささか陰謀論じみている。「財務官僚は増税すれば出世できるから、財務官僚は増税のために躍起になり、その結果、不況時にも増税するといった経済学のセオリーに反する悪政を政治家が強いられている」だとか「国税庁が財務省管轄にあることによって、財務省に批判的な政治家は税務調査で罪をでっち上げられ潰される」といった主張は、Qアノンやフリーメイソンの陰謀で世界が支配されているといった主張と同じように見える。
 もちろん、実際のところ、どこまで財務省悪玉論が正しいかはわからない。財務省解体を訴える人々の願い通り、財務省と歳入庁を切り離すことに成功したとして、その後、「財務省さん・・・あなたはもう用済みです」と、拍手をしながら真のラスボスが登場する可能性だってあるわけだ(そっちの方が陰謀論じみているのだけれど・・・)。
 とはいえ、陰謀論がバカっぽく見えることは陰謀が存在しないことを意味しないことも、僕たちは弁えるべきであろう。とくに、財務省解体論は、財務省というシステムに向けられた批判であることは念頭に置いておいて損はない。あらゆる悪は特定の個人の強欲に引き起こされているのではなく、システムによって生み出されると考えることが、反陰謀論的な態度である。もし「財務一族の○○がすべてを支配している」といった主張なのであれば、それは現実味のない陰謀論である可能性が高いが、財務省というシステムによって悪が為されていると考えるのは、植民地政策というシステムが戦争という悪を引き起こしたと考えることに近いのではないか?
 それはシステムの不具合を取り除こうとする、理性的な判断である可能性も十分に存在するのではないか? おそらく、財務省批判者の大半は、財務官僚が休日には良き父親であり、良き友人であることを積極的に認めるだろう。そうではなく、善良であったはずの官僚たちが悪なるシステムによって行為させられた結果、国民の生活が破壊されているのだと言うだろう。だから「悪なるシステムである財務省を解体しよう」と彼らは主張するのだ(財務官僚をバイキンマンかなにかだと主張する過激派も一定数はいるだろうが、多数派ではないと信じたい)。ともすると、財務省批判を陰謀論であると一蹴するのは、知的に誠実な態度であるとは言い難い。
 多数派が間違える可能性があるのと同様に、多数派が良識的な判断をする可能性もある。このことに疑いの余地はない。僕たちは過去数十年において社会全体が上手くいかない状況に慣れ過ぎて、多数派がやることなすことバカの所業であると考える癖がついてしまった。同時に、多数派を斜に構えて見下す態度が結果的に正しかったという実例が、この社会にはあまりにも積みあがってしまっている。俺は分かっている側だという選民思想に染まっているホリエモンや成田祐輔の周りの人々が、そのセオリーに則って論陣を張りたくなるのも頷ける。
 しかし、繰り返すがその態度が正しいとは限らない。もっとフラットに、事態を冷静に観察してみてもいいのではないか。
(余談:もっとも、思想の対立の根源にあるのは、税財源論を巡るものであろう。「税は財源ではないから減税し、積極的に財政出動すべきだ」と主張する人たちが財務省を批判し、「税は財源だから減税すべきではないし、財政出動すべきではない」と考える人たちが財務省批判を批判している。その思想的な対立を背景として、我々は良識的に斜に構えているのだと財務省批判の批判者は主張するだろう。ともかく、一旦、税を財源と解釈するかしないかは脇に置いた方がいい(税が財源ではないと考える方が妥当であるように思われるものの、多少無理をすれば税が財源であると解釈することも可能ではある)。すると、究極的には「国債発行をどの程度許容すべきか?」とか「財政出動を行う際の指針はどのようなものにすべきか?」という議論へと必然的に収束していくことに、両陣営は同意せざるを得ないだろう。やるべきはそのような生産的な議論なのだが、そうした議論が巻き起こっているとは到底言い難く、両陣営は相手をカルトだと罵り合うことに終始している状況にある。このような状況を続けることの方が、僕はカルトじみていると思う。)
 話が逸れたが、そんなこんなで僕は今週土曜日に大阪近畿財務省前で14時~17時に行われるらしき財務省解体デモに参加してみようと思う。ぶっちゃけて言えば僕は財務省が解体されるかどうかにはさほど興味はないのだが、ともかく黙って金刷って配って欲しいと思っている。こんな本を書くくらいに。
 なので、そっちの方面で少しばかり声をあげてみたい。そもそも僕は労働廃絶が可能であるとかなんとか言って出版社を立ち上げた男である。バカだと思われるのにはもう慣れている>(以上「まとも書房」より引用)




「財務省批判」を批判する人たちへ」との見出しで久保一真(まとも書房代表/哲学者)氏が書いていたので引用した。もっと「記事風の記事はないのか」とネットの中を探したが、オールドメディアは軒並み「財務省解体デモ」を取り上げていない。これほどど財務省解体デモが永田町で盛り上がっていても、オールドメディアが取り上げないため地方在住者にとって「あーソウナノ」と云った程度にしかわからない。
 しかしどうやら回数を重ねるほど盛り上がりを見せているようだ。「まとも書房」が財務省解体デモを取り上げたので、それにかこつけて財務省解体デモに言及する。

 引用した論評を一読すると「まとも書房」はあまり「まとも」とは云えない。なぜなら「財務省批判者の大半は、財務官僚が休日には良き父親であり、良き友人であることを積極的に認めるだろう。そうではなく、善良であったはずの官僚たちが悪なるシステムによって行為させられた結果、国民の生活が破壊されているのだと言うだろう。だから「悪なるシステムである財務省を解体しよう」と彼らは主張するのだ(財務官僚をバイキンマンかなにかだと主張する過激派も一定数はいるだろうが、多数派ではないと信じたい)」という個所が気になったからだ。
 「財務官僚が休日には良き父親であり、良き友人であることを積極的に認めるだろう」という個所は問題だ。ヒトラーだって休日には愛人にとって良き人であり、子供たちにとって良き父親だったはずだ。しかし問題にすべきは彼が役目として何をしたかだ。財務官僚の休日の過ごし方がどうであろうと関係ない。彼が財務官僚としていかなる政策実行すべきか政治家を使嗾し、多くの国会議員を動かして国民からどれほど富を搾り取り使ったかが問題なのだ。

 「まとも書房」の最大の問題点は「「税は財源ではないから減税し、積極的に財政出動すべきだ」と主張する人たちが財務省を批判し、「税は財源だから減税すべきではないし、財政出動すべきではない」と考える人たちが財務省批判を批判している。その思想的な対立を背景として、我々は良識的に斜に構えているのだと財務省批判の批判者は主張するだろう。ともかく、一旦、税を財源と解釈するかしないかは脇に置いた方がいい(税が財源ではないと考える方が妥当であるように思われるものの、多少無理をすれば税が財源であると解釈することも可能ではある)。すると、究極的には「国債発行をどの程度許容すべきか?」とか「財政出動を行う際の指針はどのようなものにすべきか?」という議論へと必然的に収束していくことに、両陣営は同意せざるを得ないだろう。やるべきはそのような生産的な議論なのだが、そうした議論が巻き起こっているとは到底言い難く、両陣営は相手をカルトだと罵り合うことに終始している状況にある。このような状況を続けることの方が、僕はカルトじみていると思う。)」といった論理が未整備のまま総論を論じて好い人を演じることだ。
 税は経済政策の一環だ、というのは何も目新しい現代の論理ではない。税は経済政策の一つの選択肢でしかない、というのは仁徳天皇も知っていたし、織田信長も知っていたからこそ「楽市、楽座」により城下町を賑やかな商業都市に仕立て上げた。もちろんそれは現代でも通用する考え方で、インフレが進行している時には可処分所得を奪う税政策を実施すべき(つまり消費税などを行うべき)で、デフレ期には可処分所得を増やして需要を喚起する税制策を実施(つまり消費税などを停止、もしくは廃止する)政策を実施すべきというのは現代経済学でも実証されている論理だ。なにもホリエモンなどのインフルエンサーたちがポピュリズムで発言している戯言ではない。

 さらに云えば「まとも書房」のチャランポランさには怒りすら覚える。「そんなこんなで僕は今週土曜日に大阪近畿財務省前で14時~17時に行われるらしき財務省解体デモに参加してみようと思う。ぶっちゃけて言えば僕は財務省が解体されるかどうかにはさほど興味はないのだが、ともかく黙って金刷って配って欲しいと思っている。」という野次馬根性さながらのいい加減さで財務省解体デモに参加して欲しくない。
 裏金問題で明らかなように、財務省が裏金議員の無申告所得に対して税務調査すらしないあり方に多くの国民は怒り心頭に達している。穿った見方かも知れないが、財務省はその傘下の国税庁の調査部に「裏金議員の所得調査」をしないように止めている可能性が高い。その代わり、政治家に対しては財務省が進める税改正等(増税と負担増)に賛成するように持ち掛けている、としか思えない。だから志のある人たちが立ち上がり財務省解体デモに参加して、財務省を予算編成権と国税庁を分離し、国税庁を社会保険庁と合体させて「歳入庁」にすれば全国各地の税務署と社会保険事務所を統合整理して合理化できると云う運動を展開しているのだ。「ぶっちゃけて言えば僕は財務省が解体されるかどうかにはさほど興味はないのだが、ともかく黙って金刷って配って欲しいと思っている」という姿勢は少なくともマジメとは云えない。

 「まとも書房」はマジメでもなければマトモでもないが、財務省解体デモに関して論評を掲げたことには感謝する。なぜなら一人でも多くの国民が財務省解体デモに少しでも関心を持って頂き、今夏に予定されている参議院選挙に向けて政治的関心度が高まることを期待するからだ。選挙への関心度が高まれば投票率が上がり、組織票ではない国民個々人の望む政治家が当選する可能性が高まるからだ。
 政治は変わらなければならない。「失われた30年」がいかに国家を衰退させ、国民を貧困化させたか。その元凶が政治にあるとするなら、現行の政治を転換するしかない。これまでの政治が「構造改革」を基軸としてグローバル化と「緊縮、増税」路線であったとするなら、その逆張りに転換すべきだ。つまり反グローバル化と「積極、減税」政策への転換だ。そうしたら財源がないのではないか、との反論が聞こえるが、財源は経済成長だ。経済成長すれば経済規模が大きくなり(世界各国は「失われた30ねん」の間に平均で約3倍の経済規模になっている)、経済規模が三倍になれば国債残は実質的に1/3になる。国債は税収で償還すべきものではなく、経済成長でバランスシート上での資産・負債のバランスを取るべきものだ。税収を増やさなければ国家財政は破綻する、という財務省の脅し文句は古色蒼然たる妄言でしかない。盛り上がる「財務省解体デモ」と、それを一切報道しないオールドメディアの乖離は何か。おそらくオールドメディアも財務省と国税庁から脅されているのだろう。

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