「主権在民」のために国民は常に自らの頭で考え、連帯しなければならない。
<高須クリニックの高須克弥院長(73)が25日、ツイッターを更新。沖縄の米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に関し、工事中止の嘆願書への署名を呼びかけたモデルのローラ(28)について言及した。
ローラの発言を巡ってはSNSを中心に賛否両論が起こっている。23日放送のTBS系「サンデー・ジャポン」でもこの問題が取り上げられ、芸能人の間で激論が交わされた。
ローラが移設反対に代わる代案を出していないことから混乱に拍車をかけている現状があり、説明不足を指摘する声もあった。一方、テリー伊藤(68)は「この程度の発言で、コマーシャル降ろす会社って何なの?」と“騒ぎ過ぎ”との認識を示した。
高須院長はテリーの発言を引用し「テリーさんのおっしゃる通りスポンサーの自由です。僕なら降ろします」と即答。芸能人としてのローラの投稿、コメント内容を疑問視していることをにおわせた。
ローラはインスタグラムを頻繁に更新しているものの、あれから辺野古については言及していない。クリスマスは米国で滞在を楽しむ様子を報告している>(以上「Livedoor」より引用)
ローラの辺野古移設反対署名運動を批判して、高須院長は「(ローラを起用するかどうかは)スポンサーの自由です。僕なら降ろします」と言ったという。それがスポンサーの自由、ということなのだろうか。
むしろ言論への弾圧というべきではないだろうか。スポンサーが大きな顔をしてマスメディアを支配する、という現在の体制そのものの大きな欠陥を露呈したというべき重大事ではないだろうか。
なぜ米国の1%が世界を支配できるのか。それはマスメディアを支配しているからだ。日本を占領した連合国司令部・GHQが最初に手を付けたのは報道機関の検閲だった。いや日本占領したGHQだけの統治手法ではない。地域を占領した軍事政権が真っ先に行うのは報道管制だ。
日本のマスメディアはGHQの発行禁止や著者の追放などの措置を恐れて「自主検閲」を行うようになった。それが未だに続いているし、権力者によるマスメディア支配は独立を果たし民主化して久しい現在でも「伝統」となって受け継がれている。
その伝統をして高須院長に愚かな発言をなさしめているのだろう。ローラをCMに起用しているスポンサーに「暗に」圧力をかけているとしたら由々しき事態だ。
米国の1%が世界を支配しているのはマスメディアを支配しているからだ。米国のマスメディアも米国の1%による支配から免れてはいない。そこを指摘してトランプ氏が米国のマスメディアに「フェイク・ニュース」だと批判している。
スポンサーにマスメディアを自由に支配する権限があるとすれば、憲法に明記された「報道の自由」はあり得ないことになる。それはスポンサーによるマスメディアへの介入ということになる。
スポンサーにタレントの首を挿げ替える「自由」があるとするなら、国民にはそのスポンサーをボイコットする自由がある。国民は支配する者に対して連帯するしか対抗手段がないことを自覚すべきだ。
国民が国民の権利を手の中から手放さず、日本の「主権在民」を確立し続けるためには連帯して憲法に明記された権利を主張しなければならない。権利の上に眠る者は保護されない、という「消滅時効」の法理念を忘れてはならない。
安倍氏がマスメディア関係者と会食するのを傍観している国民の方にこそ問題がある。なぜ連携して安倍氏と会食したマスメディア関係者を厳しく批判し「恥を知れ」と罵声を浴びせないのだろうか。
民主主義国で民主主義を実現するためには治世者に「主権在民」の憲法規定を常に意識させなければならない。「主権在民」を指す「国民は~」という言葉を、国会審議で野党が質問する際の「枕詞」に使い古しているだけではいけない。
国民が「主権在民だ」と政治家に連帯して迫らなければならない。誰のための国家なのか。誰のための税制なのか。誰のための政治権力なのか、という民主主義の根源的な問い掛けを自らに問う姿勢を忘れては「権利の上に眠る者」ということになる。つまり権利が時効となって消え失せる、ということになりかねない。
そして高須院長のような傍弱無人が現れて大きな顔をしだす。カネを持っている者が世界を支配する、と大いなる勘違いに陥って恥じない。
そうした成り上がりの大バカ者の目を覚まさせるには国民が連帯するしか対抗手段はない。少数が大衆を支配する有効な手法はマスメディアを支配し、大衆を分断することだ。それが古今東西の人類史上の真理だ。
マスメディアが意図してか否かは分からないが、二項対立的な表現を多用する背景に、そうした大衆の分断策が大きく影を落としていないともいえないだろう。たとえば「老年」対「若者」、「富者」対「貧者」、「都会」対「田舎」といった具合にだ。
そうした手法から、例えば年金問題を解説してみせる。「一人の老人を二人の若者で支える」といった言葉で世代間対立を煽る。実際は老人もかつては若者として年金掛け金を支払って来たし、現在の若者もやがて年老いて年金受給者になる。つまり世代間対立としてとらえるのではなく、国民全体の問題として年金問題を検討すべきなのを、たとえば三つも存在する年金制度の一元化という論点に議論が向かわないように、世代間対立に議論を持ち込む方が有利な連中がマスメディアに世代間対立の文言を投げかけ、独創的な思考回路の欠如した愚かな解説者たちがその言葉に飛びつく、といった構図だ。
もちろん世代間対立の構図に国民を陥れたいのは最も有利な、平均年金月額30万円の共済年金を手にしている官僚・公務員たちだ。一元化できない理由は「年金制度の歴史が異なるから」というチンケな愚にもつかない理屈で言い逃れている。
つまり世論形成とはその程度のマスメディア操作によってなされている、という現実を知るべきだ。奇しくも高須院長が世論形成の舞台裏を「スポンサーをやめる」という言葉でカーテンを剥ぐって見せてくれた。それに対抗するのは国民の連帯しかない。そのことをこのブログで国民大衆に私は訴える。