集団的自衛権の行使は憲法改正により、キチンと書き込んで後のことだ。

 立憲主義に悖ることをやってはならない。国会で集団滝自衛権の閣議決定に関する集中審議をやっているが、そうした安倍氏の妄想のような「限定的」の定義を問い質しても仕方ない。なぜなら憲法改正ですら勝手に閣議決定による「解釈改憲」で済ましてしまう傲慢不遜にして野放図な男なのだから。
 憲法を勝手に解釈して第九条の規定を有する憲法と180°異なる憲法に変貌させてテンとして恥じない精神構造は当時最先端の平和憲法と謳われたワイマール憲法を民主主義により破棄したヒトラーに酷似している。国会議員の数さえあれば何をやっても許される、というのは立憲主義に裏打ちされた民主主義ではない。それは衆愚政治と呼ぶべきものだ。

 集団的自衛権は独立国家として当然認められるべきものだ。しかしそれは領海内とそれに接続する近海で、という条件付きでなければならない。遠く地球の裏側まで出かけて行って、ドンパチ戦争をやるのは米国の国家思想となんら変わらない。
 米国の国家としての理屈でいえば世界正義のためなら場所を厭わず戦争に赴く、というのだろうが、キリスト教的な正義が必ずしも普遍的な正義とは言い難い。たとえばテロを許さない、と宣言してイスラム原理主義者たちを殺害しに他国へ勝手に軍隊を派遣して原理主義指導者を殺害するのは同様に米国を悪しき悪魔の国と認識する人たちによるテロを誘発することに他ならない。日本がそうした終わりなき宗教戦争にお付き合いしなければならない理由はどこにもない。

 世界へ日本が軍隊を派遣するのはあくまでも国連主義に依るべきだ。戦争大好き米国の意図によって日本の軍を世界へ派遣すべきではない。日本は米国と利益を多くの部分で共有するが、日本国民の大部分は生まれながらの仏教徒だ。血塗られた経典を片手に持って刀を振り上げる指導者を、たとえ報復攻撃であれ日本国民は受け入れない。
 日本は米国とは異なる。米国の行動原理をそのまま日本の行動原理として受け容れるのには無理がある。安倍氏はシーレーンの確保が日本の生命線だ、と繰り返し答弁していたが、国際問題に関しては国連で決議し、その決議に基づいて日本は行動すべきだ。多国籍軍に参加するのも日本は憲法で厳しく制限すべきだ。日本の若者を米国の戦争の先兵にしてはならない。

 日本は独立国家として、日本の首都圏に展開している米軍に撤退して頂き、日本の軍隊で防衛すべきだ。現状の他国軍に首都圏が取り囲まれている状態が果たして独立国家と呼べるのか、日本国民は現状を冷静に検証すべきだ。国会での議論も首都圏を制圧している米軍を意識していないとしても、無意識のうちに国会審議に大きな影を落としていることを知らなければならない。
 半ば米国により占領されている国家の首相として安倍氏の思考は存在している。米国抜きに日本の外交戦略が考えられないのは米国の思惑そのものだ。『何処までもついて行きます下駄の雪』状態のままで、一内閣による閣議決定により解釈改憲するのは危険だ。あくまでも国民全体による憲法改正議論の中で、日本の在り方を過去から現在、そして未来へと思惟を拡げて俯瞰して憲法を議論すべきだ。

 限定的な戦争から世界大戦が始まったことを忘れてはならない。自国民の幸福のためと叫びながら、自国民を不幸のどん底に突き落とすのが戦争だ。それでも他国による侵略に対しては敢然と戦わなければならない。そのための武力と相手国を叩くべき攻撃戦力を保持するのは当然のことだ。
 もちろん、自国防衛のために集団的自衛権が行使できるのも議論を俟たない。しかし地球の裏側へ屁理屈で出かけて行ってドンパチしてはならない。その場合は国連決議に基づくべきだ。日本の都合だけで友軍支援に赴くような憲法を『解釈』によろうと『国民投票』によろうと定めてはならない。それはシベリア派兵と同様で、戦前へ逆戻りすることに他ならない。

 国会は何の権限があって集団的自衛権容認の閣議決定を議論しているのだろうか。憲法改正議論は何であれ最高裁権限だ。それが立憲主義のはずだが、この国の最高裁は行政府の下請け機関に成り下がり、最高裁判事たちは首相のポチに成り果てているのだろうか。それなら国民が解釈改憲は「ノー」だと選挙で安倍氏に突きつけるしかないだろう。


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