既存マスメディアの劣化は記者たちの取材力の劣化だ。
<11月の兵庫県知事選挙で、斎藤元彦知事が再選され、かれは一転して「パワハラ知事」「おねだり知事」から「ヒーロー」になってしまった。
斎藤知事を批判していたテレビや新聞・週刊誌などは「オールドメディア」と貶められ、信頼性を失った。
とくに真実などそっちのけで、ここはわれわれの腕の見せ所だといわんばかりに、斎藤知事の「パワハラ」ぶり「おねだり」ぶりを、連日おもしろおかしく報じたテレビのワイドショーの低劣さは、叩かれた。
ところが、知事選が終わってから1か月、今度は当選した斎藤知事の選挙運動に協力したという代理店の女性社長の行為が、選挙違反にあたるのではないかという話題でもちきりになった。
その後も、N党の立花孝志氏が、自殺した兵庫県の元県民局長の公用PCの中身を公表し、その真偽を巡って紛糾している。
新聞・テレビなどを一括して、「オールドメディア」として断罪するのは大雑把すぎる。信頼性の失墜は、新聞・テレビという器の問題ではなく、そこで働いている人間の問題だからだ。
「オールドメディア」の末端には、「記者」や「ジャーナリスト」と称する連中が存在している。かれらが「テレビだぞ、新聞だぞ」となんでもできる力を手にいれたかのように錯覚し、「取材してやってるんだ」と驕り、調子に乗る。
とくにテレビは、ニュース番組でも視聴率を取ろうと必死である。人気のある人物や話題の人物に関するマスコミの取材合戦は過熱する。非常識な連中も出てくる。
「信頼性が失墜したのは「オールドメディア」という器ではない、そこにいる人間の問題だ」とは極めて当たり前の見出しだが、勢古 浩爾(評論家、エッセイスト)氏は当たり前の題を冠しなければならないほど既存マスメディアは権威が失墜していると思っている。
斎藤知事を批判していたテレビや新聞・週刊誌などは「オールドメディア」と貶められ、信頼性を失った。
とくに真実などそっちのけで、ここはわれわれの腕の見せ所だといわんばかりに、斎藤知事の「パワハラ」ぶり「おねだり」ぶりを、連日おもしろおかしく報じたテレビのワイドショーの低劣さは、叩かれた。
ところが、知事選が終わってから1か月、今度は当選した斎藤知事の選挙運動に協力したという代理店の女性社長の行為が、選挙違反にあたるのではないかという話題でもちきりになった。
その後も、N党の立花孝志氏が、自殺した兵庫県の元県民局長の公用PCの中身を公表し、その真偽を巡って紛糾している。
新聞・テレビなどを一括して、「オールドメディア」として断罪するのは大雑把すぎる。信頼性の失墜は、新聞・テレビという器の問題ではなく、そこで働いている人間の問題だからだ。
「オールドメディア」の末端には、「記者」や「ジャーナリスト」と称する連中が存在している。かれらが「テレビだぞ、新聞だぞ」となんでもできる力を手にいれたかのように錯覚し、「取材してやってるんだ」と驕り、調子に乗る。
とくにテレビは、ニュース番組でも視聴率を取ろうと必死である。人気のある人物や話題の人物に関するマスコミの取材合戦は過熱する。非常識な連中も出てくる。
中田英寿はスポーツ記者を面罵した
そのことでわたしが思い出すのは、もう四半世紀前の中田英寿の発言である。
1998年のサッカーW杯フランス大会で世界に認められた中田は、イタリアのペルージャに移籍した。21歳だった。
膨大な数の報道陣がペルージャに殺到した。同チームの選手たちに迷惑をかけても意に介さないような傍若無人な取材ぶりが伝わってきた。
そんななか、練習後の囲み取材のときだったか、中田がある記者に向かって「うじ虫」と面罵したのだ。のちのインタビューでそのときの真意を訊かれた中田は、「そのまんまの意味」といい、「いまでも悪いとは思っていない」と語った。
わたしはこの発言を当時、スポーツニュースかなにかで、実際に見ている(さすがのYouTubeにもその映像はなかった)。
「おー、いったねえ、なにがあったんだ?」と、思った。あの冷静で静かな中田にこうまでいわせたのだから、よほど腹に据えかねたことがあったのだろう、と想像したが、なにがあったのかはわからない。
中田自身も「そのまんまの意味」とはいっても、中身を明かしたことはなかったのではないか。
しかしあれから26年たった現在でも、マスコミの一部の「記者」の体質はまったく変わっていない。
一記者の問題ではない。その上司を含んだ、チーム全体の体質が問題なのだ。
フジテレビの記者(じつは系列局の人間だという)が大谷翔平のロサンジェルスの新居の敷地内を盗み撮りしたり、近隣住民にインタビューをしたりして、報じた。自分たちの「スクープ」だと得意満面だったのだろう。
その結果、大谷はその新居に引っ越しをしないまま、売却を余儀なくされたという。
ドジャースがワールドシリーズで優勝したとき、フジテレビは元巨人選手の元木大介に、大谷のインタビューをさせようとしたが、大谷は嫌悪の表情をあらわにして無視している。
そのことでわたしが思い出すのは、もう四半世紀前の中田英寿の発言である。
1998年のサッカーW杯フランス大会で世界に認められた中田は、イタリアのペルージャに移籍した。21歳だった。
膨大な数の報道陣がペルージャに殺到した。同チームの選手たちに迷惑をかけても意に介さないような傍若無人な取材ぶりが伝わってきた。
そんななか、練習後の囲み取材のときだったか、中田がある記者に向かって「うじ虫」と面罵したのだ。のちのインタビューでそのときの真意を訊かれた中田は、「そのまんまの意味」といい、「いまでも悪いとは思っていない」と語った。
わたしはこの発言を当時、スポーツニュースかなにかで、実際に見ている(さすがのYouTubeにもその映像はなかった)。
「おー、いったねえ、なにがあったんだ?」と、思った。あの冷静で静かな中田にこうまでいわせたのだから、よほど腹に据えかねたことがあったのだろう、と想像したが、なにがあったのかはわからない。
中田自身も「そのまんまの意味」とはいっても、中身を明かしたことはなかったのではないか。
しかしあれから26年たった現在でも、マスコミの一部の「記者」の体質はまったく変わっていない。
一記者の問題ではない。その上司を含んだ、チーム全体の体質が問題なのだ。
フジテレビの記者(じつは系列局の人間だという)が大谷翔平のロサンジェルスの新居の敷地内を盗み撮りしたり、近隣住民にインタビューをしたりして、報じた。自分たちの「スクープ」だと得意満面だったのだろう。
その結果、大谷はその新居に引っ越しをしないまま、売却を余儀なくされたという。
ドジャースがワールドシリーズで優勝したとき、フジテレビは元巨人選手の元木大介に、大谷のインタビューをさせようとしたが、大谷は嫌悪の表情をあらわにして無視している。
「俺をだれだと思ってるんだ」
記者たちの傲慢と横暴があらわになった事件を、もうひとつ記しておく。
2013年7月、橋下徹大阪市長が街頭演説をしているとき、街宣車の横にまで入り込んできた中年男がいたため、スタッフが警備上、立ち入らないように注意をすると、男はこう凄んだという。
「俺は安倍首相のときはもっと近くに行ったんだ。俺をだれだと思ってるんだ。朝日新聞の政治部の記者だぞ」
この滑稽な男は当時、朝日新聞京都総局に実在した。ほんとうにいるんだ、吉本新喜劇の芝居に出てくる池乃メダカみたいな男が。
ところがビデオカメラを向けると、この男は一転して「ものすごい丁寧な対応になった」という。どこまで新喜劇なのだ(「俺を誰様だと思ってる、朝日新聞の政治部の記者だぞ」 橋下市長が実名上げた記者はこんな発言したのか、J-CASTニュース、2013.07.22)。
テレビや新聞などの「報道」に携わる者は、自分たちは「記者」であり「ジャーナリスト」だとの自負があるだろう。
仕事は「取材」や「インタビュー」を通して、「ニュース」を作ることである。取材先は警察、検察、政治家であり、怖いものはない(暴力団は別)。
なにしろ自分たちは「真実」を追究し、人々の「知る権利」や「言論の自由」を守る重要な仕事をしているのだから。世間からもそう評価されている。
なかには特権意識が嵩じて無頼を気取るものや、どんな非常識も許されると勘違いしているものも出てくる。
記者たちの傲慢と横暴があらわになった事件を、もうひとつ記しておく。
2013年7月、橋下徹大阪市長が街頭演説をしているとき、街宣車の横にまで入り込んできた中年男がいたため、スタッフが警備上、立ち入らないように注意をすると、男はこう凄んだという。
「俺は安倍首相のときはもっと近くに行ったんだ。俺をだれだと思ってるんだ。朝日新聞の政治部の記者だぞ」
この滑稽な男は当時、朝日新聞京都総局に実在した。ほんとうにいるんだ、吉本新喜劇の芝居に出てくる池乃メダカみたいな男が。
ところがビデオカメラを向けると、この男は一転して「ものすごい丁寧な対応になった」という。どこまで新喜劇なのだ(「俺を誰様だと思ってる、朝日新聞の政治部の記者だぞ」 橋下市長が実名上げた記者はこんな発言したのか、J-CASTニュース、2013.07.22)。
テレビや新聞などの「報道」に携わる者は、自分たちは「記者」であり「ジャーナリスト」だとの自負があるだろう。
仕事は「取材」や「インタビュー」を通して、「ニュース」を作ることである。取材先は警察、検察、政治家であり、怖いものはない(暴力団は別)。
なにしろ自分たちは「真実」を追究し、人々の「知る権利」や「言論の自由」を守る重要な仕事をしているのだから。世間からもそう評価されている。
なかには特権意識が嵩じて無頼を気取るものや、どんな非常識も許されると勘違いしているものも出てくる。
メディアの新旧の問題ではない
テレビは、もうあたりまえのように、「このあと最新のニュースをお伝えします」という。新聞社は当然のごとく毎日、新聞を発行している。
だが、だれが頼んだわけでもないのである。報道機関は「勝手に報道する自由」でやっているだけである。
江戸時代の瓦版とおなじで、「てやんでぇ、てやんでぇ、事件だよ」と勝手にやっているだけだ。火事や事件や事故があれば、現場に駆け付ける。他社に負けないように。
そこで「取材」とやらをする。しかし実際にやっていることは、火事場や事件・事故現場に集まるただの「野次馬」や「覗き見」と変わらない(そして、それを見るわたしたち視聴者も「野次馬」や「覗き見」になる)。
「記者」だ、「報道」だ、「言論の自由」だという。しかし、そんな立派なお題目を取っ払ってみれば、「記者」といっても、もしくは「デスク」や「ディレクター」といっても、欲も見栄も人一倍ある、ただの男であり女にすぎない。
だから、問題は「オールドメディア」か「ニューメディア」かの問題ではない。どちらも玉石混交で、欲や見栄が動機である点ではおなじである。
問題は、「メディア」以前の、かれらが作っている「ニュース」自体の存続の意義である。
わたしは、以前この欄でも書いたが、ただ不快になるだけのニュースは見ない。まるっきり無意味なニュースも見ない。
※関連記事 世間に疲れたら「人断ち」「情報断ち」してはどうか―情報が入りすぎると心が動かなくなる
テレビは、もうあたりまえのように、「このあと最新のニュースをお伝えします」という。新聞社は当然のごとく毎日、新聞を発行している。
だが、だれが頼んだわけでもないのである。報道機関は「勝手に報道する自由」でやっているだけである。
江戸時代の瓦版とおなじで、「てやんでぇ、てやんでぇ、事件だよ」と勝手にやっているだけだ。火事や事件や事故があれば、現場に駆け付ける。他社に負けないように。
そこで「取材」とやらをする。しかし実際にやっていることは、火事場や事件・事故現場に集まるただの「野次馬」や「覗き見」と変わらない(そして、それを見るわたしたち視聴者も「野次馬」や「覗き見」になる)。
「記者」だ、「報道」だ、「言論の自由」だという。しかし、そんな立派なお題目を取っ払ってみれば、「記者」といっても、もしくは「デスク」や「ディレクター」といっても、欲も見栄も人一倍ある、ただの男であり女にすぎない。
だから、問題は「オールドメディア」か「ニューメディア」かの問題ではない。どちらも玉石混交で、欲や見栄が動機である点ではおなじである。
問題は、「メディア」以前の、かれらが作っている「ニュース」自体の存続の意義である。
わたしは、以前この欄でも書いたが、ただ不快になるだけのニュースは見ない。まるっきり無意味なニュースも見ない。
※関連記事 世間に疲れたら「人断ち」「情報断ち」してはどうか―情報が入りすぎると心が動かなくなる
「ニュースは基本的に何の役にも立たない」
新聞やテレビで流されるニュースの9割は不要であると思っている。
ロルフ・ドベリという実業家兼評論家のスイス人は、いまから14年前、2010年から完全なニュース断ちをしている。新聞はすべて購読を止め、テレビも捨てた。
ドベリはそのとき44歳だったが、それまでのドベリはニュース中毒だった。あらゆるニュースを読んだ。そのことで、「知識」がつき、「世界との一体感」を味わい、世界を「見通す力」を獲得したと思った。
そんな人間だったドベリが、いまはこう書いている。
「あなたの人生における重要なこととニュースには、なんの関連もない。ニュースは楽しめる場合もあるが、基本的には何の役にも立たない。だがそれを認めることへの心理的な抵抗の大きさから、この事実を受け入れられない人は多い」(『News Diet 情報があふれる世界でよりよく生きる方法』サンマーク出版、2021)
これにわたしは完全に同意する。わたしがニュースの9割は不要だ、というのはこの理由からである。
マスメディアに対するネットの優位性があるとすれば、それはこういう番組にある。
12月6日21時から1時間にわたって配信された「高橋洋一チャンネル特別ライブ 話題の男・玉木雄一郎氏に訊く」はじつに見ごたえがあった。
こんな議論は地上波では絶対にできない。
財務省に楯突けない大新聞もできない。
石破総理は「103万円の壁」減税を党税調に丸投げしている。しかし税調はまるっきりやる気がなく、減税は再来年、と寝ぼけたことをいっている。
そこで高橋洋一は、税調の宮沢・後藤は古川元久にまかせて、玉木には、国会で石破総理と加藤勝信財務大臣相手に議論をしかけよ、と焚きつけているのだ。
すなわち石破を乗せて、来年3月の確定申告に間に合うよう、「石破減税でも玉木減税」でもいいから、ぜひ国会でやってほしい、と玉木に発破をかけたのである。
玉木は「やりましょう」「がんばりますわ」といっていたが、いささか頼りないような気がする。大丈夫か>(以上「JB press」より引用)
新聞やテレビで流されるニュースの9割は不要であると思っている。
ロルフ・ドベリという実業家兼評論家のスイス人は、いまから14年前、2010年から完全なニュース断ちをしている。新聞はすべて購読を止め、テレビも捨てた。
ドベリはそのとき44歳だったが、それまでのドベリはニュース中毒だった。あらゆるニュースを読んだ。そのことで、「知識」がつき、「世界との一体感」を味わい、世界を「見通す力」を獲得したと思った。
そんな人間だったドベリが、いまはこう書いている。
「あなたの人生における重要なこととニュースには、なんの関連もない。ニュースは楽しめる場合もあるが、基本的には何の役にも立たない。だがそれを認めることへの心理的な抵抗の大きさから、この事実を受け入れられない人は多い」(『News Diet 情報があふれる世界でよりよく生きる方法』サンマーク出版、2021)
これにわたしは完全に同意する。わたしがニュースの9割は不要だ、というのはこの理由からである。
マスメディアに対するネットの優位性があるとすれば、それはこういう番組にある。
12月6日21時から1時間にわたって配信された「高橋洋一チャンネル特別ライブ 話題の男・玉木雄一郎氏に訊く」はじつに見ごたえがあった。
こんな議論は地上波では絶対にできない。
財務省に楯突けない大新聞もできない。
石破総理は「103万円の壁」減税を党税調に丸投げしている。しかし税調はまるっきりやる気がなく、減税は再来年、と寝ぼけたことをいっている。
そこで高橋洋一は、税調の宮沢・後藤は古川元久にまかせて、玉木には、国会で石破総理と加藤勝信財務大臣相手に議論をしかけよ、と焚きつけているのだ。
すなわち石破を乗せて、来年3月の確定申告に間に合うよう、「石破減税でも玉木減税」でもいいから、ぜひ国会でやってほしい、と玉木に発破をかけたのである。
玉木は「やりましょう」「がんばりますわ」といっていたが、いささか頼りないような気がする。大丈夫か>(以上「JB press」より引用)
「信頼性が失墜したのは「オールドメディア」という器ではない、そこにいる人間の問題だ」とは極めて当たり前の見出しだが、勢古 浩爾(評論家、エッセイスト)氏は当たり前の題を冠しなければならないほど既存マスメディアは権威が失墜していると思っている。
先月の兵庫県知事選を顧みるまでもなく、最近のマスメディアは取材力が著しく落ちたというしかない。なぜなら斎藤知事に関する報道は明らかに偏った、飛んでもないものだったからだ。
斎藤知事に関する報道だけではない。トランプ氏に関する報道も信頼に足るものではなかった。ただトランプ氏に関しては米国主要マスメディアを全コピーして配信している節があって、米国に特派員を派遣しているオールドメディアは何をしているのか、と見識を疑わざるを得ない。
両方に共通するのは「取材力」の欠落ではないだろうか。実際に現地で複数回取材すれば現地情報が手に入り、オールドメディアが手にしている情報が正しいのか、それとも間違っているのかが判明するはずだ。
私たち一般国民は現地へ取材に出かけることは不可能だが、様々な情報をネットで手に入れることができる。その中には現地から情報発信している情報もあって、オールドメディアよりも信頼できると思えるものがある。
だから私は2024米国大統領選挙ではトランプ氏が勝利すると確信していたし、兵庫県知事選では斎藤氏が勝利すると確信していた。またそのようなブログを書いてきたし、オールドメディア批判を繰り返して来た。
SNSは玉石混交だ。しかしそれはSNSだけではないだろう。オールドメディアの情報も玉石混交ではないか。しかもオールドメディアは権威主義を背景に「嘘情報」を確信的に報道するからタチが悪い。
たとえばダイオキシン騒動の場合がそうだったし、レジ袋悪人説を一斉に報道し始めたらレジ袋が有料化された。そして高齢者運転者が事故を起こす、と一斉に報道されると、運転免許が3年に短縮され、運転免許更新時に8千円もする高齢者教習が義務化された。年金生活者にとって8千円の負担は大きいし、3年ごとの免許証更新も負担が大きい。そして、そうした措置を講じてから劇的に高齢者が関係した事故が減少したというのなら納得できるが、そうした統計資料は一向に公表されない。
つまりオールドメディアは当局による世論誘導に利用されている。あるいは世論操作に積極的に加担して、オールドメディアこそが正義である、と得々としているように見える。それこそがオールドメディアの犯罪ではないだろうか。なぜ「失われた30年」が未だに続いているのか。それこそオールドメディアの記者諸氏が財務官僚によって洗脳され、財務省にとって好都合な情報を垂れ流しているからではないか。これを犯罪といわずして何だろうか。
なぜ「失われた30年」が続いているのか。御用学者ではない、テレビのコメンテータから排除された経済学者、たとえば三橋貴明氏や森永卓郎氏などを取材すれば明快に解説してくれるだろう。なぜ彼らの意見も財務省の見解と併記して新聞報道しないのだろうか。それこそオールドメディアは当局の国民洗脳機関に堕しているという証拠ではないか。オールドメディアの取材力の欠落こそがオールドメディアが衰退する元凶だ。