「言い寄り性交を求める賭け」に負けた男性の取るべき態度。

<お笑い芸人・松本人志氏の性加害疑惑は、フランスでも大きく報じられている。フランス哲学者の福田肇氏は「フランスでは、芸能事務所が所属タレントを吉本興業のように庇護することはない」というーー。

好きな人と路上で会ったら「運命の出遭い」、嫌いな人なら「ストーカー」
「好きな人と路上で偶然遭遇したら〝運命の出遭い〟。嫌いな人と遭遇したら〝ストーカー〟」というジョーク(?)がある。  じっさい、同じ状況や行為でも、解釈によってどうにでも評価が変わる。たまたま道で知り合いの女の子にばったり出くわしたらいきなりストーカー扱いされる男性も気の毒といえば気の毒だが、さまざまな事象を関係づけて構成する〝物語〟を糧として生きているのが人間だから、彼女が編む〝物語〟のなかに、幸運にも〝運命の王子様〟なる登場人物として組み込まれようが、不幸にも〝怪しい追跡者〟として抜擢されようが、それはいたしかたないことである。

壁ドンもキスも犯罪になりうる以上、誓約書が必要かもしれない
 さて、数年前、〝壁ドン〟なるパフォーマンスが流行った。周知のとおり、男性が女性を壁際に追いやり、片手もしくは両手を壁に勢いよく接着させて、壁と男性の身体との間にできた狭い空間に女性を一時的に閉じこめる行為である。たいていの場合、それに愛の告白か口唇の接触が続くようだ。 
 この強引なパフォーマンスにうっとりする女性もいるかと思えば、他方でそれはへたをすると暴行罪の構成要件にもなる。〝壁ドン〟は、女性が不愉快や脅威を感じるなら、彼女にたいする「有形力の行使」すなわち〝暴力〟に相当する。法定刑は、「2年以下の懲役もしくは30万円以下の罰金または拘留もしくは科料」である。いまどきあえて〝壁ドン〟を実践したいという奇特な男性もいないとは思うが、もしそうするなら「前科一犯」になる覚悟のうえで臨んでいただきたい。 
 「キスを奪う」も不意打ちの愛の行為としてロマンティックなモチーフにさえなりうるが、その反面、一歩まちがえば暴行罪よりももっと重い、強制わいせつ罪が適用される可能性がある。求愛行動も命がけだ。 
 このコンプライアンスの時代、恋愛にも「インフォームド・コンセント」(説明と同意)が必要なのかもしれない。〝壁ドンの誓約書〟、〝キスを奪う誓約書〟を二人で交わしてから事に及べば安心というものだ。

フランスの有力紙「フィガロ」は松本人志氏の性加害疑惑をどう報じたか

 フランスの有力紙「フィガロ」は、2023年1月9日、「日本のお笑い芸人松本人志が性的暴行容疑」という見出しの記事を掲載した。 
「日本ではきわめて評価の高いその芸人は、二人の女性によって告発されている。彼女たちは私的な夜会の際、性的に攻撃されようとした。松本人志はこの件を否定、彼女たちの非難を「根拠がない」と一蹴している。  
『週刊文春』が発表した記事によると、二人の女性は、お笑い芸人で映画監督(『さや侍』)の松本人志(60歳)が、2015年、東京のあるホテル内で行われた私的な夜会の際、同意なき性的関係を彼女らに強要した、と告白している。  
『争うつもりです。そうした主張に根拠はありませんから』、と松本はX(旧ツイッター)に書き込んだ。月曜日、松本の事務所は、松本が自分の弁護に専念するためにあらゆる芸能活動を中止する旨を発表した。
  この雑誌は、昨年初め、日本の芸能界を震撼させたある性的虐待スキャンダルを暴露した、日本の出版界では最初の雑誌のうちのひとつだった。 
 日本のボーイズグループの主要な事務所、ジャニーズ事務所は、故創立者が数十年にわたって性的虐待を若いメンバーらにおこなってきたことを、9月に認めた。 
 世界的な#MeToo運動が日本で拡大するまでには時間を要した。だから、多くの[性的虐待の]被害者たちが、被害の公表を怖れるあまり、踏み切れないでいるのかもしれない。とはいえ、最近話題になったいくつかの事件は、自覚をうながす引き金になったように思われる」

マスコミの過剰な忖度が事実を表面化させることを遅らせてきたのは事実

 「フィガロ」紙は、日本では多くの性的暴行の犠牲者たちがいままで泣き寝入りをしてきた原因のひとつとして、#MeToo運動(SNSなどでセクハラや性的暴行などの性犯罪被害の体験を告白・共有する運動)の同国における拡大の遅延をあげている。 
 じっさい、この国では、被害者の外傷的であるがデリケートな体験の告白は、当事者のみならずその家族を衆人の好奇の目に晒し、対社会的ないっそうの不利益を誘発し、さらには当事者の不注意に帰されて白眼視されることも多分にあった。
  そうした社会的風潮に加え、とりわけ芸能界における性虐待は、加害者自身の、あるいはその背後の大きな権力にたいするマスコミの過剰な〝忖度(そんたく)〟が、その事実を表面化させることを怖れてきたことは確かである。

フランスの「反#MeToo運動」では、男性が女性に「しつこく言い寄る自由」をフランス女優らが主張し始めた
 日本における#MeToo運動の拡散の遅れを指摘したフランスの「フィガロ」紙であるが、興味深いことに、同じフランスで、2018年、「フィガロ」紙の松本人志の記事と奇しくも同じ日付(1月9日)の「ル・モンド」紙が、大御所女優カトリーヌ・ドゥヌーヴを代表とする100人の女性の「反#MeToo運動」の声明をとりあげて大きな話題をさらった。  
「私たちは、性的自由に不可欠な、しつこく言い寄る自由(liberté d’importuner)を擁護する」。これがカトリーヌ・ドゥヌーヴらの公開書簡での主張である。
 「そこにあるのは、いわゆる公共善の名のもとに、女性擁護や女性解放の議論を借りてきて――まるで古き良き魔術の時代のように――女性を男性優位という悪魔の支配のもとでの永遠の犠牲者、かわいそうなちっぽけな存在という地位に隷属させようという、ピューリタニズムの特徴だ」 「事実、 #metooは、個人を公然と密告したり告発したりするキャンペーンを雑誌やソーシャルネットワークに持ちこむが、告発された側は、応答する可能性も自己防衛する可能性も残されないまま、まさに性的暴漢と同じ平面の上に載せられた。この性急な正義(justice expéditive)は、すでにその犠牲者を生んでいる。自分の職業の遂行で処罰され、退職にまで追い込まれた男たちもいる。彼らの非といえば、膝を触った、唇を奪おうとした、仕事上のディナーの席でつい〝秘事〟について語った、両思いではない女性に性的な含意のあるメッセージを送信した、たったそれだけだというのに」 こうして、カトリーヌ・ドゥヌーヴらは、 #metooの熱狂が、女性が自律するのを支援するどころか、むしろ性的自由の敵、たとえば宗教的原理主義者、極端な反動主義者たちに皮肉にも奉仕してしまっていると警笛を鳴らすのである。

性愛に「賭け」の要素は不可欠だ
 「しつこく言い寄る自由」というと、日本語では座りが悪い表現になってしまうが、要するにドゥヌーヴが擁護するのは〝恋愛のかけひき〟の自由であろう。恋のときめきが、一抹のエロティシズムに伴われてこそ光彩を放つものならば、それは、多かれ少なかれ日常を惰性態として成立させる掟を一瞬であれ侵犯すること――キスを奪う、壁ドン、不意の抱擁や告白のようなパフォーマンスもその諸様式である――を要請する。 
 しかし、誘惑は一種の危険な〝賭け〟だ。〝壁ドンの誓約書〟、〝キスを奪う誓約書〟があってもいい。確かに、完全に合意のもと、想定内での性的関係は安心、安全だ。が、性愛からの〝賭け〟の要素の除去が、どんなドラマを生むというのだろうか。 
 誘惑が〝賭け〟である以上、そこには敗北もある。しかしながら敗北者が完膚なきまでに糾弾され、生活の糧まで奪われるような風潮(ドゥヌーヴは、それを「豚を屠殺場に送るが如き熱狂」と言っている)は、性的関係を結ばなければ仕事を与えないと脅す上司やプロデューサーを野放しにする風潮と同じではないか、とカトリーヌ・ドゥヌーヴらは再考を促しているのだ。

仏著名メディアは吉本興業に対して「タレント事務所が前に出てくるのは驚くべきことだ」とコメント
 仮に、フランスで松本人志が、「私的な夜会」に集まった女性たちに性的接待を要求していたらどうだっただろうか、と想像してみよう。ベッドルームで展開されたのが松本からの誘惑なのか強要なのか脅迫なのか、それはわからない。しかし、いずれにせよ、彼が〝賭け〟に負けたのではないか。そうであるなら、彼ができることはただひとつ、その場で女性にひたすら赦しを乞うしかない。 
 2023年12月28日、ラジオフランスは、「日本の #metoo時代」と題して、松本人志の事件を報道した。「週刊文春」の記事の翌日のニュースであるから、極めて迅速な対応である。 
 番組内で、ニュースキャスターは、松本が所属する吉本興業が、松本を徹底的に擁護し、「週刊文春」の当該記事を熾烈に攻撃していることに関して、「タレント事務所がこうした案件の前面に出てくるのはきわめて驚くべきことだ」とコメント。相方のキャスターは、それを受け、タレント事務所のでしゃばりは、きわめて日本的なある現実を反映していると述べている。つまり、吉本興行のような数多くのタレントを擁する事務所の一種の〝全能性〟こそが、芸能人のスキャンダルに関する自由な報道を困難にしているものである。日本のテレビ局は、芸能事務所の介在にずっしりと依存しているのであり、それなくしてはテレビ番組が編成できないのだ、と。

フランス人にとって「どうしようもなく謎」な吉本とテレビ
 フランス人ニュースキャスターたちにとって、黒を白と言いくるめてでも所属タレントを必死に守ろうとする芸能事務所の姿勢、そして番組制作を存続させるために芸能事務所に忖度するテレビ局の姿勢、この二つがどうしようもなく謎なのだ。 
 逆に言えば、フランスで、一タレントの個人的な誘惑の〝賭け〟の失敗の後始末に所属事務所が奔走することはない。同国であれば、松本人志は「個人として」〝賭け〟の敗退を潔く認め、女性がこうむった精神的損害の補填について彼女と交渉するしかないだろう。
  もし松本が、事務所の全能性のもとで、みずからの行為についてみずからが背負うかもしれぬ〝賭け〟のリスクすら考慮に入れておらず、女性たちを自分に差し出された当然の〝貢物〟くらいにしか認識していないほど尊大だったのだとすれば、それは、「芸能事務所」という名の擬似家族の過保護のもとで醸成された救いがたい幼児性だといわなければならない>(以上「yahooニュース」より引用)




 福田肇(フランス哲学者)が「松本人志問題にフランス哲学者「性愛にギャンブルの要素は不可欠だ」仏著名メディアは「なぜ吉本とテレビ局は松本を守る?」と困惑」と題する記事をForbesに掲載した。いかにもフランス的なタッチの論理展開と云わざるを得ない。
 しかも当初、吉本興業が松本氏を全面的に擁護したのは理解できない、としている。それはタレントとプルダクションとの関係が余りにドメスティック過ぎて、いたいけな幼児を庇う母親のようなプロダクションのあり様が異様でしかないという。

 しかもテレビ(放送局)までが松本氏の一件がコミットしているかのようなあり方を示したことに、フランス哲学者は「異なモノを見た」と慨嘆している。またそれは日本国民の幼児性を突いているようにも見える。カトリーヌ・ドゥヌーブ氏が「反#metoo」発言をしているのも、独立した女性なら「男性のしつこく言い寄る自由」を認めるべきだという。
 そうした「言い寄る自由」も「キスを奪う自由」も#metoo運動で封殺するのは女性の幼児性をも助長する、と批判している。しかし、それは女性が完全に独立した存在でなければあり得ないことだ。つまり巨大な芸能プロダクションからもテレビ制作者たちからも、そして芸能界からも、自由な存在でなければならない。日本にそうしたテレビ界からもプロダクションからも芸能界からも、完全に自由な芸能人がいるだろうか。

 フランスでは所属タレントの性的スキャンダルに「「タレント事務所がこうした案件の前面に出てくるのはきわめて驚くべきことだ」という。さらに「文春」が記事に取り上げなかったなら、女性の訴えがマスメディアに取り上げられることはなかっただろう。
 本当に松本氏から性被害があったのなら女性たちは警察に駆け込めば良かったのでは、と松本氏の芸人仲間は松本氏を擁護するが、女性たちにそうできない弱みがあることを承知の上で女性たちを貶めるような発言するのは如何なものだろうか。当時は現在のような「不同意性交等罪」という法律すらなかった。普通の「暴行罪」を適用するには「ホテルの一室で開催された私的な夜会に参会していた」という状況下では、かなり困難だろう。#metoo運動の広がりがあってこそ、彼女たちは心の奥底に秘めていた「被害に遭った」事実を開示する勇気を得たのではないだろうか。

 松本氏は被害女性の告発とそれを記事にした「文春」を名誉棄損で提訴するのではなく、ひたすら謝罪すべきではなかったか。彼は「言い寄り、性交を求める賭け」に負けたのだから、潔く彼女たちに謝罪すべきだった。不機嫌に怒ったり暴言を浴びせたりするのは賭けに負けた男性の取るべき態度ではない。
 

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