辺野古沖「埋め立て」許可撤回の行方は。
<政府は16日、沖縄県が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先である名護市辺野古の埋め立て承認を撤回したことに対し、行政不服審査法に基づく審査を請求して撤回の効力停止を申し立てる方針を固め、県側に通知した。17日にも手続きに入る。複数の関係者が明らかにした。
防衛省は執行停止が認められ次第、辺野古埋め立てに着手する考えだ。9月の知事選で当選した玉城デニー知事は辺野古移設に反対しており、政府との対立が深まる可能性もある>(以上「産経新聞」より引用)
元沖縄県知事仲井真氏が「公有水面埋め立て許可」を出したことにより始まった辺野古沖の埋め立てを、前沖縄県知事翁長氏の逝去直前に「承認撤回」を行った。沖縄県知事権限の「公有水面埋め立て許可」を撤回したのだから工事が止まるのは当たり前だと思うが、政府が「撤回の効力停止を申し立て」を裁判所へ行えば速やかに政府の申し立てが認められると思われる。
なぜなら、これまでの前例がそうだったからだ。裁判所は政府の意向に従う。まず国民の意向や都道府県り意向を優先することはない。それが日本の司法と政府の関係だ。
マスメディアも政府の意向に従う。新聞紙面などでも「レジ袋は何円なら効果があるか」などといった記事が出ている。決してレジ袋はなぜ普及したのか、といったレジ袋の功罪に関する検証記事は載らない。
消費増税に対しても「飲食店の10%と軽減税率適用の8%の食料品との区別がつつきにくい」などといった消費増税導入を前提とした記事ばかりだ。なぜ「消費増税10%は日本をデフレ経済に逆戻りさせないか」といった議論が皆無なのだろうか。
日本はことほど左様に政府の言いなりにいつからなったのだろうか。司法の府でも明治時代には「大津事件」の判決などのように、政府の意向よりも法律に従う裁判官がいた。
戦後の昭和時代は「平和憲法」をマスメディアが「護憲」派としての論陣を張っていた。沖縄返還に際しての「核抜き・本土並み」を当時の佐藤総理大臣に対する厳しく履行を求める野党を支援したのはマスメディアだった。
テレビの愚劣さは「高額ギャラ取得者」たちが庶民の顔をしてコメントしていることだ。コメンテータたちのギャラもさることながら、情報帯番組のMCたちが数億円もの年収を手にしているとは驚きだ。
その高額ギャラを失いたくない、と誰でも思う。そうすると政府批判を行って波風を立てるよりも「長いもの」に巻かれることを選択するのは人情だろう。かくして日本のテレビは軒並み愚劣になった。
沖縄県知事が「埋め立て許可」を出して始まった工事が沖縄県知事の「許可撤回」で止まらないとしたら、そうした法体系がおかしいと思わなければならない。たとえ相手が国であろうと企業であろうと、都道府県の許認可権限と「許可撤回」権限とは同じはずだ。
元沖縄県知事が犯した「公有水面埋め立て許可」を撤回するために沖縄県民は苦しんでいる。なぜ「普天間基地を速やかに返還せよ」と沖縄県知事は叫び続けなかったのだろうか。「代替地を示せ」とは政府の勝手な「辺野古」移設案に丸乗りしているだけだ。それは沖縄の基地だらけの現状を変えようとするものではない。司法に携わるすべての者が「法治国・日本」の具現者であることを望む。