不動産購入の記載期日ズレがそんなに大事件なのか。
起訴された秘書が政治資金収支報告書に記載した期日を小沢氏が知らなすはずがない、という思い込みが今度も小沢氏の事情聴取の大要だ。何度も説明したが、不動産取得の期日は何を以て確定し記載するかは諸説のあるところだ。
つまり不動産売買契約書の締結日を以て取得日とする(企業会計原則では第三者への譲渡可能なことからこの日を当てることが多い)とするのか、決済金額支払いと登記手続き開始日を以て取得日とする(現金主義を以て会計処理する場合にはこの日を以て取得日とする)とするのか、登記完了の通知日を以て取得日(第三者対抗要件成立日を以て取得日とするのも安全性の原則を適用する場合にありうる)とするのか、不動産の取得日には諸説があってどれを採るかは政治資金収支報告書の限定列挙された記載例には提示されていない。すなわち、政治資金収支報告書ではそこまで拘らないとする法体系にあると思料するのが通常だ。
それを検察は秘書を逮捕し起訴までやった。暴挙というか、尋常の沙汰ではない。たとえていうなら法定速度の定められていない道路を60㎞/hで走っていたところ、いきなり安全速度は40㎞/hだから安全義務違反で逮捕する、というのに酷似している。いかに常軌を逸した横暴を検察が行っているのか国民は知らなければならない。
そして小沢氏に関しては「秘書がやったことだから当然承知しているはずだ」として強制捜査までやって不起訴の処分を下したのだ。いかに馬鹿げたことを行っているのか、検察は正直に国民に説明しなければならない。説明責任は検察にこそある。
たとえばあなたに非があるとして逮捕したが、何らあなたに瑕疵がないことが判明したので釈放された。すると仲間が寄って集って「逮捕されたのだから何かがあったのだろう、説明しろ」と責め立てているのと同じことだ。いかに理不尽なことを小沢氏にやろうとしているのか、説明責任があるとがなり立てている連中は自問自答することだ。
「そんな分かりきった冤罪を検察が犯すはずがない、小沢氏に疑惑があるからこうした事態になっているのだろう」と言う人がいれば先日無罪になった村木氏の事件を想起して戴きたい。検察は郵便料金不正事件の背後に政治家(この場合は石井一氏だったが)が介在した事件だと筋書きを描いて捜査を始めた。
小沢氏の場合は他の贈収賄事件で収監されていた中堅ゼネコンの社長が「小沢氏にダム入札で5000万円を渡した」と供述したことから、その贈収賄事件の突破口として秘書を言いがかりのような収支報告書の記載事件で逮捕したのがそもそもの始まりだったようだ。
すなわち、政治資金収支報告書は別件であって、本筋は贈収賄事件で小沢氏を引っ張ることにあった。しかし、何処をどう探しても証拠はなく、社長は秘書に渡したというがその証拠すらなかった。どうやら虚言であったと気付いたが振り上げた拳を下げられず秘書を起訴したのだ。
まず結論ありきで事件をでっち上げていく手法は村木氏の場合とまったく同じだ。問題なのは捜査の素人の検察が捜査まで行うことに原因がある。普段の検察は警察が逮捕した被疑者を公判に持ち込むかどうかを判定するのが仕事なのだ。つまり検察の権限を公訴権の行使に止めるべきで、捜査権まで持っていることから検察は暴走を繰り返すのだ。
そうしたブレーキの壊れた無理筋の事件捜査を可能にしている現在の検察制度を根本から見直さなければ今後もこうした冤罪は容易に起こりうる。自分たちが始めた事件捜査が間違いだったとしても、自分たちが謝るようには検察官たちの思想構造はなっていないようだ。それなら猶更、捜査権と公訴権は分離すべきだろう。
小沢氏を「汚沢」などと書くのはやめよう。人を誹謗する場合にはその証拠を明確に提示してからにしよう。そうしないとあなたは人権意識の希薄な独善家としか思われないだろう。