日本経済は積極財政でフェニックスのように甦るだろう。
<日本が示す「後期衰退段階」の兆候
私は著書などで、「世界の覇権国家は、およそ500年周期で同じような興亡の歴史をたどる」という「ビッグ・サイクル」理論を提唱してきました。
近年の日本経済・金融政策を、この「ビッグ・サイクル」の視点から眺めると、いくつか際立った特徴が見えてきます。それは、日本が教科書的とさえ言える「後期衰退段階」の兆候を示しているということです。
一つ目の特徴は、長期金融緩和の常態化です。本来、金融緩和は経済成長を促すための一時的な措置ですが、いまや日本では緩和それ自体が目的化し、「やめられない政策」となってしまいました。実体経済の活性化よりも、資産価格や金融システムの安定維持が優先され、結果として、生産性や成長力の底上げには結びついていません。
二つ目が、財政ファイナンスへの疑念です。財政ファイナンスとは、国債を中央銀行が事実上吸収することですが、そのような構造が続くことで、市場による規律は弱まり、財政の持続可能性に対する警戒も薄れていきます。これは短期的には安定をもたらしますが、長期的には改革を先送りする装置として機能することになります。
三つ目は、中央銀行の政治化です。本来求められる独立性よりも、政権運営や社会不安の緩和が優先され、金融政策が「痛みを覆い隠す緩衝材」として使われる傾向が強まっています。
これら三つの政策は総じて、改革のコストを回避し続けた国家が、最終的に選びがちな「安定装置」だと言えるでしょう。
「日本は歴史的な衰退段階に入った…著名投資家レイ・ダリオが分析する「この国に蔓延する無力感の正体」」と題するRay Dalio(投資家)氏の論評がある。しかし、このような日本経済に対する断定的な見出しには憤慨せざるを得ない。
私は著書などで、「世界の覇権国家は、およそ500年周期で同じような興亡の歴史をたどる」という「ビッグ・サイクル」理論を提唱してきました。
近年の日本経済・金融政策を、この「ビッグ・サイクル」の視点から眺めると、いくつか際立った特徴が見えてきます。それは、日本が教科書的とさえ言える「後期衰退段階」の兆候を示しているということです。
一つ目の特徴は、長期金融緩和の常態化です。本来、金融緩和は経済成長を促すための一時的な措置ですが、いまや日本では緩和それ自体が目的化し、「やめられない政策」となってしまいました。実体経済の活性化よりも、資産価格や金融システムの安定維持が優先され、結果として、生産性や成長力の底上げには結びついていません。
二つ目が、財政ファイナンスへの疑念です。財政ファイナンスとは、国債を中央銀行が事実上吸収することですが、そのような構造が続くことで、市場による規律は弱まり、財政の持続可能性に対する警戒も薄れていきます。これは短期的には安定をもたらしますが、長期的には改革を先送りする装置として機能することになります。
三つ目は、中央銀行の政治化です。本来求められる独立性よりも、政権運営や社会不安の緩和が優先され、金融政策が「痛みを覆い隠す緩衝材」として使われる傾向が強まっています。
これら三つの政策は総じて、改革のコストを回避し続けた国家が、最終的に選びがちな「安定装置」だと言えるでしょう。
「沈黙のポピュリズム」
では、出口を見失った日本は、米国や欧州で広がっているような激しいポピュリズムに向かうのか。結論から言えば、その可能性は高くないと考えています。
日本には、過激なポピュリズムが噴出しにくい構造的要因があります。ひとつは、分断軸が可視化されにくいことです。
日本ではアメリカと違って、人種、宗教、移民といった明確な対立が存在しないため、社会的不満が特定の「敵」に集中しにくい。怒りが外へ向かわず、内向きに沈殿しやすいと見ています。
つぎに、国家への期待の低さです。日本では、多くの国民がすでに「政府は劇的には変えてくれない」「自分で備えるしかない」と理解している。逆説的ですが、期待が低ければ、裏切られても爆発しにくい。
前政権と比べれば高市政権に期待する人は増えているようですが、どこまで本気で期待しているのか、私にはわかりません。
そして最後は、既存政党、とりわけ自民党が擬似的なポピュリズムを内部で吸収している点です。彼らが右も左も内包することで、反エリート的言説が外部の急進勢力として結集しにくい構造ができていると分析できます。
しかし、だからといって「何も起きない」わけではありません。日本で進行しやすいのは、声高な革命ではなく、静かな変質でしょう。投票率の低下や政治への無関心、「どうせ変わらない」という諦観こそ、いわば沈黙のポピュリズムだと思います。
では、出口を見失った日本は、米国や欧州で広がっているような激しいポピュリズムに向かうのか。結論から言えば、その可能性は高くないと考えています。
日本には、過激なポピュリズムが噴出しにくい構造的要因があります。ひとつは、分断軸が可視化されにくいことです。
日本ではアメリカと違って、人種、宗教、移民といった明確な対立が存在しないため、社会的不満が特定の「敵」に集中しにくい。怒りが外へ向かわず、内向きに沈殿しやすいと見ています。
つぎに、国家への期待の低さです。日本では、多くの国民がすでに「政府は劇的には変えてくれない」「自分で備えるしかない」と理解している。逆説的ですが、期待が低ければ、裏切られても爆発しにくい。
前政権と比べれば高市政権に期待する人は増えているようですが、どこまで本気で期待しているのか、私にはわかりません。
そして最後は、既存政党、とりわけ自民党が擬似的なポピュリズムを内部で吸収している点です。彼らが右も左も内包することで、反エリート的言説が外部の急進勢力として結集しにくい構造ができていると分析できます。
しかし、だからといって「何も起きない」わけではありません。日本で進行しやすいのは、声高な革命ではなく、静かな変質でしょう。投票率の低下や政治への無関心、「どうせ変わらない」という諦観こそ、いわば沈黙のポピュリズムだと思います。
日本の抱える「無力感」
また、政策や財政が高齢者層に最適化されると、若年層は結婚・出産の回避、さらには海外への静かな流出という形で社会から距離を取っていきます。中間層の溶解も見逃せません。正社員であっても暮らしは楽ではなく、資産を持つ層と持たない層の差が固定化されつつあります。
ここで生まれるのは怒りよりも、無力感です。その結果、社会不安が一気に爆発するのではなく、散発的に現れます。無差別テロ事件、孤立死、家族内の悲劇、ネット空間での過激化……社会の「神経系」がしだいに断線していくような不安定化です。
安倍晋三元首相の暗殺事件も、組織的暴力ではなく、孤立した個人の逸脱が政治空間に侵入したという点で、日本型不安定の象徴的事例だったと思います。
日本の今後10〜20年を展望すると、最も現実的なシナリオは、低成長と緩やかなインフレ、円安の継続でしょう。金融抑圧は続き、預金者が静かに重荷を負います。革命は起きませんが、国力は確実に縮小し、有能な人材や若年層の流出・減少が進み、社会保障は名目を保ちながらも実質的に縮んでいきます。崩壊ではなく、長い下り坂です。
それでも、日本はまだ致命的な段階には至っていません。言論の自由は保たれ、制度は機能し、アメリカのように暴力が常態化しているわけでもありません。「ビッグ・サイクル」理論が予測する中で最も危険なのは、衰退期に現実を直視できなくなることですが、日本にはまだ選択の余地が残されています。
ただし、猶予は長くありません。結局のところ、日本は「怒らない国」というよりも、「怒りを外に出さない国」なのです。それは社会の安定を支える美徳であると同時に、衰退を長引かせる要因にもなりうると思います。>(以上「現代ビジネス」より引用)
また、政策や財政が高齢者層に最適化されると、若年層は結婚・出産の回避、さらには海外への静かな流出という形で社会から距離を取っていきます。中間層の溶解も見逃せません。正社員であっても暮らしは楽ではなく、資産を持つ層と持たない層の差が固定化されつつあります。
ここで生まれるのは怒りよりも、無力感です。その結果、社会不安が一気に爆発するのではなく、散発的に現れます。無差別テロ事件、孤立死、家族内の悲劇、ネット空間での過激化……社会の「神経系」がしだいに断線していくような不安定化です。
安倍晋三元首相の暗殺事件も、組織的暴力ではなく、孤立した個人の逸脱が政治空間に侵入したという点で、日本型不安定の象徴的事例だったと思います。
日本の今後10〜20年を展望すると、最も現実的なシナリオは、低成長と緩やかなインフレ、円安の継続でしょう。金融抑圧は続き、預金者が静かに重荷を負います。革命は起きませんが、国力は確実に縮小し、有能な人材や若年層の流出・減少が進み、社会保障は名目を保ちながらも実質的に縮んでいきます。崩壊ではなく、長い下り坂です。
それでも、日本はまだ致命的な段階には至っていません。言論の自由は保たれ、制度は機能し、アメリカのように暴力が常態化しているわけでもありません。「ビッグ・サイクル」理論が予測する中で最も危険なのは、衰退期に現実を直視できなくなることですが、日本にはまだ選択の余地が残されています。
ただし、猶予は長くありません。結局のところ、日本は「怒らない国」というよりも、「怒りを外に出さない国」なのです。それは社会の安定を支える美徳であると同時に、衰退を長引かせる要因にもなりうると思います。>(以上「現代ビジネス」より引用)
「日本は歴史的な衰退段階に入った…著名投資家レイ・ダリオが分析する「この国に蔓延する無力感の正体」」と題するRay Dalio(投資家)氏の論評がある。しかし、このような日本経済に対する断定的な見出しには憤慨せざるを得ない。
何を以てダリオ氏は「日本経済は歴史的な衰退段階に入った」と云うのだろうか。ダリオ氏は三つの衰退期の国家としての要件を上げていて、それが日本経済に当て嵌まるから、だと主張する。
まず第一に、長期金融緩和の常態化だという。長期金融緩和の常態化は必ずしも国家衰運の兆しではない。確かにインフレ促進策ともいえる長期金融緩和は日本経済がデフレ下にあることを示す指標と云えるだろう。それは衰運に向かう指標ではなく、国家経済を拡大する方向で作用するものだ。それでも日本経済が拡大成長しなかったのは財政政策が長期金融緩和とは真逆な「緊縮・増税」政策を40年近く続けてきたからだ。それは偏に愚かな財務官僚によって洗脳された政治家とオールドメディアの責任だ。
次に財政ファイナンスへの疑念を上げているが、ダリオ氏が言うところの「国債を中央銀行が事実上吸収することですが、そのような構造が続くことで、市場による規律は弱まり、財政の持続可能性に対する警戒も薄れていきます」という論理が日本経済が衰運に向かう根拠になるとは思えない。日銀が通貨発行量を操作するのは市中流通貨幣量の一部でしかない。バブル期当時、日本の市中貨幣流通量は約700兆円ほどだった。現在も当時とほぼ同じ700兆円程度の貨幣流通量だが、当時と異なるのは日銀が発行している貨幣が当時は約200兆円だったのに対して、現在は約500兆円に達している。つまり民間流通貨幣量がバブル期当時とは比較にならないほど減少していることになる。その原因については後述する。
第三に中央銀行の政治化を上げている。ダリオ氏の指摘で最も意味不明なのがこの第三番目だ。ダリオ氏の論理は「本来求められる独立性よりも、政権運営や社会不安の緩和が優先され、金融政策が「痛みを覆い隠す緩衝材」として使われる傾向が強まってい」る、というものだが、日銀の独立性よりも「金融政策が「痛みを覆い隠す緩衝材」として使われる傾向が強まっている」という根拠は一体何だろうか。むしろ日銀はデフレ経済下(現在でも実質国民所得は対前年比「減」だ)であるにも拘らず、景気を減速させる「金利引き上げ」を行って高市政権の「責任ある積極財政」で景気を加速させようとする政策に冷や水を浴びせている。その何処が「独立性」を疑う根拠になるというのだろうか。
日銀が「異次元金融緩和」と称して貨幣流通量を増やしたのは、極端な「円高」から「円安」へと誘導するためだった。云うまでもなく、為替相場は「中立的な為替市場」であればGDP対貨幣発行量によって「比較」され、適正な為替相場で「取引」されるものだ。だから日本経済が衰運に向かう根拠として「円安」金融政策を上げるのは見当違いだ。しかも日銀の「独立性」を蔑ろにして金融緩和策を持続させたと云うのも的外れだ。
ダリオ氏は「日本には、過激なポピュリズムが噴出しにくい構造的要因がある」と断定している。その原因として日本国民に単一性にある、としているが、今回の 2.8衆院選の結果をダリオ氏は知らないのだろうか。なぜ高市自民党が 自民党始まって以来の316(正確には330)議席も獲得したのか。それは高市政権が掲げた「責任ある積極財政」に国民の、とりわけ若者の支持が集まったからだ。
ダリオ氏は日本の近未来予測として「日本の今後10〜20年を展望すると、最も現実的なシナリオは、低成長と緩やかなインフレ、円安の継続でしょう。金融抑圧は続き、預金者が静かに重荷を負います。革命は起きませんが、国力は確実に縮小し、有能な人材や若年層の流出・減少が進み、社会保障は名目を保ちながらも実質的に縮んでいきます。崩壊ではなく、長い下り坂です」と描いて見せた。
果たしてそうだろうか。たとえ高市政権が不慮の出来事で短命に終わったとしても、彼女の遺志を継ぐ有能な「積極財政派」の政治家が自民党の主流にいる。だから「責任ある積極財政」が高市氏の極めて個人的な属性だと捉えるのは間違いだ。つまり日本経済は高市政権により「経済成長する構造」へと転換を果たすだろう。それは2025年に日本国民のパラダイムがシフトしたのと軌を一にしている。だからこそ、高市政権が従来の「緊縮・増税」路線とは丸で180度転換した経済政策を掲げることが出来たし、それにより圧倒的な国民の支持を獲得できたのだ。
日本経済のファンダメンタルは依然として堅調だ。半導体分野だけでなく、自動車や造船といった「モノづくり」でも世界と伍してやっていける基本的な体力だけでなく開発能力も有している。
もちろん財政も金融も依然として世界を構成する主要な一員としての存在感を放っている。財務省主導の「緊縮・増税」から決別できれば、いよいよ日本経済は再び力強く経済成長するだろう。