「習得主義」と「履修主義」の違いとは。
<大学なのに、まるで義務教育のような授業だ」
4月15日に開催された財政制度等審議会での財務省による指摘です。
「こんな低レベルが大学だというのなら、私学助成を見直さなければならない」という趣旨で、「教育の質の評価が必要だ」という指摘らしい。
過去30年、様々な大学の教壇に立ってきた一教官としては「よく指摘した、財務省」と評価すべきと思います。
ただ、同時にどうして「大学なのに、まるで義務教育のような授業」をしなければならないのか、その理由を分かっていないとすれば、財務省もまたやや現状把握に不足があります。
そもそも 「大学」にあるのは「講義」と「演習」「ゼミナール」などで、「授業」というのは高等「学校」以下の中等教育の持ち分。
「授業」とは「授ける業」で、「教師」から「生徒」が、もっぱら教わるだけの建付けが「学校」。
これに対して、大学「教授」や「講師」は、単に既存の内容を「授ける」だけでなく、未知の新たな知見を開拓する「研究者」が、若者とその場を共有する「高等教育機関」であるはずです。
ところが、日本の現状は先生からしてサラリーマン化してしまい、およそそんな旧制大学みたいな話にはなっていない話ではあります。
これに対して、文部科学省サイドは「粗い考えだ」と反論しているようですが、文科省サイドが過去何十年にもわたって「考えのない教育行政」をだらだらと続けて来た結果、生じている事態でしかありません。
たとえて言うなら、穴の開いたバケツに水を入れて、いつまで経ってもいっぱいにならない、と言っているのと同じこと。
満タン前提で次に進む話を財務省がしているのに、バケツの穴が開いたまま「粗い考え」もへったくれもないわけで、大本は文科行政の改善、改正にあることが明らかです。
では、いったい何が「穴の開いたバケツ」なのか?
我が国の教育課程が完全に底の抜けたバケツになっているから、必然としてこのようなことが発生しているのです。
「日本の大学が「小学校の算数」を教えなければならない理由ーー日本の教育を破壊したのは誰か?」と題する論評が掲載された。大学に入った者に四則計算から教えなければならない、とは驚くようなことだが、実際にそれほど驚くことではないようだ。
4月15日に開催された財政制度等審議会での財務省による指摘です。
「こんな低レベルが大学だというのなら、私学助成を見直さなければならない」という趣旨で、「教育の質の評価が必要だ」という指摘らしい。
過去30年、様々な大学の教壇に立ってきた一教官としては「よく指摘した、財務省」と評価すべきと思います。
ただ、同時にどうして「大学なのに、まるで義務教育のような授業」をしなければならないのか、その理由を分かっていないとすれば、財務省もまたやや現状把握に不足があります。
そもそも 「大学」にあるのは「講義」と「演習」「ゼミナール」などで、「授業」というのは高等「学校」以下の中等教育の持ち分。
「授業」とは「授ける業」で、「教師」から「生徒」が、もっぱら教わるだけの建付けが「学校」。
これに対して、大学「教授」や「講師」は、単に既存の内容を「授ける」だけでなく、未知の新たな知見を開拓する「研究者」が、若者とその場を共有する「高等教育機関」であるはずです。
ところが、日本の現状は先生からしてサラリーマン化してしまい、およそそんな旧制大学みたいな話にはなっていない話ではあります。
これに対して、文部科学省サイドは「粗い考えだ」と反論しているようですが、文科省サイドが過去何十年にもわたって「考えのない教育行政」をだらだらと続けて来た結果、生じている事態でしかありません。
たとえて言うなら、穴の開いたバケツに水を入れて、いつまで経ってもいっぱいにならない、と言っているのと同じこと。
満タン前提で次に進む話を財務省がしているのに、バケツの穴が開いたまま「粗い考え」もへったくれもないわけで、大本は文科行政の改善、改正にあることが明らかです。
では、いったい何が「穴の開いたバケツ」なのか?
我が国の教育課程が完全に底の抜けたバケツになっているから、必然としてこのようなことが発生しているのです。
そのメカニズムから、丁寧に追ってみましょう。
四則演算を大学で教えなければならないわけ
財務省は、定員割れに陥っている私立大学の授業例で、「四則演算や方程式の取り扱い」(数学)、「現在形と過去形の違い」(英語)などを、大学の公開情報から抽出、評価。
「教育内容の質や人材育成の観点で私学助成額を検討する仕組みへの転換」を唱え、「メリハリを強化していくべきだ」と現在の大学の認証評価制度を見直す考えを示したというのですが・・・。
「四則演算」を教える大学の教育は「質が低い」のか?
私は逆だと考えています。
大学で、「本来なら小中学校で教えるはずの内容」ができていない学生に対して、丁寧に下の学年の教程を補習するのは「リメディアル教育」として既に久しく取り組まれているものです。
というのも、そのまま就職試験などを受けに行って、百分率や割合も分からず就職できずに困る学生を一人でも減らす必要があると大学側が真剣に考え、そのような内容を教えているのだから。
その実は分数の掛け算割り算や通分すら怪しい「大学生」に、分かったような分からないような、カルチャ―センターまがいの「講義」でお茶を濁す大学がいかに多いか。
しかも、「そこそこ以上の(ということになっている)評価を受けている大学」の現実も、残念ながらはっきり知っていますので、補習を行う学校は、むしろ教育に対して熱心だと評価するべきなのです。
ただ、そういう努力をしなければならない(ような学生が長年、大勢を占めてきた)大学で、定員割れが起きているわけです。
そうした教育に財務省から圧力をかければ、四則演算もできない「学卒」を、この少子高齢化の中でさらに増やしかねません。
いずれの役所も末期症状の議論としか、言いようがありません。
ではなぜ、このような最低な状況を作り出してしまったのか?
財務省は、定員割れに陥っている私立大学の授業例で、「四則演算や方程式の取り扱い」(数学)、「現在形と過去形の違い」(英語)などを、大学の公開情報から抽出、評価。
「教育内容の質や人材育成の観点で私学助成額を検討する仕組みへの転換」を唱え、「メリハリを強化していくべきだ」と現在の大学の認証評価制度を見直す考えを示したというのですが・・・。
「四則演算」を教える大学の教育は「質が低い」のか?
私は逆だと考えています。
大学で、「本来なら小中学校で教えるはずの内容」ができていない学生に対して、丁寧に下の学年の教程を補習するのは「リメディアル教育」として既に久しく取り組まれているものです。
というのも、そのまま就職試験などを受けに行って、百分率や割合も分からず就職できずに困る学生を一人でも減らす必要があると大学側が真剣に考え、そのような内容を教えているのだから。
その実は分数の掛け算割り算や通分すら怪しい「大学生」に、分かったような分からないような、カルチャ―センターまがいの「講義」でお茶を濁す大学がいかに多いか。
しかも、「そこそこ以上の(ということになっている)評価を受けている大学」の現実も、残念ながらはっきり知っていますので、補習を行う学校は、むしろ教育に対して熱心だと評価するべきなのです。
ただ、そういう努力をしなければならない(ような学生が長年、大勢を占めてきた)大学で、定員割れが起きているわけです。
そうした教育に財務省から圧力をかければ、四則演算もできない「学卒」を、この少子高齢化の中でさらに増やしかねません。
いずれの役所も末期症状の議論としか、言いようがありません。
ではなぜ、このような最低な状況を作り出してしまったのか?
諸悪の根源は昭和二十二年教育基本法
現在の日本の教育は「履修主義」という考え方で構成されており、出席日数が大変重視されます。
授業を受けることが進級・卒業の要件で、部屋にいさえすれば極論、居眠りしていても単位がつく。
これに対して成績は、進級・卒業の要件とはされておらず、仮にどんなに成績が低くても、出席日数に問題がなければ、原則として進級できてしまう。
これを私は冒頭で「穴の開いたバケツ」と表現したのです。
第2次世界大戦後の日本の教育は、基本すべてこの「履修主義」で一貫しているため、小学校を卒業しても四則演算ができない、中学を出たはずなのに英語の1の1も分からない「卒業生」を組織だって量産してきた。
6-3-3で12年間、算数や数学を履修してきたはずなのに2次方程式もよく分からず、三角関数も微積分もちんぷんかんぷん。
中高の6年間、英語を学んできたはずなのに外国人観光客の初歩の質問に答えられなくて普通。
こういう現在の日本国の実態は、穴の開いた教育をしているのだから必然の結果なのです。
いつまで経ってもバケツがいっぱいになるわけがない。
かつて20世紀末年まで、私が地上波でテレビ番組を作っていた時、視聴者は「小学校5年を目安に」と指示されたものです。
それまで「日本人14歳説」という言葉は知っていましたが、学力に関しては「10~11歳」に年齢が引き下げられ、何と言うか、言葉もありませんでした。
こういう教育にしてしまったのは1947年、いまだGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本に「進駐」していた頃に作られた法律の「教育基本法」、つまり占領軍が敗戦国の教育をコントロールするのに導入した骨抜き政策の中心に「履修主義」があったと指摘する必要があります。
「履修主義」の反対は「習得主義」といいます。戦前の日本ではこの「習得主義」の考え方が敷かれていました。
これは文科省のお墨付きもついており、例えばこの資料にもあるように、習得主義を「課程主義」と呼んで、こう明記していました。
「課程主義」とは,義務教育制度における「義務」の完了を認定するに当たり、一定の教育課程の『習得』をもって義務教育は終了したとみなすものである。我が国の明治期から戦前にかけての義務教育はこの課程主義に属しており、例えば,「小学校令」(明治33年)においては、「尋常小学校ノ教科ヲ修了シタルトキヲ以テ就学ノ終期トス」と定められていた。
では、どうしてすべての国民が「尋常小学校ノ教科ヲ修了」する必要があったのか?
理由は明確で、国民皆兵という原則があったからです。
現在の日本の教育は「履修主義」という考え方で構成されており、出席日数が大変重視されます。
授業を受けることが進級・卒業の要件で、部屋にいさえすれば極論、居眠りしていても単位がつく。
これに対して成績は、進級・卒業の要件とはされておらず、仮にどんなに成績が低くても、出席日数に問題がなければ、原則として進級できてしまう。
これを私は冒頭で「穴の開いたバケツ」と表現したのです。
第2次世界大戦後の日本の教育は、基本すべてこの「履修主義」で一貫しているため、小学校を卒業しても四則演算ができない、中学を出たはずなのに英語の1の1も分からない「卒業生」を組織だって量産してきた。
6-3-3で12年間、算数や数学を履修してきたはずなのに2次方程式もよく分からず、三角関数も微積分もちんぷんかんぷん。
中高の6年間、英語を学んできたはずなのに外国人観光客の初歩の質問に答えられなくて普通。
こういう現在の日本国の実態は、穴の開いた教育をしているのだから必然の結果なのです。
いつまで経ってもバケツがいっぱいになるわけがない。
かつて20世紀末年まで、私が地上波でテレビ番組を作っていた時、視聴者は「小学校5年を目安に」と指示されたものです。
それまで「日本人14歳説」という言葉は知っていましたが、学力に関しては「10~11歳」に年齢が引き下げられ、何と言うか、言葉もありませんでした。
こういう教育にしてしまったのは1947年、いまだGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本に「進駐」していた頃に作られた法律の「教育基本法」、つまり占領軍が敗戦国の教育をコントロールするのに導入した骨抜き政策の中心に「履修主義」があったと指摘する必要があります。
「履修主義」の反対は「習得主義」といいます。戦前の日本ではこの「習得主義」の考え方が敷かれていました。
これは文科省のお墨付きもついており、例えばこの資料にもあるように、習得主義を「課程主義」と呼んで、こう明記していました。
「課程主義」とは,義務教育制度における「義務」の完了を認定するに当たり、一定の教育課程の『習得』をもって義務教育は終了したとみなすものである。我が国の明治期から戦前にかけての義務教育はこの課程主義に属しており、例えば,「小学校令」(明治33年)においては、「尋常小学校ノ教科ヲ修了シタルトキヲ以テ就学ノ終期トス」と定められていた。
では、どうしてすべての国民が「尋常小学校ノ教科ヲ修了」する必要があったのか?
理由は明確で、国民皆兵という原則があったからです。
日本の学術はなぜダメになった?
「出口調査」の水準チェック消失
改めて一応お断りしておきます。長年この連載を読んでくださっている読者には、私がむしろリベラルであってもタカ派ではないのは、よくご存じと思います。
戦前の「国民皆兵」に向けた教育が良かった、それへの復古・回帰を! などと言いたいわけでは、もちろんありません。
そうではなく、1947年以降の日本の(公)教育で失われてしまったのは、卒業段階での「出口調査」、つまり「出荷時の品質保証」に相当する教育の水準チェックが消失したことによるのです。
その主犯はGHQ、占領軍にほかなりません。日本の戦前の教育は、非常に高い水準にあった。
連合軍は「カミカゼ」で特攻してくるイエローぺリル(黄禍)たる日本人が、どのような教育を受けて、あのような自爆特攻で突っ込んで来るのか、占領直後から入念に調査を行います。
その結果、八紘一宇などの思想教育と並んで、特に算術や理科など、サイエンスの基礎教育が極めて充実していることに驚嘆させられます。
小学算術の立役者、東京帝国大学理学部物理学科出身の塩野直道氏などは、一番に公職追放され、後半生を官界、学界で過ごすことはありませんでした。
占領軍による教科書の「墨塗り」というと、修身などの思想教育ばかりが強調されますが、それと同じように、多様な応用に目の開かれた、驚くほど充実した日本の初等理数教育は寸断され、見るも無残なバラバラ事件が1947年以降、約80年続いています。
具体的にどういうことか?
皆さんご自身が、実は体に染みついてご存じの状態が出現しました。
小学校5、6年生には「応用問題」がありましたね。鶴亀算、時計算、植木算などなど。
では中学卒業時点で、数学の問題に「応用」がありましたか?
というより、今現在でも「2次方程式」が何の役に立つか、子供にパッと教えられますか?
応用問題の消去=「墨塗り」。これが、GHQがやらかした、日本の教育の骨抜きのもう一つの実態です。
同じことが高校の数学にも、さらに「旧制高校の数学」=現在の大学教養課程まで、ずっと繰り返されているのは、驚くべきことです。
つまり、高校に進学された皆さんは、1年生で「三角関数」や「指数関数」を習うはずですが、それが何の役に立つか、教えられましたか?
子供に尋ねられて、多くの「数学の先生」が答えに窮する現実があります。ましていわんや、一般の親御さんが答えられなくて何の不思議もありません。
「お父さん、三角関数なんて、何の役に立つの?」と問われて、交流の蛍光灯がついている室内で答えに窮するお父さんというのは、何とも残念な悲喜劇を演じていることになる。
なぜなら、交流の電機システムは基本すべて、三角関数、指数関数を活用して設計、実装されているからです。
昭和22年からの新課程で教育を受けた昭和15年生まれ=現在85歳以下の世代は、あらかた、この「分断教育」の犠牲者と言ってよいでしょう。
1億2000万の人口に占める85歳以上の割合は2020年時点で600万人程度とのことですから、ざっと人口の95%がGHQ分断教程で学んだ人ということになる。
読者の皆さんが、こうした問いに答えられなくても、それは当たり前のことであって、悪いのはGHQの分断、墨塗り教育に責任があります。
では、そのすぐ上はどうかと問われると、「学徒動員」で教育どころではなかった世代が続き、さらにその上は「学徒出陣」のため戦地で多くの人が亡くなり、人口にへこみのある世代となります。
ところが、日本のノーベル賞受賞者は、実はこの世代、「わだつみ世代」に特化して多いのです。
「出口調査」の水準チェック消失
改めて一応お断りしておきます。長年この連載を読んでくださっている読者には、私がむしろリベラルであってもタカ派ではないのは、よくご存じと思います。
戦前の「国民皆兵」に向けた教育が良かった、それへの復古・回帰を! などと言いたいわけでは、もちろんありません。
そうではなく、1947年以降の日本の(公)教育で失われてしまったのは、卒業段階での「出口調査」、つまり「出荷時の品質保証」に相当する教育の水準チェックが消失したことによるのです。
その主犯はGHQ、占領軍にほかなりません。日本の戦前の教育は、非常に高い水準にあった。
連合軍は「カミカゼ」で特攻してくるイエローぺリル(黄禍)たる日本人が、どのような教育を受けて、あのような自爆特攻で突っ込んで来るのか、占領直後から入念に調査を行います。
その結果、八紘一宇などの思想教育と並んで、特に算術や理科など、サイエンスの基礎教育が極めて充実していることに驚嘆させられます。
小学算術の立役者、東京帝国大学理学部物理学科出身の塩野直道氏などは、一番に公職追放され、後半生を官界、学界で過ごすことはありませんでした。
占領軍による教科書の「墨塗り」というと、修身などの思想教育ばかりが強調されますが、それと同じように、多様な応用に目の開かれた、驚くほど充実した日本の初等理数教育は寸断され、見るも無残なバラバラ事件が1947年以降、約80年続いています。
具体的にどういうことか?
皆さんご自身が、実は体に染みついてご存じの状態が出現しました。
小学校5、6年生には「応用問題」がありましたね。鶴亀算、時計算、植木算などなど。
では中学卒業時点で、数学の問題に「応用」がありましたか?
というより、今現在でも「2次方程式」が何の役に立つか、子供にパッと教えられますか?
応用問題の消去=「墨塗り」。これが、GHQがやらかした、日本の教育の骨抜きのもう一つの実態です。
同じことが高校の数学にも、さらに「旧制高校の数学」=現在の大学教養課程まで、ずっと繰り返されているのは、驚くべきことです。
つまり、高校に進学された皆さんは、1年生で「三角関数」や「指数関数」を習うはずですが、それが何の役に立つか、教えられましたか?
子供に尋ねられて、多くの「数学の先生」が答えに窮する現実があります。ましていわんや、一般の親御さんが答えられなくて何の不思議もありません。
「お父さん、三角関数なんて、何の役に立つの?」と問われて、交流の蛍光灯がついている室内で答えに窮するお父さんというのは、何とも残念な悲喜劇を演じていることになる。
なぜなら、交流の電機システムは基本すべて、三角関数、指数関数を活用して設計、実装されているからです。
昭和22年からの新課程で教育を受けた昭和15年生まれ=現在85歳以下の世代は、あらかた、この「分断教育」の犠牲者と言ってよいでしょう。
1億2000万の人口に占める85歳以上の割合は2020年時点で600万人程度とのことですから、ざっと人口の95%がGHQ分断教程で学んだ人ということになる。
読者の皆さんが、こうした問いに答えられなくても、それは当たり前のことであって、悪いのはGHQの分断、墨塗り教育に責任があります。
では、そのすぐ上はどうかと問われると、「学徒動員」で教育どころではなかった世代が続き、さらにその上は「学徒出陣」のため戦地で多くの人が亡くなり、人口にへこみのある世代となります。
ところが、日本のノーベル賞受賞者は、実はこの世代、「わだつみ世代」に特化して多いのです。
100歳を迎えた江崎玲於奈博士の教育論
去る3月25日、江崎玲於奈博士が100歳を迎えられました。
江崎さんは「創造性を伸ばす教育」の重要性を強調しておられます。大正14年の早生まれというのは、実は死んだ私の父親と同じで、同じ学年に当たられます。
江崎さんは健康に100歳を迎えましたが、私の父は54年前、46歳で亡くなりました。
ソ連に捕虜として捕まったシベリア抑留の強制労働時代にガンの芽を作ってしまい、それが増殖して46歳で亡くなった。
私は両親揃って、この「わだつみ世代」つまり「大正末期」のベルエポックに育ち、母は教師でしたので「戦後の教育はインチキ」「戦後の学術はみせかけ、まがいもの」を子供の頃から聞かされて育ち、教科書も授業も一切信用しない、「旧人類」末裔のひねくれたガキとして育ったので、今こういう原稿を書いているわけです。
それくらい、日本の(公)教育は、ここ80年で空疎化、空洞化し、スポンジのように中身がなくなってしまった。
教育の狂牛病化とでも呼ぶべき事態かもしれません。
「大学で義務教育の教程を教える」のが、問題なのではない。
「義務教育の年齢」で「義務教育の教程」をきちんとマスターさせず、形骸化した履修主義で「できたことにする」GHQ導入の墨塗り教育に調子を合わせているうちに、そもそも教育の本質を見失って80年を空費してしまった。
戦後日本教育すべての負の遺産・ツケが今、回ってきているだけのことに過ぎません。
では、どうすればよいのか? 私は批評屋ではなく、実務に責任を持つセクターの人間ですから、当然対案を持ったうえで、このような指摘をしています。具体的な教育再生への方策は、別論としてお伝えしたいと思います>(以上「JB press」より引用)
去る3月25日、江崎玲於奈博士が100歳を迎えられました。
江崎さんは「創造性を伸ばす教育」の重要性を強調しておられます。大正14年の早生まれというのは、実は死んだ私の父親と同じで、同じ学年に当たられます。
江崎さんは健康に100歳を迎えましたが、私の父は54年前、46歳で亡くなりました。
ソ連に捕虜として捕まったシベリア抑留の強制労働時代にガンの芽を作ってしまい、それが増殖して46歳で亡くなった。
私は両親揃って、この「わだつみ世代」つまり「大正末期」のベルエポックに育ち、母は教師でしたので「戦後の教育はインチキ」「戦後の学術はみせかけ、まがいもの」を子供の頃から聞かされて育ち、教科書も授業も一切信用しない、「旧人類」末裔のひねくれたガキとして育ったので、今こういう原稿を書いているわけです。
それくらい、日本の(公)教育は、ここ80年で空疎化、空洞化し、スポンジのように中身がなくなってしまった。
教育の狂牛病化とでも呼ぶべき事態かもしれません。
「大学で義務教育の教程を教える」のが、問題なのではない。
「義務教育の年齢」で「義務教育の教程」をきちんとマスターさせず、形骸化した履修主義で「できたことにする」GHQ導入の墨塗り教育に調子を合わせているうちに、そもそも教育の本質を見失って80年を空費してしまった。
戦後日本教育すべての負の遺産・ツケが今、回ってきているだけのことに過ぎません。
では、どうすればよいのか? 私は批評屋ではなく、実務に責任を持つセクターの人間ですから、当然対案を持ったうえで、このような指摘をしています。具体的な教育再生への方策は、別論としてお伝えしたいと思います>(以上「JB press」より引用)
「日本の大学が「小学校の算数」を教えなければならない理由ーー日本の教育を破壊したのは誰か?」と題する論評が掲載された。大学に入った者に四則計算から教えなければならない、とは驚くようなことだが、実際にそれほど驚くことではないようだ。
夜学で大検受験用の特種学校で教えている友達が「数学で躓いている生徒は小学校の分数が解らない子供が多い」と語っていた。小学校2年生から分数の学習が始まります。3年生で分数の基本的な理解を深め、4年生以降で通分や仮分数、帯分数などを学習するが、そうした分数の基本的な「約束事」を理解しないで小学校過程を済ませたから、中学校でも数学は殆ど出来なかっただろう。だから高校進学を諦めたか、進学しても授業が面白くなくて中退してしまった子供たちなのだろう。
だが世界の国別IQ比較では日本は平均IQが112.30で世界一位だ。二番がハンガリーで平均IQは111.30、三位が台湾で平均IQは111.19、四位はイタリアで平均IQは110.82、五位が韓国で平均IQは110.80、六位は香港で平均IQは109.56、七位はベトナムで平均IQは108.80となっている。ちなみに主要国ではドイツ(105.23)が23位、イギリス(97.63)が66位、アメリカ(96.57)が77位だった。ただ中国はオンラインIQテストである「国際IQテスト」の国別平均IQが(107.43)でダントツの一位だったが、それが公正に実施されたものかは疑わしい。
ただ日本のホームレスを調査したところ文盲や薬物中毒者は殆どいないという。それこそ世界中のレアケースで、他の先進国ではありえない現象だという。
確かに日本の文盲率は江戸時代から既に世界トップの低くさで、江戸末期に日本を訪れた外国人が庶民の女性が読み書きできることに驚いている。四則計算も算盤を用いた教育が施され、関孝和などは当時で世界水準を超える微分などを和算で行っていた。
戦前の教育と戦後の教育の特徴を「習得主義」と「履修主義」の違いだという。習得主義とは教科を実際に習得するまで教えて、小学校なり中学校を卒業する児童・生徒の「品質保証」を行うことだ。それに対して履修主義は一定の時間以上、教科を履修すれば良いとする考え方だ。つまり内容を理解しているとか応用できるとか、そんなこととは関係なく出席していれば履修したものとして卒業させる、という考え方だ。
だから分数が出来ない大学生が出来てしまう。そうした高校を卒業した生徒としては「欠陥品」が出来上がるのは戦後の日本教育をGHQが履修主義にして日本国民の教育水準を下げようとした結果だという。そのための「教育基本法」であり、戦前の「小学校令」(明治33年)においては、「尋常小学校ノ教科ヲ修了シタルトキヲ以テ就学ノ終期トス」と定められていた教育方針を根本から変えたからだ。
では、なぜGHQは日本の教育制度を変えたのか。それは日本兵が余りに強かったからだ。強い兵隊は自ら考えて行動し、自ら国家のために働こうという使命感を持っていたからだ。そうした国民を育成する教育を根本から変えない限り、日本は再び強国となって米国と肩を並べる国になるだろう、と考えたからだ。
そのためには分数が解らなくても進学させ、数学の分からない日本国民を世間に出せば良い。物事を考えない、考える能力を持たない国民を多くすれば国家により洗脳できる。だから大学教育でも授業を行う。
「そもそも 「大学」にあるのは「講義」と「演習」「ゼミナール」などで、「授業」というのは高等「学校」以下の中等教育の持ち分。「授業」とは「授ける業」で、「教師」から「生徒」が、もっぱら教わるだけの建付けが「学校」。 これに対して、大学「教授」や「講師」は、単に既存の内容を「授ける」だけでなく、未知の新たな知見を開拓する「研究者」が、若者とその場を共有する「高等教育機関」であるはずです」という根本的な大学での教育を大学そのものが理解していないケースが多い、という。つまり自ら考える学生が大学にいないことが問題なのだ。
「「大学で義務教育の教程を教える」のが、問題なのではない。「義務教育の年齢」で「義務教育の教程」をきちんとマスターさせず、形骸化した履修主義で「できたことにする」GHQ導入の墨塗り教育に調子を合わせているうちに、そもそも教育の本質を見失って80年を空費してしまった」と筆者は警鐘を鳴らしている。そして今も教育から日本国民をスポイルしようとする謀略が秘かに進行しているのではないか、と筆者は憂えている。