外交官はプレゼンで決して負けてはならない。
<「民」の働きかけと「官」の発信
駐オーストラリア特命全権大使として天皇陛下から皇居で信任状を授与された私が豪州赴任の準備を進める際に、何人もの関係者から聞いたその名前は山岡鉄秀さんでした。私がキャンベラに着任した時には山岡さんはすでに日本に帰国されていたため、残念ながら2年4カ月に及ぶ在任中にお会いして話をうかがうことはかないませんでした。
しかしながら、駐豪大使の任を終えて帰国後、インターネットテレビの文化人放送局の番組で初めてお会いし、たちまち意気投合したのです。嬉しいことに、その後何度もじっくりと意見交換をする機会に恵まれ、今日に至っています。
外交官生活の最大の醍醐味は、人との出会いです。特に、在外公館で勤務する際には、霞が関の外務本省に居続けていたのであれば知り合う機会がまずなかったような人と知己を得ることができます。山岡さんとの出会いは、そんな喜びを再認識させてくれたのです。
山岡先生からシドニーでの武勇伝をうかがうにつれ、私としてもハタと膝を打つことが数多くありました。「歴史戦」と聞くと、ハードルの高さを感じて身構えてしまう人が多いのではないでしょうか? でも、山岡先生の説得力に富む体験談を読んでいただければ、そのような印象が払拭されるのではないかと思います。
「相手の土俵では勝負しない」
「歴史論争に引きずり込まれるのではなく、自分たちを受け入れてくれているオーストラリア社会を分断してしまう危険を理性的に訴える」
これぞ至言ではないでしょうか。
なにも「歴史」とは、大東亜戦争の歴史だけではありません。戦前・戦後、オーストラリアであれ、アメリカであれ、イギリスであれ、日本人、日本企業が移住・転勤先、取引・投資先の現地社会に溶け込むよう、誠実かつ地道に努力を重ねてきたのも、また脈々と流れる「歴史」です。歴史戦に臨むうえでは、そうした長年の積み重ねから得られてきた日本や日本人の信用度が最大の武器になると信じています。山岡先生の貴重なご経験は、そのことを如実に物語っていると受け止めています。
また、山岡先生のような民間の方々による草の根の地道な働きかけがあってこそ、政府関係者による日本のナラティブの擦りこみが有効に機能するのではないでしょうか。その意味では、民のレベルでの働きかけと、官のレベルでの発信、反論は車の両輪と言えましょう。
思い返せば、40年に及んだ私の外交官生活で通奏低音のように常に付きまとってきたのが歴史認識問題でした。その本質は、「先の大戦」をめぐる歴史認識において日本社会が左右に分断されており、その分断が諸外国から外交的に利用されてきたと言っても過言ではないでしょう。
同時に、嘆かわしいことに、多くの歴史問題が日本発でもありました。あの朝日新聞までが虚言と認めた吉田清治氏のように、南京事件や慰安婦問題等で顕著に観察された通り、事実を捏造、誇張して問題をつくり出し、ソウルや北京に「ご注進」とばかりに伝えて、外交上の火種を煽ってきた輩が日本に存在していたことも歴史的事実であります。
外交問題化してしまった歴史認識問題の扱いに苦慮した往時の日本政府が河野談話や村山談話を発出して火消しを図ったものの後手後手の対処療法に終わり、その後は謝罪の繰り返し、補償(金銭の支払い)を求められたのも、また歴史的事実でした。
忘れることのできないない2つの鮮烈な体験
そんな有様を外交最前線で繰り返し目の当たりにしてきた私にとって忘れ得ない鮮烈な体験が二つあります。
ひとつは、アイリス・チャンの『レイプ・オブ・ナンキン』が出版されたときの米国ワシントンでのこと。アメリカの三大テレビ局の討論番組にチャンと一緒に日本の駐米大使(当時)が出演しました。南京事件という扱いが難しい事案についてテレビの生放送出演を承諾した大使の心意気や良し、です。
しかしながら、実際に繰り広げられた番組での問答では、南京事件が大虐殺であったとして日本軍の非道を言い募るチャン女史に対し、日本大使は、本書でも説明した国会答弁的な応答ラインを繰り返すだけにとどまりました。そのため、ディベートに勝利したとは到底言えない結果に終わりました。まさに、両手を後ろ手に縛られて殴られるままだった、という形容がふさわしい出来栄えでした。
もう一つの体験は、その後、20年近く経った英国ロンドンでのこと。尖閣諸島周辺海域における中国漁船船長による日本の海上保安庁巡視船への激突事件、国有化、中国の公船による領海侵入といった一連の展開に英国メディアの関心が高まり、駐英日本大使と中国大使の双方がBBCテレビのインタビューに個別に応じることとなったのです。
テレビ出演に先立っては両大使による英国高級紙への寄稿が行われたところ、その段階では日本大使による主張の方が理路整然として明らかに優勢であったと評されていました。
ところが、テレビインタビューの段になると、間違った事実関係を堂々と胸を張って滔々と主張し続けた中国大使の弁舌に接し、多くの英国人が中国側に軍配を上げてしまったのです。
これが、日本が臨んでいた歴史戦の惨状であり、悔しいことに、日本のトップクラスの外交官の力量を反映したものでもありました。こうした「負け戦」に触発された私は、その後、昼夜となく10年、20年と筋トレを続けたのです(笑)。
いつ、いかなる国で自分が日本政府を代表する立場に立って歴史戦の当事者になろうとも、理屈、プレゼンテーションの双方においてオメオメと負けることだけは決してすまい、と心に誓って研鑽に努めた次第です。
その過程では、あまたの歴史関連書籍を渉猟するだけではなく、プレゼンに秀でた英語圏、さらにはイスラエルやロシアなどの他国の外交官からも「技」を学ぶよう努めました。また、在勤したロンドンでは英語の家庭教師をつけ、改めて発音の矯正を図るとともに、英語圏のインテリがなじんでいるスピーチや詩の教授も受けました。聞き手が納得する知的な言い回し、比喩、譬えなどを貪欲に吸収しようとしたのです。
そうした訓練の集大成がキャンベラでの大使勤務だったのです>(以上「現代ビジネス」より引用)
一人の引退した外交官の回想記事として山上 信吾(前駐オーストラリア特命全権大使)氏の「大使もつとめた元外交官が、日本外交について「屈辱を感じ、唖然とした」2つの出来事」を感慨深く読まさせて頂いた。
もう一件は「尖閣諸島周辺海域における中国漁船船長による日本の海上保安庁巡視船への激突事件、国有化、中国の公船による領海侵入といった一連の展開に英国メディアの関心が高まり、駐英日本大使と中国大使の双方がBBCテレビのインタビューに個別に応じることとなったのです」という件だ。
駐オーストラリア特命全権大使として天皇陛下から皇居で信任状を授与された私が豪州赴任の準備を進める際に、何人もの関係者から聞いたその名前は山岡鉄秀さんでした。私がキャンベラに着任した時には山岡さんはすでに日本に帰国されていたため、残念ながら2年4カ月に及ぶ在任中にお会いして話をうかがうことはかないませんでした。
しかしながら、駐豪大使の任を終えて帰国後、インターネットテレビの文化人放送局の番組で初めてお会いし、たちまち意気投合したのです。嬉しいことに、その後何度もじっくりと意見交換をする機会に恵まれ、今日に至っています。
外交官生活の最大の醍醐味は、人との出会いです。特に、在外公館で勤務する際には、霞が関の外務本省に居続けていたのであれば知り合う機会がまずなかったような人と知己を得ることができます。山岡さんとの出会いは、そんな喜びを再認識させてくれたのです。
山岡先生からシドニーでの武勇伝をうかがうにつれ、私としてもハタと膝を打つことが数多くありました。「歴史戦」と聞くと、ハードルの高さを感じて身構えてしまう人が多いのではないでしょうか? でも、山岡先生の説得力に富む体験談を読んでいただければ、そのような印象が払拭されるのではないかと思います。
「相手の土俵では勝負しない」
「歴史論争に引きずり込まれるのではなく、自分たちを受け入れてくれているオーストラリア社会を分断してしまう危険を理性的に訴える」
これぞ至言ではないでしょうか。
なにも「歴史」とは、大東亜戦争の歴史だけではありません。戦前・戦後、オーストラリアであれ、アメリカであれ、イギリスであれ、日本人、日本企業が移住・転勤先、取引・投資先の現地社会に溶け込むよう、誠実かつ地道に努力を重ねてきたのも、また脈々と流れる「歴史」です。歴史戦に臨むうえでは、そうした長年の積み重ねから得られてきた日本や日本人の信用度が最大の武器になると信じています。山岡先生の貴重なご経験は、そのことを如実に物語っていると受け止めています。
また、山岡先生のような民間の方々による草の根の地道な働きかけがあってこそ、政府関係者による日本のナラティブの擦りこみが有効に機能するのではないでしょうか。その意味では、民のレベルでの働きかけと、官のレベルでの発信、反論は車の両輪と言えましょう。
思い返せば、40年に及んだ私の外交官生活で通奏低音のように常に付きまとってきたのが歴史認識問題でした。その本質は、「先の大戦」をめぐる歴史認識において日本社会が左右に分断されており、その分断が諸外国から外交的に利用されてきたと言っても過言ではないでしょう。
同時に、嘆かわしいことに、多くの歴史問題が日本発でもありました。あの朝日新聞までが虚言と認めた吉田清治氏のように、南京事件や慰安婦問題等で顕著に観察された通り、事実を捏造、誇張して問題をつくり出し、ソウルや北京に「ご注進」とばかりに伝えて、外交上の火種を煽ってきた輩が日本に存在していたことも歴史的事実であります。
外交問題化してしまった歴史認識問題の扱いに苦慮した往時の日本政府が河野談話や村山談話を発出して火消しを図ったものの後手後手の対処療法に終わり、その後は謝罪の繰り返し、補償(金銭の支払い)を求められたのも、また歴史的事実でした。
忘れることのできないない2つの鮮烈な体験
そんな有様を外交最前線で繰り返し目の当たりにしてきた私にとって忘れ得ない鮮烈な体験が二つあります。
ひとつは、アイリス・チャンの『レイプ・オブ・ナンキン』が出版されたときの米国ワシントンでのこと。アメリカの三大テレビ局の討論番組にチャンと一緒に日本の駐米大使(当時)が出演しました。南京事件という扱いが難しい事案についてテレビの生放送出演を承諾した大使の心意気や良し、です。
しかしながら、実際に繰り広げられた番組での問答では、南京事件が大虐殺であったとして日本軍の非道を言い募るチャン女史に対し、日本大使は、本書でも説明した国会答弁的な応答ラインを繰り返すだけにとどまりました。そのため、ディベートに勝利したとは到底言えない結果に終わりました。まさに、両手を後ろ手に縛られて殴られるままだった、という形容がふさわしい出来栄えでした。
もう一つの体験は、その後、20年近く経った英国ロンドンでのこと。尖閣諸島周辺海域における中国漁船船長による日本の海上保安庁巡視船への激突事件、国有化、中国の公船による領海侵入といった一連の展開に英国メディアの関心が高まり、駐英日本大使と中国大使の双方がBBCテレビのインタビューに個別に応じることとなったのです。
テレビ出演に先立っては両大使による英国高級紙への寄稿が行われたところ、その段階では日本大使による主張の方が理路整然として明らかに優勢であったと評されていました。
ところが、テレビインタビューの段になると、間違った事実関係を堂々と胸を張って滔々と主張し続けた中国大使の弁舌に接し、多くの英国人が中国側に軍配を上げてしまったのです。
これが、日本が臨んでいた歴史戦の惨状であり、悔しいことに、日本のトップクラスの外交官の力量を反映したものでもありました。こうした「負け戦」に触発された私は、その後、昼夜となく10年、20年と筋トレを続けたのです(笑)。
いつ、いかなる国で自分が日本政府を代表する立場に立って歴史戦の当事者になろうとも、理屈、プレゼンテーションの双方においてオメオメと負けることだけは決してすまい、と心に誓って研鑽に努めた次第です。
その過程では、あまたの歴史関連書籍を渉猟するだけではなく、プレゼンに秀でた英語圏、さらにはイスラエルやロシアなどの他国の外交官からも「技」を学ぶよう努めました。また、在勤したロンドンでは英語の家庭教師をつけ、改めて発音の矯正を図るとともに、英語圏のインテリがなじんでいるスピーチや詩の教授も受けました。聞き手が納得する知的な言い回し、比喩、譬えなどを貪欲に吸収しようとしたのです。
そうした訓練の集大成がキャンベラでの大使勤務だったのです>(以上「現代ビジネス」より引用)
一人の引退した外交官の回想記事として山上 信吾(前駐オーストラリア特命全権大使)氏の「大使もつとめた元外交官が、日本外交について「屈辱を感じ、唖然とした」2つの出来事」を感慨深く読まさせて頂いた。
日本周辺には歴史を歪曲し、捏造して恥じない国々が存在している。しかも彼らは事毎に捏造した歴史こそ真実だと主張している。だが史料は厳然として残り、歴史的事実は風化することなく存在している。
山上氏はアイリス・チャン氏の『レイプ・オブ・ナンキン』が出版された際に開催された南京大虐殺が本当にあったのか、とアメリカの三大テレビ局の討論番組にチャンと一緒に日本の駐米大使(当時)が出演したという。
アイリス・チャン氏が虚実ごちゃ混ぜに論陣を張るのに対して、駐米大使は史実に則って反論したが、いずれも国会答弁のような言い回しで米国人には分かりにくかった。そうすると小説を書き上げたばかりのアイリス・チャン氏の迫力に敵うはずがないのは当然の結果だったようだ。なぜ日本側は南京事件に詳しい学者を招聘しなかったのだろうか。
もう一件は「尖閣諸島周辺海域における中国漁船船長による日本の海上保安庁巡視船への激突事件、国有化、中国の公船による領海侵入といった一連の展開に英国メディアの関心が高まり、駐英日本大使と中国大使の双方がBBCテレビのインタビューに個別に応じることとなったのです」という件だ。
結果「テレビ出演に先立っては両大使による英国高級紙への寄稿が行われたところ、その段階では日本大使による主張の方が理路整然として明らかに優勢であったと評されていました。
ところが、テレビインタビューの段になると、間違った事実関係を堂々と胸を張って滔々と主張し続けた中国大使の弁舌に接し、多くの英国人が中国側に軍配を上げてしまったのです」という。嘘も百回叫べば本当になる、とはヒトラーの宣伝相ゲッペルスの言葉だ。なぜか日本国民には自己主張を繰り返すのは「ハシタナイ」という強い固定観念がある。しかし、それでは「ハシタナイ」という観念すら持たない厚顔無恥な連中には勝てない。相手が嘘を云い立てれば、それに負けず大声で本当を史料を手に持って高く掲げて言い返さなければならない。 プレゼンの技術とは軽妙な言い回しの言葉遊びではない。相手をいかにして打ち負かすかだ。そのためには決して沈黙するのではなく、相手がどのような「嘘」をついても、それに対して堂々と事実を突きつけ続ける必要がある。それが相手の面子を徹底的に潰すことになろうとも、手心を加えてはならない。なぜなら、それこそがプレゼン(Presence)だからだ。