日本学術会議の任命拒否は学問の自由の侵害に当たらないと主張する能天気野郎たち。
<立憲民主党の枝野幸男代表は4日、菅義偉首相が日本学術会議の会員候補6人を任命しなかった問題について、「(日本学術会議法は)勝手に首相が判断できない条文の書き方になっており、明確な違法行為だ。今週衆院内閣委員会も開かれる。首相自ら出てきて説明するのが筋だ」と述べた。金沢市で記者団の質問に答えた>(以上「BIGLOBEニュース」より引用)
菅氏が日本学術会議の会員候補6人を任命しなかった件について、一部雑誌などは「学問の自由の侵害には当たらない」と論評していることに関して、反論を述べておきたい。
確かに学術会員の委員に任命されなかったからといって、学問が出来なくなるわけではない。別段、いかなる学説を取ろうと学者個人の自由を「侵害」しているとはいえない、との理屈は一見正当であるかのようだ。
しかし日本学術会議が選任し推薦した意味を菅氏が考慮しないで、菅氏の個人的な好悪の念で任命しなかったのは菅氏個人の問題ではなく、行政機関の「任命権」を日本学術会議に対して発揮したことに他ならない。
本来は政府の機関だから形式として行政の長たる総理大臣の「任命」を手続きとして定めているに過ぎず、国民によって選ばれた国会議員がすべてに君臨する、との思い上がった菅氏の論理は憲法規定に反する。
それは、たとえば国会の開会式に天皇陛下の御臨席を賜る、というのと似ている。天皇陛下がご臨席するのが国会開会の条件だが、ご臨席がなければ国会が開会できないということではない。それは国会開会のカタチとして、天皇陛下の御臨席を賜っているに過ぎない。
菅氏に日本学術会議の委員選考に関して異を唱えるほどの専門的な学術・研究に蓄積があるとは思えない。政治家として有権者の信を問う「術」に長けているのは認めるが、だからといって総理大臣がすべての国民に君臨しているわけではない。国会の首班指名を受けて行政の府の長に就いているだけだ。
つまり菅氏は専門的な学術や研究に関して日本学術会議の選考に異を唱えているのではなく、学術や研究以外の菅氏の個人的な「好悪の念」で任命を拒否した。それは形式であって実行権のない総理大臣の「あて職」の権限を発揮したことになる。極めて個人的な権限発揮といわざるを得ない。
そして菅氏が菅個人ではなく、総理大臣たる菅氏として総理大臣に付与された権限を発揮して日本学術会議の選考に嘴を挟んだことが「学問の自由」に行政権の長が侵害したことに当たる。菅氏個人が個人的な「会議」の委員選考で「俺はアイツは気に喰わないから委員から外せ」と私観を発揮しても構わない。もちろん学問の自由の侵害には当たらない。しかし菅氏は総理大臣たる菅氏に付与された「形式的な権能」を発揮したから問題なのだ。
日本学術会議の委員に任命されなくても学問の自由を侵害していない、自由に学問すれば良いではないか、と論評する者は官邸が選任している各種委員会や「分科会」などの委員の選考がかなり偏っていることには目を瞑っている。それも官邸・総理の自由だ、とでもいうつもりなのだろう。
だからこそ、総理大臣の意に沿わない専門家がせめても日本学術会議に存在していることが必要なのだ。総理大臣の周りがすべてイエスマンになったなら、政権は凄まじく腐敗するだろう。
時代の要請によって政治は移ろい変化するものだ。だからこそ「不易」の学問的な視点が必要だ。日本で学生が「デカンショ」と叫ばなくなり、人々が哲学しなくなって久しい。新刊本は「ハウツー」物で溢れかえっている。そうした出版業界に身を置く者たちから「菅氏が任命しなかったとしても、自由に学問すれば良い」などといった嘯きが聞こえるとは嘆かわしい。彼らは個人としての菅氏と総理大臣たる菅氏との区別すらつかなくなっているようだ。