緊急事態法の制定は時期尚早だ。
<日本国憲法は3日、1947年の施行から73年を迎えた。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、憲法に緊急事態条項を設けるべきだとの意見が自民党内にあることについて、毎日新聞が4月18、19日に実施した全国世論調査では45%が「賛成」と答えた。「反対」は14%、「わからない」が34%だった。
現在の国民の自由に関する意識は余り高いとはいえない。なぜなら自粛「要請」に従わない「パチンコ」店に対して、地方自治体が政府「要請」に従わない「パチンコ」店の名前を公表する、としたことに反対する世論が全くなかったどころか、住民が率先して休業しない「パチンコ」店の名を地方自治体に通報するなどがあったからだ。
事業を営むことは法律に反しない限り自由だ。それを継続するかどうかも自由だ。だから政府の自粛「要請」に従うかどうかも自由のはずだ。事業を営む者には生存権があり、従業員に労働報酬を支払う義務がある。だから事業を継続するのも自由のはずだが、日本国民の全体的な風潮として「全体の動きに従わないのは悪だ」とする全体調和の意識が強いのは個々人の自由を守る観点からしたら問題だ。
法的に鑑みれば「要請」で緊急事態で統制するのは無理がある。「命令」で緊急事態を徹底させるのならそれで良いが、「命令」なら営業停止命令に対する休業補償の義務が生じる。現在政府が行っている緊急事態は「要請」だけで「休業補償」の「義務」を逃れる不当なものだ。
日本国民にそうした「命令」と「補償」が一体のものだという認識がない限り、緊急事態法を憲法に書き込むのは危険だ。アッという間に戦前・戦中の「隣組」が出来上がり、独裁国家並みの相互監視社会が出来上がる危険性が高い。
平時において穏やかで規律正しい日本国民の特性は単一民族国家としての美風だが、緊急時においては相互監視と独裁政権を受け容れる危険性と表裏一体の関係にある。現在でもGHQの自虐史観が幅広く国民の浸透しているのも、そうした危険性の一面だ。つまり権力者に簡単に跪いてしまう脆弱性が日本国民にはある。
確たる個人が確立されていない、と日本国民は欧米から思われている。全くその通りだ。米国では武漢肺炎がニューヨークで蔓延している最中に、他の都市では店舗などの再開を求めるデモが起きている。営業権を侵害するな、という自由の権利を縛っている当局の「緊急事態」命令に対する反対意思の表明だ。
日本ではまだ一人も武漢肺炎の感染患者も出ていない岩手県にも一様に緊急事態宣言に基づく自粛「要請」が実施されている。大した数の感染患者が出ていない地方ですら首相「要請」の小・中・高の一斉閉校に従っている。その上知事が「9月新学期」に賛意まで表明する有様だ。
就学の義務は憲法に定められている権利でもある。それを首相の「要請」で全国一律で奪っている現状にゾッとする日本国民が少ないのにゾッとする。さらに就学の権利を9月まで奪う話が出ることにゾッとする。それが9月新学期に変える「絶好の機会だ」と発言する都知事には仰天するしかない。
だから日本に緊急事態法は無理だと考える。緊急事態が制定されれば、いつか来た道を日本が歩むことになるのはこれまで指摘した日本国民の特性から明白だ。隣組を組織するまでもなく、列を乱す者を許さない特性が「要請」に従えと他者の営業権を奪うことに躊躇しない。自分も自粛しているのだから、お前も従え、というのは余計なお節介だ。
自粛「命令」には補償が伴うが、自粛「要請」には補償が必ずしも伴わない。さらに今回の「緊急事態宣言」で露呈した感染症対策に必要な医療物資の補給を政府が確保していない実態も露呈した。マスクの不足に「二枚のマスク」を各世帯に配布することが「緊急事態宣言」の実態ではあってはならない。マスクが日常的にドラッグストアの店頭から消えないように「措置」するのが政府・厚労省の仕事だったはずだ。そうした権利と義務を追及する記事が一つとして出て来ない日本のマスメディアがある限り、緊急事態法の制定は時期尚早だ。
自民党は大地震などの大災害に対応するためとして、2018年にまとめた4項目の憲法改正条文案に緊急事態条項の創設を盛り込んだ。そこには、内閣の権限を一時的に強化する案と、選挙が実施できない場合に国会議員の任期を延長する案を併記している。新型コロナの問題で政府の緊急事態対応に注目が集まる中、自民党内には改憲機運を盛り上げたい思惑もあるようだが、議論が活発化しているとは言い難い。
自民党の政党支持率は29%で、支持層の63%が「賛成」。一方で全体の43%を占める無党派層では「わからない」の40%と「賛成」の38%がほぼ並び、「反対」は17%だった。野党の多くは「国民の権利制限に歯止めが掛からない懸念がある」と慎重で、その支持層では「反対」が多いか賛否が拮抗(きっこう)している。
安倍晋三首相の在任中に憲法改正を行うことには「反対」が46%で、「賛成」の36%を上回った。昨年4月の調査でも同様の質問に「反対」48%、「賛成」31%だった。
自民党の改憲条文案のうち、自衛隊の存在を明記する案には「賛成」34%、「反対」24%、「わからない」33%だった。質問の仕方が異なるため単純に比較はできないが、昨年の調査でも「賛成」27%、「反対」28%、「わからない」32%と回答が割れていた>(以上「毎日新聞」より引用)現在の国民の自由に関する意識は余り高いとはいえない。なぜなら自粛「要請」に従わない「パチンコ」店に対して、地方自治体が政府「要請」に従わない「パチンコ」店の名前を公表する、としたことに反対する世論が全くなかったどころか、住民が率先して休業しない「パチンコ」店の名を地方自治体に通報するなどがあったからだ。
事業を営むことは法律に反しない限り自由だ。それを継続するかどうかも自由だ。だから政府の自粛「要請」に従うかどうかも自由のはずだ。事業を営む者には生存権があり、従業員に労働報酬を支払う義務がある。だから事業を継続するのも自由のはずだが、日本国民の全体的な風潮として「全体の動きに従わないのは悪だ」とする全体調和の意識が強いのは個々人の自由を守る観点からしたら問題だ。
法的に鑑みれば「要請」で緊急事態で統制するのは無理がある。「命令」で緊急事態を徹底させるのならそれで良いが、「命令」なら営業停止命令に対する休業補償の義務が生じる。現在政府が行っている緊急事態は「要請」だけで「休業補償」の「義務」を逃れる不当なものだ。
日本国民にそうした「命令」と「補償」が一体のものだという認識がない限り、緊急事態法を憲法に書き込むのは危険だ。アッという間に戦前・戦中の「隣組」が出来上がり、独裁国家並みの相互監視社会が出来上がる危険性が高い。
平時において穏やかで規律正しい日本国民の特性は単一民族国家としての美風だが、緊急時においては相互監視と独裁政権を受け容れる危険性と表裏一体の関係にある。現在でもGHQの自虐史観が幅広く国民の浸透しているのも、そうした危険性の一面だ。つまり権力者に簡単に跪いてしまう脆弱性が日本国民にはある。
確たる個人が確立されていない、と日本国民は欧米から思われている。全くその通りだ。米国では武漢肺炎がニューヨークで蔓延している最中に、他の都市では店舗などの再開を求めるデモが起きている。営業権を侵害するな、という自由の権利を縛っている当局の「緊急事態」命令に対する反対意思の表明だ。
日本ではまだ一人も武漢肺炎の感染患者も出ていない岩手県にも一様に緊急事態宣言に基づく自粛「要請」が実施されている。大した数の感染患者が出ていない地方ですら首相「要請」の小・中・高の一斉閉校に従っている。その上知事が「9月新学期」に賛意まで表明する有様だ。
就学の義務は憲法に定められている権利でもある。それを首相の「要請」で全国一律で奪っている現状にゾッとする日本国民が少ないのにゾッとする。さらに就学の権利を9月まで奪う話が出ることにゾッとする。それが9月新学期に変える「絶好の機会だ」と発言する都知事には仰天するしかない。
だから日本に緊急事態法は無理だと考える。緊急事態が制定されれば、いつか来た道を日本が歩むことになるのはこれまで指摘した日本国民の特性から明白だ。隣組を組織するまでもなく、列を乱す者を許さない特性が「要請」に従えと他者の営業権を奪うことに躊躇しない。自分も自粛しているのだから、お前も従え、というのは余計なお節介だ。
自粛「命令」には補償が伴うが、自粛「要請」には補償が必ずしも伴わない。さらに今回の「緊急事態宣言」で露呈した感染症対策に必要な医療物資の補給を政府が確保していない実態も露呈した。マスクの不足に「二枚のマスク」を各世帯に配布することが「緊急事態宣言」の実態ではあってはならない。マスクが日常的にドラッグストアの店頭から消えないように「措置」するのが政府・厚労省の仕事だったはずだ。そうした権利と義務を追及する記事が一つとして出て来ない日本のマスメディアがある限り、緊急事態法の制定は時期尚早だ。