翁長知事の死を悼む。
<米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題で、反対派の先頭に立ってきた翁長雄志知事(67)が死去した。辺野古の埋め立て承認を県が撤回して工事を止め、秋の知事選で争点にして翁長氏を立てて対抗するという反対派の筋書きは、見直しを迫られる>(以上「朝日新聞」より引用)
翁長沖縄県知事が死去したという。辺野古沖移設を巡って反対の沖縄県民の声を政府に届けようと命懸けで戦っていた戦士だった。
前任者の知事が沖縄県知事選で辺野古沖移設に反対表明していたにも拘らず、任期終了間際に突如として「公有水面埋め立て認可」を出したのがこの問題の端緒だった。もっとも辺野古沖を普天間基地移設先とした政府こそが問題の出発点だが。
地域住民や国民の暮らしを第一に考えない知事や政府は何かを誤魔化している、と思った方が良い。日本の防衛のために沖縄の米軍基地が必要だ、というのは米軍基地が沖縄県民の暮らしを第一に考えているのか、という観点から考えれば良い。
そうすると答えは明らかだ。いや「国土防衛」と「沖縄県民の暮らし」とは切り離して考えるべきだ、と主張する似非評論家がいるが、沖縄県民の暮らしを考えないで日本の国土防衛を唱えるのは無理がある。
沖縄もまた日本の国土だ。沖縄に中國が攻めて来る、という状況にあるのならまだしも、攻めて来もしない敵に備えて沖縄に多くの米軍基地を抱えるのは余りに不自然だ。
沖縄の米軍基地は日本の防衛のためではなく、アジア全域の米軍の基地として機能している。つまり日本防衛のための軍事基地などではない。そのことが沖縄を米国の戦争に巻き込み、日本の安全を危うくしている。
たとえば英国は米国と固い同盟関係にある。しかし英国内に米軍機基地があるだろうか。欧州全域をロシアの軍事的脅威から守るには英国に米軍基地を置くのはまさしく沖縄に米軍基地があるのと同じ「要石」だ。
しかし英国内に米軍基地はない。ただ米国はNATO北大西洋条約機構を欧州諸国と結んで本部をベルギーのブリュッセルに置いている。そのNATOも旧ソ連の崩壊による冷戦の終結により存続の必要性が議論されている状態だ。
世界の軍事的緊張関係は誰が作っているのか。世界を支配しているのは人類だから、戦争を仕掛けるのもまた人類だ。個々の人間は死にたくないだろうし、幸せに家族ととも暮らしたいはずだ。だとすれば個々人の願望を踏み躙る者たちが戦争の脅威を世界に撒き散らし、戦争を煽っていると考えるのが自然だ。
個々人の希望を打ち砕く者たちの「原動力」「動機」はもちろん覇者としての地位ではなく、金儲けだろう。他者を犠牲にしても構わない金儲けの亡者たちが戦争を世界に撒き散らし、マスメディアを使って各国民に戦争を美化し愛国心を煽り立てている。種々の国際スポーツ大会も金儲けと愛国心の高揚に役立つから、そうした連中がマスメディアを使って国際競技大会を大いに盛り上げている。
世界で戦争を仕掛けているのは軍産共同体だ。軍は平和な世界に存在するだけではいつ解体されるか不安で仕方ない。軍事的緊張があり、時には小競り合いがあってこそ存在意義を各国民が認めてくれる。
軍需産業も戦争がなければ製造を休止するしかない。しかし世界の何処かで戦争があれば製造が続けられるし研究・開発に勤しむことも出来る。つまり軍産共同体にとって戦争はなくてはならない必要不可欠な存在立証の機会そのものだ。彼らの金儲けと存続のために国民は兵士に取り立てられ、マスメディアはあらゆる機会をとらえて愛国心を高揚させる。サッカーワールドカップというプロスポーツのほんの一つで国民が湧きたち、アナウンサーが絶叫するのは軍産共同体の関係者にとって慶賀の至りそのものではないか。
古代ローマ市民は「パンとサーカス」で飼い慣らされて滅びの道を歩んだ。沖縄に安倍自公政権は巨額「特別開発援助」をちらつかせて沖縄県民を懐柔しようとしている。沖縄県民を見下した実に卑劣なやり方だ。
「パンとサーカス」に利用された沖縄海洋博会場が今はどうなっているか、ご存知だろうか。現在は「跡地」が海洋博公園という名の国立公園になっている。ただ海洋博当時の施設は既にない。
沖縄の米軍基地は米国にとって必要かもしれないが、日本にとって、とりわけ沖縄県民にとって必要ではない。米軍に治外法権が認められている現行の日米地位協定で大量の米軍を抱える沖縄は米軍に占領地と化している。中国が沖縄を占領する、と脅す日本政府は米国に占領されている実態には何も触れない。米軍機が民間私有地に墜落しても日本による実地事故調査すらできない状況にあることを憂えない政治家は日本の政治家だといえるのだろうか。
日本の防衛は日本国民が担うべきだ。そのために必要な軍備は必要だが、同時に近隣友好関係も重要だ。いわれなき反日宣伝に対しては史実と史料を掲げて堂々と反論すべきだ。マヤカシや微笑外交でその場を乗り切ろうなどと姑息な考えをしてはならない。
翁長氏は沖縄県民の幸福を第一に考えて実践され、立派な沖縄県知事として他界された。今はただご冥福を祈るしかない。--合掌。
翁長沖縄県知事が死去したという。辺野古沖移設を巡って反対の沖縄県民の声を政府に届けようと命懸けで戦っていた戦士だった。
前任者の知事が沖縄県知事選で辺野古沖移設に反対表明していたにも拘らず、任期終了間際に突如として「公有水面埋め立て認可」を出したのがこの問題の端緒だった。もっとも辺野古沖を普天間基地移設先とした政府こそが問題の出発点だが。
地域住民や国民の暮らしを第一に考えない知事や政府は何かを誤魔化している、と思った方が良い。日本の防衛のために沖縄の米軍基地が必要だ、というのは米軍基地が沖縄県民の暮らしを第一に考えているのか、という観点から考えれば良い。
そうすると答えは明らかだ。いや「国土防衛」と「沖縄県民の暮らし」とは切り離して考えるべきだ、と主張する似非評論家がいるが、沖縄県民の暮らしを考えないで日本の国土防衛を唱えるのは無理がある。
沖縄もまた日本の国土だ。沖縄に中國が攻めて来る、という状況にあるのならまだしも、攻めて来もしない敵に備えて沖縄に多くの米軍基地を抱えるのは余りに不自然だ。
沖縄の米軍基地は日本の防衛のためではなく、アジア全域の米軍の基地として機能している。つまり日本防衛のための軍事基地などではない。そのことが沖縄を米国の戦争に巻き込み、日本の安全を危うくしている。
たとえば英国は米国と固い同盟関係にある。しかし英国内に米軍機基地があるだろうか。欧州全域をロシアの軍事的脅威から守るには英国に米軍基地を置くのはまさしく沖縄に米軍基地があるのと同じ「要石」だ。
しかし英国内に米軍基地はない。ただ米国はNATO北大西洋条約機構を欧州諸国と結んで本部をベルギーのブリュッセルに置いている。そのNATOも旧ソ連の崩壊による冷戦の終結により存続の必要性が議論されている状態だ。
世界の軍事的緊張関係は誰が作っているのか。世界を支配しているのは人類だから、戦争を仕掛けるのもまた人類だ。個々の人間は死にたくないだろうし、幸せに家族ととも暮らしたいはずだ。だとすれば個々人の願望を踏み躙る者たちが戦争の脅威を世界に撒き散らし、戦争を煽っていると考えるのが自然だ。
個々人の希望を打ち砕く者たちの「原動力」「動機」はもちろん覇者としての地位ではなく、金儲けだろう。他者を犠牲にしても構わない金儲けの亡者たちが戦争を世界に撒き散らし、マスメディアを使って各国民に戦争を美化し愛国心を煽り立てている。種々の国際スポーツ大会も金儲けと愛国心の高揚に役立つから、そうした連中がマスメディアを使って国際競技大会を大いに盛り上げている。
世界で戦争を仕掛けているのは軍産共同体だ。軍は平和な世界に存在するだけではいつ解体されるか不安で仕方ない。軍事的緊張があり、時には小競り合いがあってこそ存在意義を各国民が認めてくれる。
軍需産業も戦争がなければ製造を休止するしかない。しかし世界の何処かで戦争があれば製造が続けられるし研究・開発に勤しむことも出来る。つまり軍産共同体にとって戦争はなくてはならない必要不可欠な存在立証の機会そのものだ。彼らの金儲けと存続のために国民は兵士に取り立てられ、マスメディアはあらゆる機会をとらえて愛国心を高揚させる。サッカーワールドカップというプロスポーツのほんの一つで国民が湧きたち、アナウンサーが絶叫するのは軍産共同体の関係者にとって慶賀の至りそのものではないか。
古代ローマ市民は「パンとサーカス」で飼い慣らされて滅びの道を歩んだ。沖縄に安倍自公政権は巨額「特別開発援助」をちらつかせて沖縄県民を懐柔しようとしている。沖縄県民を見下した実に卑劣なやり方だ。
「パンとサーカス」に利用された沖縄海洋博会場が今はどうなっているか、ご存知だろうか。現在は「跡地」が海洋博公園という名の国立公園になっている。ただ海洋博当時の施設は既にない。
沖縄の米軍基地は米国にとって必要かもしれないが、日本にとって、とりわけ沖縄県民にとって必要ではない。米軍に治外法権が認められている現行の日米地位協定で大量の米軍を抱える沖縄は米軍に占領地と化している。中国が沖縄を占領する、と脅す日本政府は米国に占領されている実態には何も触れない。米軍機が民間私有地に墜落しても日本による実地事故調査すらできない状況にあることを憂えない政治家は日本の政治家だといえるのだろうか。
日本の防衛は日本国民が担うべきだ。そのために必要な軍備は必要だが、同時に近隣友好関係も重要だ。いわれなき反日宣伝に対しては史実と史料を掲げて堂々と反論すべきだ。マヤカシや微笑外交でその場を乗り切ろうなどと姑息な考えをしてはならない。
翁長氏は沖縄県民の幸福を第一に考えて実践され、立派な沖縄県知事として他界された。今はただご冥福を祈るしかない。--合掌。