翁長氏の遺言。
<かつて自民党の有力政治家は、沖縄に対する「贖罪の精神」を抱え、ライフワークとして沖縄と向き合った。だが、党県連幹事長を務めた翁長氏や沖縄保守政界の重鎮の宮城氏と「情」を通わせる本土の保守政治家は表舞台から消えつつあった。
オスプレイ配備反対を掲げ、県内全市町村長らが参加する要請団が13年1月、東京・銀座をデモ行進した際、旭日旗を掲げる団体から「売国奴」「日本から出ていけ」などと罵声を浴びた。翁長氏は、「本土の無理解」を痛烈に胸に刻んだ。
「沖縄の自己決定権を確立するしかない」。この目標に向かうとき、翁長氏の中で県内の保守・革新を隔てる壁は消えた。しかし、「オール沖縄」を掲げ、14年の知事選で圧勝した翁長氏にも、「本土の壁」を破ることはできなかった。
「翁長知事逝去」の報が入る数時間前。与党県議らが宮城氏を訪ね、次回知事選での継続支援を要請した。翁長氏が立候補できないケースも考慮せざるを得ない状況での協力依頼に、宮城氏は首を縦に振ることはしなかったという。
獨協大学特任助手の平良好利氏は「翁長氏が闘った相手は、直接的には安倍政権だったが、より本質的には戦後日本の『国のかたち』そのものだった」と総括する。
「沖縄に過重な基地負担を負わせたまま、憲法9条と日米安保条約によって成り立ってきたこの『国のかたち』と、翁長氏は正面から対峙したのです」
翁長氏は、9条に寄りかかってそこに安住する「護憲派」と、米国に寄りかかって自立の問題に鈍感な「日米同盟派」を、ともに批判した、と平良氏は指摘する。
「戦後日本の本質的な構造が見えたのも、翁長氏が沖縄の保守政治家だったからです」>(以上「AERAdot.」より引用)
オスプレイ配備反対を掲げ、県内全市町村長らが参加する要請団が13年1月、東京・銀座をデモ行進した際、旭日旗を掲げる団体から「売国奴」「日本から出ていけ」などと罵声を浴びた。翁長氏は、「本土の無理解」を痛烈に胸に刻んだ。
「沖縄の自己決定権を確立するしかない」。この目標に向かうとき、翁長氏の中で県内の保守・革新を隔てる壁は消えた。しかし、「オール沖縄」を掲げ、14年の知事選で圧勝した翁長氏にも、「本土の壁」を破ることはできなかった。
「翁長知事逝去」の報が入る数時間前。与党県議らが宮城氏を訪ね、次回知事選での継続支援を要請した。翁長氏が立候補できないケースも考慮せざるを得ない状況での協力依頼に、宮城氏は首を縦に振ることはしなかったという。
獨協大学特任助手の平良好利氏は「翁長氏が闘った相手は、直接的には安倍政権だったが、より本質的には戦後日本の『国のかたち』そのものだった」と総括する。
「沖縄に過重な基地負担を負わせたまま、憲法9条と日米安保条約によって成り立ってきたこの『国のかたち』と、翁長氏は正面から対峙したのです」
翁長氏は、9条に寄りかかってそこに安住する「護憲派」と、米国に寄りかかって自立の問題に鈍感な「日米同盟派」を、ともに批判した、と平良氏は指摘する。
「戦後日本の本質的な構造が見えたのも、翁長氏が沖縄の保守政治家だったからです」>(以上「AERAdot.」より引用)
オール沖縄は沖縄県民の意思だ、と翁長氏は国に伝えて来た。そこには「保守」も「革新」もない。オール沖縄の声に国は耳を傾けるべきだ。
日本政府は誰のためにあるのか。もちろん日本国民の税で運営するこの国の政治主体は日本国民のために権力を行使すべきだ。だが、現実はそうなっていない。
沖縄の米軍基地は日本の防衛のためにあるのか。沖縄から米軍が撤退したら直ちに中国が攻めて来るのか。そのために沖縄に米軍が駐留していると日本政府は説明してきた。
だが日米安全保障条約は中国が沖縄の島嶼を攻撃してきた場合に、直ちに米軍が出撃するようにはなっていない。米軍基地が直接攻撃された場合を除いて、まず自衛隊が全面的に戦い、米軍は本国議会の議決を待って参戦することになる。
その割に、米軍は日本に膨大な弾薬や石油を備蓄している。弾薬に関しては実に本国の弾薬の総量以上の弾薬を備蓄している。石油も自衛隊がフルに活動して二年も活動を維持できる量だという。
それらは日本の防衛のためではない。日本に駐留する米軍は米国の世界戦略の大きな一翼を担っている。その範囲はアジア全域だけにとどまらず、アフリカにまで及ぶ。そうした足場として日本の米軍基地は使われている。
当然、米国の世界戦略に巻き込まれ、引きずられるようにして自衛隊も憲法規定を無視して海外での「戦闘参加」まで安倍自公政権の強行採決した「戦争法」で可能になった。まさしく日本が自衛隊を差し出す形で米国の世界戦略に加担しているのが現状だ。
そうした現状認識なしに「米軍基地があるから日本の防衛は維持され、日本国民は安全だ」と考えるのは日本のマスメディアの洗脳によるものでしかない。日本のマスメディアは未だにGDQの検閲制度の影響下にある。GHQが掛けた集団催眠から未だに覚醒していない。眠ったままなのだ。
もちろん官僚たちも米国の支配下にある。政治家たちも米国の支配下にあるといって良い。そうでないなら、なぜ日本政府は日本国民のための政治を行わないのだろうか。なぜマスメディアはグローバル化に突き進み、日本と日本国民を蔑ろにする「構造改革」を批判しないのだろうか。
沖縄は米国に差し出された生贄だが、それで米国は日本を勘弁しなかった。安倍自公政権をして「戦争法」を強行させて自衛隊を世界戦略の一環で米国が使えるのを可能にした。それが証拠に集団的自衛権で海外派遣した自衛隊の指揮権は日本政府にではなく米軍にある。(2014年6月6日の国会で、小野寺五典防衛相は衆院安全保障委員会で、集団的自衛権が発動された場合の自衛隊の運用に関し「わが国に対する武力攻撃で日米両国が共同対処する場合、わが国はそれぞれの指揮系統で行動する。米軍の指揮下に入る想定はしていない。集団的自衛権の場合も同様だ」と述べたが詭弁に過ぎず、実際に集団的自衛権の発動で指揮系統が日米と二系統のままで敵と対処するのは軍事戦術上あり得ない。当然、米軍の指揮下に自衛隊が入ると理解すべきだ)
日本国民は少し考えれば当たり前のことまで判断できないようになっている。上野の山にこもる彰義隊を攻撃する際、官軍の総指揮を執ったのは長州藩の村田蔵六だった。西郷隆盛ではないし、西郷と村田がそれぞれの藩兵を率いたのでもない。指揮系統は大本営に集中一本化しなければ機能的・機動的に敵を殲滅することは出来ない。
政府答弁を詭弁だと論破しなかった日本のマスメディアは無知なのではなく、GHQの検閲体制当時の集団催眠から未だに覚醒していないだけだ。優秀な人材を揃えながら、自分たちの頭で考えようとしない愚かな集団に成り下がっている。
オール沖縄は沖縄県人が自らな頭で考える集団だ。「最低でも県外」は極めて当然のスローガンだ。そこには「保守」も「革新」もない。沖縄県民の自由意思があるだけだ。まさしく主権在民で、政治主体は国民にこそ在る。
もちろん安倍自公政権の政治権力は国民から負託されただけだ。そうした仕組みを忘れて、政治権力が「眼前に聳える山」のように意識するのは愚かというしかない。「明日の天気は変えられないが、明日の政治は変えられる」はけだし名言だ。