自動運転の開発競争よりも、自動停止車の開発と標準装備を急げ。
<夕方の病院に激しい衝突音とともに悲鳴が響き渡った。3日、福岡市博多区大博町の原三信(はらさんしん)病院にタクシーが猛スピードで突っ込んで計10人が死傷した事故。現場では「お父さん」「お母さん」と被害者に泣きすがる子供の姿も見られたという。周辺にはガラス片などが散らばり、目撃者らは一様に「病院でこんなことが起きるとは」と声を震わせた>(以上「毎日新聞」より引用)
今も毎日のように暴走車が人を傷つけ命を奪っている。
上記のタクシー運転者は別のマスメディアで「停止させるためにエンジンブレーキを掛けようとシフトダウンしたが止まらなかった」と供述していた。だが、ちょっと待ってほしい。ギヤをシフトダウンするぐらいならなぜニュートラルに入れてサイドを引かなかったのだろうか。たとえエンジンが暴走しても、ニュートラルにして動力の伝達を遮断すれば車は暴走しない。
事故を起こした64才のタクシードライバーの供述には疑問点があるが、いずれにせよ工業製品たる自動車を利用していて人に危害が及んだのには間違いない。自動車は工業製品としては致命的な欠陥商品だと批判するしかない。
そして事故の原因を運転者の「自己責任」として百%問う風潮は「非常識」の普遍化というしかない。それは当たり前のこととして工業製品は人に便益をもたらしこそすれ、被害を及ぼしてはならない、という基本的な仕様すら守っていない欠陥品だということを世界中の人たちが失念しているのに驚きを覚える。
自動車のような事故を起こす工業製品が洗濯機や冷蔵庫だったらどうだろうか。直ちに製造中止命令が起こり、製造企業は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされるだろう。
自動車の場合は購入者が「自賠責」に入って保険料金を支払い、その上「任意保険」に入って事故時の損害賠償に備える、というのが「常識」になっている。これがマトモな工業製品のあり方だろうか。
自動車製造会社は政治力と誤った「常識」により莫大な損害賠償の支払いを免れ企業利益を上げている。すべての事故責任を利用者の「自己責任」に転換させて、自らの工業製品製造社の責任から逃避している。
自動運転技術開発にまだ時間が掛るとしても、進行方向の障壁への衝突回避や人との衝突を防止するために停止する装置の開発と自動車への標準装備にそれほど時間はかからないはずだ。
そうした装置のスイッチを切って自動車を運転した者には人生が終わるほどの賠償金を課し、たとえそうして走ったとしても、緊急停止する装置も「安全性の担保」として装備しておくように義務付けるべきだ。
交通事故のニュースに毎日のように接していて、それが通常であるかのように思っている異常性に人は気付くべきだ。
今も毎日のように暴走車が人を傷つけ命を奪っている。
上記のタクシー運転者は別のマスメディアで「停止させるためにエンジンブレーキを掛けようとシフトダウンしたが止まらなかった」と供述していた。だが、ちょっと待ってほしい。ギヤをシフトダウンするぐらいならなぜニュートラルに入れてサイドを引かなかったのだろうか。たとえエンジンが暴走しても、ニュートラルにして動力の伝達を遮断すれば車は暴走しない。
事故を起こした64才のタクシードライバーの供述には疑問点があるが、いずれにせよ工業製品たる自動車を利用していて人に危害が及んだのには間違いない。自動車は工業製品としては致命的な欠陥商品だと批判するしかない。
そして事故の原因を運転者の「自己責任」として百%問う風潮は「非常識」の普遍化というしかない。それは当たり前のこととして工業製品は人に便益をもたらしこそすれ、被害を及ぼしてはならない、という基本的な仕様すら守っていない欠陥品だということを世界中の人たちが失念しているのに驚きを覚える。
自動車のような事故を起こす工業製品が洗濯機や冷蔵庫だったらどうだろうか。直ちに製造中止命令が起こり、製造企業は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされるだろう。
自動車の場合は購入者が「自賠責」に入って保険料金を支払い、その上「任意保険」に入って事故時の損害賠償に備える、というのが「常識」になっている。これがマトモな工業製品のあり方だろうか。
自動車製造会社は政治力と誤った「常識」により莫大な損害賠償の支払いを免れ企業利益を上げている。すべての事故責任を利用者の「自己責任」に転換させて、自らの工業製品製造社の責任から逃避している。
自動運転技術開発にまだ時間が掛るとしても、進行方向の障壁への衝突回避や人との衝突を防止するために停止する装置の開発と自動車への標準装備にそれほど時間はかからないはずだ。
そうした装置のスイッチを切って自動車を運転した者には人生が終わるほどの賠償金を課し、たとえそうして走ったとしても、緊急停止する装置も「安全性の担保」として装備しておくように義務付けるべきだ。
交通事故のニュースに毎日のように接していて、それが通常であるかのように思っている異常性に人は気付くべきだ。