人権教育の重要性を訴える。
<東京都中野区の大学生・寺内樺風被告は、2014年3月、埼玉県朝霞市で、当時中学1年生の少女を車に乗せ、自宅に誘拐した罪や、2年間にわたり少女を自宅で監禁した際に、脱出困難な心理状態に追い込み、重度の心的外傷後ストレス障害を負わせた罪などに問われている。
27日の初公判で寺内被告は、「監禁致傷については、誘拐して数日から数週間は監視したが、その後、2年間にわたり監視していたという意識はありません」と起訴内容を一部否認した。
裁判では被害少女の供述調書が読み上げられ、「何度も逃げようと思ったが怖くて逃げられなかった。一生、刑務所から出てこない無期懲役にしてほしい」と訴えた。
一方、弁護側は、「寺内被告は統合失調症の可能性が高く、責任能力は著しく低いと考えている」と述べた>(以上「日テレニュース」より引用)
女子中学一年生を二年間も監禁していた事件はまだ記憶に新しい。本来なら多感な成長期に得られるはずだった様々な人との出会いや学問や家族との思い出を一切閉ざされて、一室で絶望的な日々を過ごした無念さは想像を絶する。そうした人の人生に大きな傷跡を残した者に対して、法は厳しく対処すべきだ。
そして何よりも簡単に「監禁する」という決断を一人の青年がするに到ったのにも痛く驚かされた。なぜ彼の親たちは彼が女子中学生を監禁していることに気付かなかったのだろうか。なぜ彼と接する人や周囲の人たちは女子中学生が監禁されていることに気付かなかったのだろうか。
考えれば恐ろしい事件だ。彼がそうした著しい人権侵害事件を犯した背景を日本の社会は徹底して考察すべきだ。そして二度と同じような事件が起こらないように「人権教育」を徹底すべきだ。
英語教育が必要だとかプログラム教育が必要だとか叫ぶ前に、人として当たり前の常識を供えた一人前の人を教育することの方が重要なのは論を俟たない。現在の教育論は余りに「実用的」な学問に偏り過ぎてはいないだろうか。
その一方で<東京都立墨田工業高校で7月、3年生の男子生徒(18)が水泳の授業中にプールに飛び込んだ際、首の骨が折れる大けがを負ったことが都教育委員会への取材で分かった。男子生徒は胸から下にまひのような症状があり、入院している。
都教委によると、男子生徒は7月14日、保健体育の男性教諭(44)の指導で飛び込みの練習をしていた。教諭は「頭から飛び込むため」として、高さ約1メートルのところに構えた清掃用具のデッキブラシを越えるように指示。男子生徒は急な角度で入水し、プールの底で頭を打った。
当時の水深は満水時より約10センチ浅い1・1メートル。水が十分に補充されていなかったと都教委はみている。障害物を飛び越えさせるような指導は「不適切」として、都教委は事故後、都立校に再発防止を求める通知を出した>(以上<>内「朝日新聞」より引用)といった事件も起こっている。
適切な指導を教諭がしなかったばかりに高校生が授業で下半身麻痺の体になってしまったという痛ましい事故だ。普通に考えれば1.1mの水深しかないプールに1mの高さから飛び込むには体を水面と並行に近い角度で飛び込むなど相当な技術が必要なのは歴然としている。そうでもない限りプールの底で頭を打ち付けて重大な事故に到るのは高い確率で起こり得る、と考えるべきだった。
その教諭の不明は避難されて然るべきだが、その教諭に指導なり注意すべき立場の人がその場にいなかったのだろうか。プールなどの水泳授業は事故が起これば死につながる可能性が高い、と考えるのは「常識」ではないだろうか。ここでも高校生の人権が軽んじられてはいなかったのではないだろうか。
いい年をしたそれなりの立場の者が他者の人権に考えが及ばない、という現実はかなり深刻だ。たとえ綺麗な飛び込みが出来なくとも、水泳は出来る。単に水に浮くことを学んでいれば水難事故に遭っても生存できる。
それ以上の綺麗なフォームで飛び込むことを高校生に要求する必要があったのだろうか。日常的にテレビやネットなどで華麗なアクロバティックな身のこなしを目の当たりにするが、彼らは充分な訓練を積んだプロフェッショナルだ。決して一般的な教育や練習で獲得した業ではない。そのことを忘れて、美技を普通の高校生に求めるのは間違いだ。
前段の監禁の罪を犯した者は大学生だった。彼は大学生活を送りつつ、女子中学生を監禁していたという二重人格者のような未熟な人物を育てた家庭や教育も批判されて然るべきだ。
日本の社会が常識を供えた一人前の日本国民を育て上げられなかった、という現実に危機感を持たなければならない。日本は根本的な部分で箍が外れているような気がする。他者から自立するとともに、他者の人権も自信の人権と同様に尊重する、という「常識」教育が置き去りにされてはいないだろうか。
小学五年から英語教育をするという。碌に日本語も解らない子供に英語の挨拶や簡単な日常会話を教えて何になるというのだろうか。他人に迷惑を掛けない、恥を知る、社会に役立つとは何か、といったことを知ることの方がより重要ではないだろうか。
ただ自分の演説にスタンディングオペレーションを強要する首相がいる程度の国では所詮無理な相談なのかも知れないが。
27日の初公判で寺内被告は、「監禁致傷については、誘拐して数日から数週間は監視したが、その後、2年間にわたり監視していたという意識はありません」と起訴内容を一部否認した。
裁判では被害少女の供述調書が読み上げられ、「何度も逃げようと思ったが怖くて逃げられなかった。一生、刑務所から出てこない無期懲役にしてほしい」と訴えた。
一方、弁護側は、「寺内被告は統合失調症の可能性が高く、責任能力は著しく低いと考えている」と述べた>(以上「日テレニュース」より引用)
女子中学一年生を二年間も監禁していた事件はまだ記憶に新しい。本来なら多感な成長期に得られるはずだった様々な人との出会いや学問や家族との思い出を一切閉ざされて、一室で絶望的な日々を過ごした無念さは想像を絶する。そうした人の人生に大きな傷跡を残した者に対して、法は厳しく対処すべきだ。
そして何よりも簡単に「監禁する」という決断を一人の青年がするに到ったのにも痛く驚かされた。なぜ彼の親たちは彼が女子中学生を監禁していることに気付かなかったのだろうか。なぜ彼と接する人や周囲の人たちは女子中学生が監禁されていることに気付かなかったのだろうか。
考えれば恐ろしい事件だ。彼がそうした著しい人権侵害事件を犯した背景を日本の社会は徹底して考察すべきだ。そして二度と同じような事件が起こらないように「人権教育」を徹底すべきだ。
英語教育が必要だとかプログラム教育が必要だとか叫ぶ前に、人として当たり前の常識を供えた一人前の人を教育することの方が重要なのは論を俟たない。現在の教育論は余りに「実用的」な学問に偏り過ぎてはいないだろうか。
その一方で<東京都立墨田工業高校で7月、3年生の男子生徒(18)が水泳の授業中にプールに飛び込んだ際、首の骨が折れる大けがを負ったことが都教育委員会への取材で分かった。男子生徒は胸から下にまひのような症状があり、入院している。
都教委によると、男子生徒は7月14日、保健体育の男性教諭(44)の指導で飛び込みの練習をしていた。教諭は「頭から飛び込むため」として、高さ約1メートルのところに構えた清掃用具のデッキブラシを越えるように指示。男子生徒は急な角度で入水し、プールの底で頭を打った。
当時の水深は満水時より約10センチ浅い1・1メートル。水が十分に補充されていなかったと都教委はみている。障害物を飛び越えさせるような指導は「不適切」として、都教委は事故後、都立校に再発防止を求める通知を出した>(以上<>内「朝日新聞」より引用)といった事件も起こっている。
適切な指導を教諭がしなかったばかりに高校生が授業で下半身麻痺の体になってしまったという痛ましい事故だ。普通に考えれば1.1mの水深しかないプールに1mの高さから飛び込むには体を水面と並行に近い角度で飛び込むなど相当な技術が必要なのは歴然としている。そうでもない限りプールの底で頭を打ち付けて重大な事故に到るのは高い確率で起こり得る、と考えるべきだった。
その教諭の不明は避難されて然るべきだが、その教諭に指導なり注意すべき立場の人がその場にいなかったのだろうか。プールなどの水泳授業は事故が起これば死につながる可能性が高い、と考えるのは「常識」ではないだろうか。ここでも高校生の人権が軽んじられてはいなかったのではないだろうか。
いい年をしたそれなりの立場の者が他者の人権に考えが及ばない、という現実はかなり深刻だ。たとえ綺麗な飛び込みが出来なくとも、水泳は出来る。単に水に浮くことを学んでいれば水難事故に遭っても生存できる。
それ以上の綺麗なフォームで飛び込むことを高校生に要求する必要があったのだろうか。日常的にテレビやネットなどで華麗なアクロバティックな身のこなしを目の当たりにするが、彼らは充分な訓練を積んだプロフェッショナルだ。決して一般的な教育や練習で獲得した業ではない。そのことを忘れて、美技を普通の高校生に求めるのは間違いだ。
前段の監禁の罪を犯した者は大学生だった。彼は大学生活を送りつつ、女子中学生を監禁していたという二重人格者のような未熟な人物を育てた家庭や教育も批判されて然るべきだ。
日本の社会が常識を供えた一人前の日本国民を育て上げられなかった、という現実に危機感を持たなければならない。日本は根本的な部分で箍が外れているような気がする。他者から自立するとともに、他者の人権も自信の人権と同様に尊重する、という「常識」教育が置き去りにされてはいないだろうか。
小学五年から英語教育をするという。碌に日本語も解らない子供に英語の挨拶や簡単な日常会話を教えて何になるというのだろうか。他人に迷惑を掛けない、恥を知る、社会に役立つとは何か、といったことを知ることの方がより重要ではないだろうか。
ただ自分の演説にスタンディングオペレーションを強要する首相がいる程度の国では所詮無理な相談なのかも知れないが。