選挙は人気投票で良いのか。

<自民党は11日、7月の参院選の比例代表候補に歌手の伊藤洋介氏(52)を擁立すると発表した。候補を公募した上でインターネットの投票で選ぶ初めての試みで、最終選考に残った12人のうち最も多く得票したという。有効投票数は2万7952票。党公認の比例代表候補は24人目となる。

 公募には458人の申し込みがあり、約3カ月かけて選考した。茂木敏充選挙対策委員長は「人材を発掘、育成、プールする意味でも貴重な経験になった」と述べた。

 伊藤氏は「東京プリン」として音楽活動し、2013年参院選に自民党の比例代表で出馬。ツィッターなどで支持を募るネット選に徹し落選した>(以上「日経新聞」より引用)

 選挙で当選すれば失格事項に抵触しない限り、誰でも政治家になれる。またそれを保障するのが民主主義の有り様でもある。
 しかし人気さえあれば誰でも良い、というものではないだろう。政治家にはそれなりに必要とされる最低限の資質があるのではないだろうか。

 政界に「大物」といわれる政治家がすっかりいなくなった。それは与党のみならず野党を見渡しても、この人なら日本の未来を託せる、と思わせるような政治家がすっかりいなくなってしまった。ただ彼にまつわる様々な毀誉褒貶も含めて、唯一存在するのは小沢一郎氏だけではないだろうか。
 なぜ小沢一郎氏なのか、というと、彼は自身の利害に拘わらず「筋」を通すことにある。自民党に残っていれば当の昔に総理大臣になっていただろうし、今も隠然たる勢力を擁しているはずだ。しかし自民党を出て官僚政治といわれた「自民党的な政治」を終焉させようとした。つまり本来的に存在すべき官僚対政治家の対立を現実政治に実現させた稀有な政治家だ。

 今の政治家諸氏は官僚の掌で踊っているだけだ。だから誰でも良い。総理大臣が代わろうと大臣が誰になろうと官僚が主導していれば政治は変わらない。その格好の例が民主党の菅氏や野田氏による「消費増税」だ。
 民主党に政権交代があろうが、消費増税という財務官僚が敷いた路線は揺るぎなく踏襲される、という官僚政治の実態が露わになった。それに対して敢然と反対して党を出て行った小沢一郎氏とその仲間こそ国民の代表たる政治家だ。自公政権も民主党も維新の党も、消費増税を是認した政治家たちはすべて官僚のポチたちだ。

 国民の生活が第一の政治を考えるなら、消費増税をすべきではなかった。GDPの主力エンジンたる個人消費を冷やして、なにが「まっすぐ景気回復」だ。安倍自公政権の馬鹿さ加減にはウンザリだ。
 「考える力」や「国民に奉仕」精神の涵養を怠ったポッと出の政治家に一体何を期待すれば良いのだろうか。かつて武士の学問だった儒学に裏打ちされた昔の政治家には気宇壮大にして無私の人物が輩出した。現在の小ツブ政治家たちとは雲泥の差だ。

 政治が日本国内だけで完結するものなら「バカな政治家もいるものだ」と笑っていれば良く、多少の不利益を我慢すれば問題はない。しかし国際的な問題にも政治家が関与するとなると事は重大だ。何しろ国益にかかわるのだから。
 政治家にはやはり覚悟と資質ある人物になってもらわないと困る。人気さえあれば誰でも良い、というものではない。そうした観点で選ぶとテレビに出て人気が出ると政界に打って出て「喧嘩論法」で時代の寵児になり、維新の党などという政党まで作って、さっさと政界を引退してテレビタレントに戻るという節操が爪の垢ほどもない馬鹿な人物が大きな顔をするようになる。

 テレビ演芸会と国会中継を混同してはならない。テレビ演芸会は笑って済ませれば良いが、国会中継は腹を抱えて笑っていれば良い、というものではない。国民の生活が第一が行われない政治を「国民のための政治」だと主張するバカな政治家を輩出してきたここ数十年の選挙を国民は原点に戻って反省すべきだ。
 選挙は歌舞伎などの「何代目」襲名お披露目会ではない。選挙は人気者が競い合う「お笑い」や「スポーツ競技」などの演芸会ではない。選挙とは立候補者に国民が権利を付託するに足る「明日の地域を考え明日の日本を考える「議会」を構成する」議員を選ぶ行為だ。ゆめゆめ勘違いしてはならない。


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