あえて総理談話を出す必要はない。

<「談話は出す必要がなかった」。14日、安倍晋三首相が発表した戦後70年談話について、記者会見した村山富市元首相(91)から批判の言葉が次々と発せられた。「何を言いたかったのか」「中身について評価するところはない」。20年前の首相当時、戦後50年に際して談話を発表した村山氏。「各国から評価された」という自負がある村山氏にとっては、許容できないものに映ったようだ>(以上「朝日新聞」より引用)

 村山氏が安倍談話を批判しているが、そもそも村山氏が村山談話を出す必要があったのだろうか。それまで日本は先の大戦で戦場となった各国と平和裡に国際条約を締結して戦後国際関係を構築してきていた。
 中・韓に対しても日本政府は先の大戦と大戦に到る関係を清算し、それ以後各国に対して経済支援やODAなどを通してあらゆる援助を惜しみなく続けてきた。そうした平和外交をブチ壊したのが村山談話だ。

 過ぎたるは及ばざるが如しという。援助も度を過ぎると各国は「有り難い」と思うよりも、戦前・戦中の「日本の蛮行」に対する償いとして受け取る当然の権利だ、いやまだまだ少なすぎる、もっと寄越せ、もっと謝罪しろ、という態度に変化してきた。まさしく、過ぎたるは及ばざるが如しだ。
 侵略という言葉に対しては、日本だけが「侵略」したのではない。欧米列強も激しく「侵略」していた。それも自国の防衛とは甚だしく関わりのないアフリカやアジアに軍隊を送って現地住民を殺害し、現地住民の人権を侵害する植民地経営を行った。

 しかし日本は日本の防衛と深く関わりのある周辺地域を「併合」したに過ぎない。カリフォルニア州の一部を「租借地」として奪い取って軍隊を駐留したのでもなければ、シリアやマルタ島を占領して要塞化したのでもない。日本はまさしく欧米列強の帝国主義と対峙して日本の防衛のために海外へ軍隊を派兵したに過ぎない。
 対・中国に関しても、清国が倒れた後の無政府状態の中国に欧米列強が大挙して蚕食している状態で、東北部を満州国として独立させて欧米列強の侵食する緩衝地帯に仕立てようとしていたに過ぎない。

 歴史の中から日本だけを取り上げて「謝罪」するのはやめるべきだ。当時の国際社会がいかなるものであったのか、日本に迫る欧米列強の軍事的脅威に対して、いかに当時の日本の先人たちが身に迫る危機感から「富国強兵」に総力を上げざるを得なかったかを考えるべきだ。
 欧米列強が先の大戦前と大戦以後に植民地を手放すまでの期間に関して、真摯に現地住民に対する人権蹂躙と資源収奪に関して「反省」と「謝罪」を表明するなら、日本の村山談話は合理性を持つかもしれない。しかし、そうした素振りの欠片もないにも拘らず、日本が敢えて村山総理談話なるモノを発表して謝罪するとは欧米列強からすれば歴史を逆行させる噴飯モノに映った事だろう。

 村山氏は村山談話を出して国際的に「評価された」と自画自賛しているが、飛んでもないことだ。国際的に非常識なことを仕出かしたピエロを見る目で拍手したに過ぎない。日本の外交音痴を愛でていたに過ぎない。
 日本は村山談話により戦後50年間、先人たちが辛苦の末に大戦の傷跡を癒し、忌々しい記憶に蓋をしてきた労苦を水泡に帰す愚行を行ったに過ぎない。それを踏襲するだの受け継ぐだのということは過去の記憶箱をひっくり返すことに他ならない。

 スペインはインカ文明を破壊して地上から永遠に消し去ったことをペルーやボリビアなどのインカの子孫たちに謝罪しただろうか。1000万人ものアフリカ原住民を奴隷として使役したことに関して、米国政府はアフリカ西海岸諸国に対して謝罪しただろうか。
 歴史とはそうしたことだ。蒸し返して謝罪するのは心地良いかも知れない。事実、村山氏は「ワシの談話は世界から歓迎された」と得々として述べている。それによりそれ以後の日本がどれほど批判され謝罪を求められてきたかを見ないで、まだ「謝罪しろ」と言うとは、村山氏は真の国際関係が何も解っていないと批判するしかない。「謝罪」すべきは歴史に対してであり、現実に生き延びている人たちとは未来の協力関係を誓うべきだ。


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