「戦争法案」に対して、求めるべきは「慎重審議」ではなく「廃案」だ。

<安倍晋三首相は9日、長崎市で記者会見し、田上富久市長が平和宣言で慎重審議を求めた安全保障関連法案について「戦争を未然に防ぐためのもので、国民の命と平和な暮らしを守り抜いていくために必要不可欠なものだ」と強調した。
 同時に「外交を通じて平和を守っていくことが重要なのは言うまでもない。今後とも積極的な平和外交を進めていく」と説明。一方で日本をめぐる安保環境が厳しさを増しているとして「万が一への備えを怠ってはいけない」と理解を求めた。
 新たな安保法制の整備が戦争につながるとの指摘については「私たち日本人は、誰ひとりとして戦争など望んでいない」と反論>(以上「ロイター」より引用)

 安倍氏は「平和を求めるが、日本への軍事的脅威が増している」から日本国民の命と平和を守る備えとして「戦争法案」が必要だと主張している。そして「私達は誰一人として戦争を望んでいない」から「戦争法案が成立しても備えは固くなりはしても戦争にはならない」などと論理矛盾した説明を堂々と行っている。彼の思考は異常をきたしているとしか思えない。
 戦争をしたくないのだったら戦地に近づかないことだ。簡単な理屈ではないだろうか。それでは国際平和は守れない、というのなら国際平和は日本が後方支援したら守れるのか、と反対に問いたい。国際平和を乱しているのは一体誰なのか、という根源的な問いを私たちはしなければならない。

 アフガンがタリバンの支配下になる、という理屈で旧ソ連が軍事介入し、それが失敗して撤退すると、その後を引き受けて米国が軍事侵攻した。しかしタリバンの支配下になって欧米型の民主主義とは異なる宗教政権国家が出現するとして、それがどうしたというのだろうか。
 中東の多くの国は王政国家で欧米型の民主主義国とは言い難い。しかし米国がサウジアラビアに軍事侵攻するとはなかったし、これからもないと思われる。見事なダブルスタンダードではないだろうか。それは中共政府や北朝鮮の金独裁政権に対しても同様だ。つまり米国の気に入らない政権に対しては軍事侵攻する、という「平和のための戦争」が果たして国際平和をもたらすのだろうか。

 米国傀儡政権の支配するアフガンの首都で爆弾テロがあって20人もの犠牲者が今も出ている。テロに屈してはならない、という認識は私も持つが、テロを行わざるを得ない人たちを作ったのは何だったのか、という反省も私たちはしなければならない。
 報復の連鎖の最初のコマを進めたのは誰だったのか。その目的は何だったのか。
 旧日本軍が前線を広げて収拾がつかなくなって敗戦の道を転がり落ちたように、米国も戦線を広げ過ぎて軍隊が世界に拡散したため戦線の収縮を図っている。イランに対して核開発に関して制裁していたのを緩和するという。キューバに対しても民主化したわけでもないが、国交を回復するという。しかし日本が自衛隊を米軍とともに「後方支援」とはいえ世界で軍事行動できるようになれば米国にとってこれほど好都合なことはないだろう。

 安倍氏が何と言って否定しようと、「戦争法案」は米国の戦争のお手伝いを日本がすることに他ならない。何よりの証拠に安倍氏は日本の国会で法案の趣旨説明する以前に、米国議会で成立を確約した。これほど愚かな日本の首相を私は知らない。
 米国は世界平和のために世界で戦争をしているのではない。米国の1%のために戦争をして、米国民を戦地の地獄へ派遣しているのだ。そして結果として報復の連鎖が始まり戦線なきテロの増大に手を焼いている。

 日本が米国の立場に立って戦争の一端を担うことが世界平和に寄与することなのだろうか。安倍氏をはじめとする自公与党政治家たちが「戦争法案」成立という悪夢から覚醒することを望む。憲法違反の法案を「慎重審議」する必要はなく、「廃案」こそが政治家諸氏の採るべき選択肢だ。


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