日本国憲法は「お飾り」か

 日本国憲法第81条には次のように書かれている。
��最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である>(<>内「日本国憲法」引用)

 憲法に平和をいかに謳っていても合法的手続きにより憲法の精神が踏み躙られて戦争へと突き進むことがある、という教訓はワイマール憲法下のドイツ・ナチスの教訓によって世界人類は知っている。そうしたことを抑止するために、日本国憲法にも「違憲立法審査権」を最高裁判所に付与している。
 しかし昭和27年の判例により日本国憲法は米国型の「違憲立法審査権」を定めているのであって、ヨーロッパ型の抽象的な概念で「違憲立法審査」権を持つのではないとされている。

 つまり個別具体的な事案に対して審査を行うというのが米国型で、政府と国会の独立性を大きく認めるものだ。だから自衛隊創設に対して日本の裁判所は違憲判断をしなかったとされている。
 ヨーロッパ型はナチス・ドイツの合法的な選挙による政界進出により結局は戦争へと突き進んだ反省から、抽象的な「法案審議」そのものが違憲か否かを審査するとしている。日本は米国型だから直接・具体的な「事件」が起こって、それに対して提訴されて裁判所が判断を下すというのだ。しかし、それでは日本国憲法は「お飾り」に過ぎない。政府と国会により何でも出来ると容認していることになりはしないだろうか。

 国語として憲法第九条を読み、記載されていない自衛権を勘案しても、安倍氏がやろうとしている安保法制改正は「違憲」行為だ。戦争放棄とは最低限自衛のための戦争は許容されるとしても、拡大解釈して地球の裏側で起こっている事態が日本国民に深刻な影響を及ぼすから派遣しても良い、とはならない。
 実際にこれまで深刻と思われる事態は何度かあったが、結局は日本国民生活に深刻な影響はなかった。むしろ日本国民に深刻な影響があったのはオペックによる原油値上げによる「アイルショック」であり、プラザ合意による「円切り上げ」の為替問題であった。武力の行使による「深刻な影響」はそれこそ抽象的なものでしかなかった。

 日本の自衛隊が武力行使できるのはあくまでも日本の周辺においてと限定すべきだ。世界史を見ても平和のため以外の戦争は起こっていない。つまり古今東西の政治家は「平和のため」を口実として戦争をやってきた。米国がベトナムに侵攻したのも「共産化されるドミノ理論」がその根拠だった。
 しかし米国が敗退しても周辺諸国がベトナムの影響を受けて共産化していない。つまりドミノ理論は誤りだった。しかし米国はベトナム戦争に対して真摯な反省をしたとは思えない。それ以降も「タリバンの圧政から解放する」と称してアフガンに侵攻してアフガンの人々を塗炭の苦しみに陥れている。

 サダム・フセインの「大量破壊兵器」を保持して独裁態勢下でイラク民の人権を侵害している、と表向きの口実として米国はイラク進攻を決意したが、勝利したはずのイラク進攻が「イスラム国」の出現を許し、中東の不安定化を招いている。
 世界の覇権を手中にして米国は世界に君臨したような錯覚に陥っているに過ぎない。世界帝国などというものは一瞬の夢物語だ。ローマ帝国がそうであったし、元がそうであった。そうした軍事・覇権による世界平和などというものは幻想だ。安倍氏は21世紀の幻想に憑りつかれた米国に振り回されるポチに過ぎない。その幻想に「集団」として随行して戦争の場に臨むなどという愚策を選択してはならない。そのことは先の大戦に懲り、日本国憲法を容認した日本国民の総意ではなかったか。
 あくまでも自衛隊の活動範囲は「周辺事態」に限定すべきだ。それが「専守防衛」の限界であり、歯止めだ。日本国憲法が最高法規であるなら、その実効性を最高裁判所が担保しなければこの国の憲法は単なるお飾りになるだけでなく、日本の立憲主義とはなんたるかを国際社会の良識に問われかねない。


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