文明社会を測る尺度の一つが異なる意見を容認する社会かだ。

<ロイター通信によると、デンマークの首都コペンハーゲンで14日、表現の自由に関する会合が開かれていたカフェで発砲事件があり、市民1人が死亡し、警官3人が負傷した。会合にはイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を描いたことがあるスウェーデン出身の画家ラルス・ビルクス氏や駐デンマーク仏大使が参加していたが、2人にけがはなかったという>(以上「朝日新聞デジタル」引用)

 過激派殺戮集団と認定されつつある「イスラム国」だが、彼らが世界的な連帯を呼び掛けているイスラム原理主義者やアルカイダなどが各地でテロ事件を起こしている。人が何を振興するかは自由だが、自分の信じる教義を他人に強要したり自分の信仰を批判する者を殺戮する権利はない。
 また反対に、自分たちにとって脅威だからといって文明や宗教を異にする人たちを社会から排除したり差別してはならない。健全な「批判」や「評論」が横溢する社会は文明社会の文明度を測るバロメータの一つで、日本は明治以降さまざまな宗教や文化や思想を受け容れて社会活力の一つにしてきた。

「イスラム国」がイスラム教の教祖ムハンマドを崇めているかのように振舞っているが、彼らは所詮現世欲の塊に過ぎない。もっと良い家に棲みたい、もっと良い食にありつきたい、もっと多くのカネを持ちたい、といった現世欲は満たされることのない底なし沼だ。
 実際の人生では自己の現世欲と現実と折り合いをつけて生きていかなければならないが、そこに介在する「触媒」の一つが宗教だろう。現世を超越して未来永劫に生きる魂の存在を信仰することによって、現世欲の桎梏から精神を解き放つ。それこそが宗教の大きな役割だ。それ以外の現世御利益を説く宗教や、医者紛いの信じれば病気が治るなどといったものは原始シャーマニズムのコケオドシに過ぎない。

 ネットの板にも他者をメッタメタに批判して独善的なドグマに陥っている酷いものがある。自己の陶酔する政治家を批判しようものなら機関銃のように定型文句を書き連ねる。それこそ底の浅いプロパガンダに囚われた輩たちの集う板ということだ。
 そうした独善的なドグマに身を委ねた一種の思考停止集団が他者の思想・信条の自由と表現の自由を「テロ」で奪い去るとは最も唾棄すべきことだ。彼らには他者を殺害する権利もないし、彼らが崇めると標榜しているムハンマドも眉を顰めて戒めるだろう。彼らがイスラム教を熱心に信仰している世界のイスラム教徒を冒涜している張本人だとなぜ気づかないのだろうか。

 世界のイスラム教の指導者たちは「イスラム国」とその仲間たちに「異教徒」宣告をすべきだ。ムハンマドが提起した聖戦と「テロ」とは根本から異なることを世界に宣言すべきだ。
 しかし、仏教宗教者たちの沈黙は一体なんだろうか。宗教を標榜する戦争はナンセンスだ。現世欲を満たすことを行動原理にする宗教は似非・宗教に過ぎないと、なぜ宗教者たちは主張しないのだろうか。彼らもまた現世欲に囚われた哀れな似非・宗教者だとでもいうのだろうか。


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