不易流行。
不易と流行とは流行り廃れのある表面的なものと、時とともに価値や評価が変化するものではないものとの区別を云う。または識別できる鑑識眼のある人を指す場合もある。
さて、小保方氏のSTAP細胞研究が捏造と指摘されて久しく学会のみならず世間を騒がせている。科学研究であれば「いつどこで誰が」再現しようと、研究で提示されている条件が同じならSTAP細胞が出来なければならない。それが人類に寄与する科学研究の成果だ。
小保方氏の研究が他人の研究論文の「切り張り」ではないかと指摘されている。そしてSTAP細胞なるモノは存在しないと断定されようとしている。科学的な論文の検証は科学的になされるだろう。
IT技術の進展により他人の論文の「切り張り」は容易になった。一時高精度なコピー機が市販された当時に紙幣のコピーが偽札として使用される事件が多々あった。科学研究はそれまでの他人の果たした成果を踏まえて、更に新しく発見し論理を確立していく作業だ。だからある程度他人の論文の「切り張り」が混入するのは避けられないし、それを批判するものではない。
しかし当人の「オリジナリティ」としていたものまでが他人の論文と研究成果を「切り張り」していた捏造であるなら、科学的な評価をすべくもない。小保方氏の弁明は何処までが「切り張り」で、何処からが自身の研究成果かを明らかにすることだろう。
それもSTAP細胞が現実に存在していてのことだ。顕在まで何人かの研究者たちが小保方STAP細胞の再現を試みているようだが、誰も成功していないという。それなら残念だが結論は明らかだ。
不易と流行、という短期的には見分けはつかないが、時を経れば自然と偽物はメッキがはがれ、本物は内側から光を発して来る。いかにマスメディアが誹謗中傷して名を貶めようと、本物の人物は時を経ても輝くものだ。
安倍首相は祖父・岸信介氏のように歴史に名を残す政治家になろうとしているという。しかし実像はフラフラと腰の定まらない似非・政治家としか映らない。
旧体制を打ち破る、と掲げた政治理念はいつの間にかケシ飛び、自民党の旧体制たる「官僚政治」そのものに成り果てている。財務省と官僚に奉仕し、財界と米国に奉仕し、国民を税と負担金を搾り取る装置ぐらいにしか考えていない。
福一原発放射能漏れ事故は少しも状況が好転していないにも拘らず、完全にコントロールされていると世界に向かって大嘘を公言し、「オールジャパンで当たる」と大見栄を切った事故対策も一向にツギハギだらけの事故対応は改善されていない。
中国や韓国に「筋を通す」と公言していたが、見直すはずの「村山談話」や「河野談話」を踏襲し、国会答弁で「河野談話」を検証するが見直さない、という詭弁を弄すに到っては「バカも休み休み言え」と嘆くしかない。
不易と流行。芸人は即興で設定人になり変ってコントを披露する。即妙の当で観衆の笑いを誘ったりお涙を頂戴したりするのが仕事だが、コントを音楽の世界でもヤラカシた人物まで出現した。それも障害者を装ったと思われるタチの悪いものだった。
だが、その程度のコントに「本物だ」と騙される人がいるのには驚く。
最高裁判所の裁判官に親子二代にわたる人物が就任したという。それはそれで素晴らしいのだが、この国の行政上での憲法のありようと突き合わせて考えるなら、慶賀の至りと祝福してばかりはいられない。正すを正さないで、何が最高裁判所だろうか。そういえば彼は就任にあたって「裁判員制度などのありようも検討を要する」などと最高裁にとって流行事を口にしていた。最高裁判所の不易の任務とは憲法の番人であり、行政や立法が憲法に反していないか、逸脱していないかを判断すべき使命ではないだろうか。この国の責任ある人たちに観阿弥・世阿弥父子がシンギンした「不易流行」の言葉を贈ろう。
さて、小保方氏のSTAP細胞研究が捏造と指摘されて久しく学会のみならず世間を騒がせている。科学研究であれば「いつどこで誰が」再現しようと、研究で提示されている条件が同じならSTAP細胞が出来なければならない。それが人類に寄与する科学研究の成果だ。
小保方氏の研究が他人の研究論文の「切り張り」ではないかと指摘されている。そしてSTAP細胞なるモノは存在しないと断定されようとしている。科学的な論文の検証は科学的になされるだろう。
IT技術の進展により他人の論文の「切り張り」は容易になった。一時高精度なコピー機が市販された当時に紙幣のコピーが偽札として使用される事件が多々あった。科学研究はそれまでの他人の果たした成果を踏まえて、更に新しく発見し論理を確立していく作業だ。だからある程度他人の論文の「切り張り」が混入するのは避けられないし、それを批判するものではない。
しかし当人の「オリジナリティ」としていたものまでが他人の論文と研究成果を「切り張り」していた捏造であるなら、科学的な評価をすべくもない。小保方氏の弁明は何処までが「切り張り」で、何処からが自身の研究成果かを明らかにすることだろう。
それもSTAP細胞が現実に存在していてのことだ。顕在まで何人かの研究者たちが小保方STAP細胞の再現を試みているようだが、誰も成功していないという。それなら残念だが結論は明らかだ。
不易と流行、という短期的には見分けはつかないが、時を経れば自然と偽物はメッキがはがれ、本物は内側から光を発して来る。いかにマスメディアが誹謗中傷して名を貶めようと、本物の人物は時を経ても輝くものだ。
安倍首相は祖父・岸信介氏のように歴史に名を残す政治家になろうとしているという。しかし実像はフラフラと腰の定まらない似非・政治家としか映らない。
旧体制を打ち破る、と掲げた政治理念はいつの間にかケシ飛び、自民党の旧体制たる「官僚政治」そのものに成り果てている。財務省と官僚に奉仕し、財界と米国に奉仕し、国民を税と負担金を搾り取る装置ぐらいにしか考えていない。
福一原発放射能漏れ事故は少しも状況が好転していないにも拘らず、完全にコントロールされていると世界に向かって大嘘を公言し、「オールジャパンで当たる」と大見栄を切った事故対策も一向にツギハギだらけの事故対応は改善されていない。
中国や韓国に「筋を通す」と公言していたが、見直すはずの「村山談話」や「河野談話」を踏襲し、国会答弁で「河野談話」を検証するが見直さない、という詭弁を弄すに到っては「バカも休み休み言え」と嘆くしかない。
不易と流行。芸人は即興で設定人になり変ってコントを披露する。即妙の当で観衆の笑いを誘ったりお涙を頂戴したりするのが仕事だが、コントを音楽の世界でもヤラカシた人物まで出現した。それも障害者を装ったと思われるタチの悪いものだった。
だが、その程度のコントに「本物だ」と騙される人がいるのには驚く。
最高裁判所の裁判官に親子二代にわたる人物が就任したという。それはそれで素晴らしいのだが、この国の行政上での憲法のありようと突き合わせて考えるなら、慶賀の至りと祝福してばかりはいられない。正すを正さないで、何が最高裁判所だろうか。そういえば彼は就任にあたって「裁判員制度などのありようも検討を要する」などと最高裁にとって流行事を口にしていた。最高裁判所の不易の任務とは憲法の番人であり、行政や立法が憲法に反していないか、逸脱していないかを判断すべき使命ではないだろうか。この国の責任ある人たちに観阿弥・世阿弥父子がシンギンした「不易流行」の言葉を贈ろう。