水に落ちた犬を叩きたくないが、嘘は良くない。
悲劇の天才を演じていた男が心情を記述した文を公表した。読んでみたがそれでも尚、不信感は拭いきれない。天才を演じた男は仮面を脱ぎ棄てたが、その虚像で稼いだ人たちは依然と沈黙したままだ。
彼が虚像を演じたのはそれなりに需要があったからだろう。大衆は幼くして天分に恵まれた青年が苦難の末に偉業を成し遂げる「イバラの道を踏み越え」た天才に感激したい欲求を持っている。その欲求に沿って彼は演じ続け嘘を重ねて来たのだろう。
しかし、それは犯罪的行為だ。全聾を装って障害者手帳と障害者年金を手にしていたとしたら、国を欺く犯罪そのものだ。ただ作曲を下請けに出すのはその業界では珍しいことではないようで、彼を擁護する声も散在するようだ。
それなら「作曲編集」とか「共同作曲」とか銘打ってゴーストライター氏の名も併記すべきだっただろう。それが創作者としての良識ではないだろうか。
だが長期取材を敢行しても彼の嘘を見抜けず、それをテレビで放映した関係者の真贋を見抜く眼力のなさには驚く。演奏時間80分に及ぶ作品をものにする作曲家がどれほど持続する創作時間を必要とするか、取材者たちには解っていなかったのだろうか。
たとえば一時間のドキュメント・テレビ番組を製作するのに回すビデオ・テープがどれほどのものか、実際に制作に関与した者なら解っているはずだ。創作とは糸車で糸を紡ぐように、簡単にはいかない。逡巡したり推敲したり、ひらめきを書き留めたり、と大変な精神的な作業を必要とするものだ。
天才のまねは天才でなければ出来ないだろう。そうした意味で、彼は天才であった。しかし、その代償はあまりに大きい。これから様々な非難を浴びせられ、講演会のキャンセルや各種契約のキャンセルなとで生じる莫大な損害賠償金の請求裁判を起こされるだろう。
彼が一時的に得ていた名誉どころか、残りの生涯を天才を騙った汚名と損害賠償金の支払いの労苦にまみれて生きて行かなければならない。芸能の一部であるかのように勘違いしている政治家も多いが、天才政治家を誰にも見破られずに一生演じ続けられるならそれもアリだろうが、やはり正直に生きてゆく方が清々しいだろう。音楽界のゴーストライター騒動を他山の石として、清々しい政治家が増えることを望む。
彼が虚像を演じたのはそれなりに需要があったからだろう。大衆は幼くして天分に恵まれた青年が苦難の末に偉業を成し遂げる「イバラの道を踏み越え」た天才に感激したい欲求を持っている。その欲求に沿って彼は演じ続け嘘を重ねて来たのだろう。
しかし、それは犯罪的行為だ。全聾を装って障害者手帳と障害者年金を手にしていたとしたら、国を欺く犯罪そのものだ。ただ作曲を下請けに出すのはその業界では珍しいことではないようで、彼を擁護する声も散在するようだ。
それなら「作曲編集」とか「共同作曲」とか銘打ってゴーストライター氏の名も併記すべきだっただろう。それが創作者としての良識ではないだろうか。
だが長期取材を敢行しても彼の嘘を見抜けず、それをテレビで放映した関係者の真贋を見抜く眼力のなさには驚く。演奏時間80分に及ぶ作品をものにする作曲家がどれほど持続する創作時間を必要とするか、取材者たちには解っていなかったのだろうか。
たとえば一時間のドキュメント・テレビ番組を製作するのに回すビデオ・テープがどれほどのものか、実際に制作に関与した者なら解っているはずだ。創作とは糸車で糸を紡ぐように、簡単にはいかない。逡巡したり推敲したり、ひらめきを書き留めたり、と大変な精神的な作業を必要とするものだ。
天才のまねは天才でなければ出来ないだろう。そうした意味で、彼は天才であった。しかし、その代償はあまりに大きい。これから様々な非難を浴びせられ、講演会のキャンセルや各種契約のキャンセルなとで生じる莫大な損害賠償金の請求裁判を起こされるだろう。
彼が一時的に得ていた名誉どころか、残りの生涯を天才を騙った汚名と損害賠償金の支払いの労苦にまみれて生きて行かなければならない。芸能の一部であるかのように勘違いしている政治家も多いが、天才政治家を誰にも見破られずに一生演じ続けられるならそれもアリだろうが、やはり正直に生きてゆく方が清々しいだろう。音楽界のゴーストライター騒動を他山の石として、清々しい政治家が増えることを望む。