「素人議論の喧しい」のは健全な社会の証拠ではないのか。
読売新聞にまたしても噛み付かなければならない。いや読売新聞というよりも本日(1/21付け)一面左肩の「地球を読む」を書かれた山崎正和氏に噛み付かなければならない、というべきだろうか。
「未来を託す研究」として山崎氏は原発により排出される放射性廃棄物の放射能半減期短縮の研究に言及されている。いわゆる核廃棄物再処理の研究なのだが、その道が険しく遠いけれども支援し続けなければならないと結論を導かれている。その結論に異論はないが、その論理展開の途中で「素人議論の喧しい原発問題だが」と余計な一節を挿入している。
素人議論が喧しいのは社会が健全な証拠だ。原発に関する限り専門家と称する連中が実に好い加減な措置しか講じてきていないことが判明したから素人とされる一般国民が文句を言い出したに過ぎない。専門家と称する連中が、実は素人以下の認識で原発の安全性を議論していたのがバレたから黙っていられなくなり喧しいのだ。
山崎氏は本職が劇作家のようだが、それなら山崎氏が原発問題、なかんずく放射性廃棄物の再処理に関して一文を寄せることも「素人議論が喧しい」とする範疇に入るのではないだろうか。
同様に38面に「一気に500億円の損 夢に出る」との見出しでAIJ社長・淺川被告の囲み記事を掲載している。この国の企業年金を破綻に導いた人になぜ弁明の機会を与えているのか理解出来ない。いまだ係争中で罪人として確定したわけではないが、その罪たるや万死に値する。資金運用のプロを任じている人が単に運用を誤ったのではなく、運用損を顧客にばれないように粉飾して報告して新たな運用資金を預かって損失を膨らませた。つまり未必の故意ですらない確信犯罪だというしかない。なぜそうした人の弁明を掲載したのか、読売新聞の見解を伺いたいものだ。
それとも淺川被告は金融運用の素人ではない専門家だから別格だと考えているのだろうか。それなら政治家はどの時点から専門家といえるのか。当選したら専門の政治家で、当選しなかったら門外漢の素人ということなのだろうか。是非ともご教授して頂きたい。