なぜ殺人罪を適用しないのか。
先日、京都府下の日向市で自動車事故があった。51歳の男性を自動車で撥ねたのは事故だが、その後28歳の運転手は550mも男性を自動車に巻き込んだまま引き摺ったのは事故とは言い難い。当然のことながら、不幸にも男性は死亡した。
自動車が男性を撥ねたのは事故だろうが、550mも引き摺るのは事故ではない。最低でも未必の故意による殺人罪が適用されるべき事案ではないだろうか。一律に交通事故で裁かれるのは法の公正さを欠いているといわざるを得ないだろう。
現在福一原発事故に対して、市民により福島警察に告訴されている東電幹部と政府責任者たる菅氏と海江田氏の立件に向けて捜査が行われていると聞く。政府幹部には東電福一原発事故に関して間接的な責任は問えるものの、直接事故責任が問えるのかについては疑問がある。
しかし東電幹部には明確に事故責任がある。テレビに登場する評論家は事故当時の東電幹部に事故責任を問うのは酷だ、と極めて情緒的な発言をしていた。それなら交通事故も自動車を製造した自動車会社とそれを公道で走ることを許可した国家警察・公安委員会に責任があるというのだろうか。
事故当時の東電幹部に事故責任を問わないで誰に問うのだろうか。それは笹子トンるネ天井板崩落事故に対しても同じことがいえるだろう。当事者責任は重大であり、その任に就いた瞬間に全責任を取る覚悟がなければその地位に就くのを辞退すべきだ。
交通事故は過失によって起こりうる悲劇だが、それを最低限に止める責任は運転していた当事者にある。自動車を造った会社でもなく運転を許可した国でもない。それと全く同じことが原発事故にもいえるのではないだろうか。
ましてや東電幹部は地震発生時に押し寄せる津波の高さが最高10mではなく15mに達するとする意見書が以前に提出されていたのを無視していた。
これほど深刻な事故を起こして誰も責任が問われなければ法治国家とはいえない。まさしく放置国家状態というしかなく、京都府下で起こった「殺人事件」を交通事故だと言い切る詭弁と少しも変わらない。警察や検察、それに司法当局は被害者の声に耳を傾けなければならない。ありもしない捏造事件は平気でデッチ上げるくせに、目の前の事件には思考停止というのは著しく均衡を欠いていないだろうか。