それでも小沢氏を支持する。
週刊誌に離婚話を掲載して小沢氏に個人的な攻撃を行うマスメディアは相も変わらず懲りずに人格破壊に精出している。そうした場合ではなく、問題はこの国の「税制」のあり方の議論から社会保障のあり方や少子化対策のあり方まで、広範に民主党の掲げた理念を徹底的に破壊している「与野党修正協議」そのものの危険性に言及すべきではないだろうか。
このブログで繰り返し書いて来たことだが、最低保障年金の創設は現行制度とは根本的に異なる理念だ。現行制度は「掛け金」を掛けていない者には年金は支給しない、という「保険料」が受給する年金の多寡を決めるという「財産権」に近い制度になっている。いわば民間の年金保険制度のメニューに近い形になっている。
それに対して、民主党の提案した最低保障年金は年金が社会保障である、という国が国民生活の底辺を支えるセイフティ・ネットの理念をより強く打ち出している。
社会保障である限り、原理原則で考えるなら年金は一律であるべきだというのが本来の姿だろう。なぜなら社会保障とは社会主義の産物であり、人は等しく最低限の尊厳ある老後を送るべきとの理念に基づいて造られた制度だと思うからだ。
ただ現実には厚生年金は戦争中の戦費調達の一環として設けられた歴史を持ち、共済年金は少ない公務員給与の延払いという「恩給」として発足した歴史を持つ。それぞれ出発点は異なるが、既に半世紀以上も経った現在、新規受給者はそうした歴史に関わりなく年金を受給している。そうであるなら殊更発足時の歴史的要請をそのまま維持することが正しいのか、今一度現代の年金のあり方を根本に遡って議論すべきではないだろうか。
社会保障というなら、公的年金は一律であるべきだ。社会保障本来の姿は医療保険にしっかりと現れている。つまり保険料を支払う場合は「応能負担」で支払う能力のある高額所得者はより多く支払うが、給付を受ける際は一律で保険料の多寡に応じて医療行為に格差はない。年金もかくあるべきが原則だ。
しかし自・公は現行制度の維持を頑なに民主党に迫り、野田民主党は2009マニフェストに掲げた「最低保障年金」の理念を放棄するように迫られている。
なぜ調整協議で最高年金額が問題にならないのだろうか。つまり社会保障としての年金は何処までが「社会保障」として適切なのかという議論だ。現役時代の50%の年収を保障するというのなら、それらはもはや「社会保障」ではなく、年金という名を借りた「老人手当ばら撒き」でしかない。年間300万円を超える年金が老人世帯に必要だろうか。派遣社員や非正規社員で年収300万円を確保するのは困難だ。老人世帯には既に子育てはないし、子供たちの教育費も必要ないだろう。
しかし若い世代には様々な未来へのコストがのしかかっている。それを社会が一部でも背負って助けなければ少子化は進行し、この国の未来は失われて行くだろう。若者こそ国家は支援すべきだ。既に現役を終えた老人に高額な年金を保障する必要はない。ただし、最低限文化的にして尊厳ある暮らしが送れるだけの年金を国家として保障しなければならない。
高額年金は「黙って貰う」が、保険料や掛け金を20年間掛けなかった無年金者は個人の問題だ、と突き放すことが正しいのか、与野党は真摯に議論すべきだ。