社会保障改革の年金は抜本的な制度改革を。

  社会保障とは何かを、まず考えなければならない。社会保障とはすべての国民が文化的で最低限の暮らしを営む権利(日本国憲法第25条)を補償するセイフティーネットであるはずだ。それが年金に関してだけ「お前は保険料も掛け金も支払っていないからナシだ。俺は多くの保険料を支払って来たから毎月30万円も年金を受け取る権利がある。これは給付財産権だ」というのが現在の年金制度だ。


 


 それでは、他の社会保障はどうだろうか。例えば医療保険は負担は「応能負担」で、負担できる高額所得の者は多く負担するが、給付に於いては均一とする平等原則が貫かれている。年金制度とは全く別物の考え方だ。しかし社会保障とは元々社会主義の産物だ。資本主義社会は極端な格差社会だっため、それを産業革命期のイギリスで見たマルクスは「資本論」を書いた。


 


 この国の政治評論家に直接支給はばら撒きだ、と批判する人たちがいる。たとえば少子化対策といえば乳・幼児委託所の拡充を真っ先に挙げる。しかし、休職しても復職できるシステムを作り、少子化対策として乳児一人当たり15万円程度の「手当」を直接支給すれば母親が面倒を見ることが可能だろう。その代わり、制度事業としての幼稚園の補助金や保育園の措置費を全廃する。乳・幼児を施設に預けたい人は、園へのすべての補助金や措置費が全廃されるため一人当たり10万円程度の高額な費用を支払って預ければ良い。自分で育てようと、何処へ預けようと自由だ。


 


 そうすれば、保育園に入れた者は高額な乳・幼児補助の恩恵に浴すが、待機乳・幼児を抱える親は補助制度の恩恵とは無縁という格差が生じている妙な現実はなくなる。直接支給はばら撒きだ、と批判する評論家は官僚たちの既得利権の擁護者だ。補助金や措置費でがんじがらめに官僚たちが現場を縛っている。自由な発想による子育てを園が行えないのが正しいのだろうか。働く者の免許資格を区分けする必要が何処にあるのだろうか。バカバカしい幼稚園と保育園の縄張り争いの根本的な終息は制度そのものをなくせば良い。後は不評な園に親が乳・幼児を預けなければ良いだけだ。


 


 そうした制度事業は幾らでもある。65歳を過ぎた年金受給年齢に達した者に生活保護費は必要ないはずだ。「文化的で最低限の」暮らしを営む権利を年金は保障しているはずだからだ。しかし現実は年金だけでは最低限の暮らしすら営めない国民が大勢いる。国民年金の平均支給額が4万2千円程度で、どうやって暮らせというのだろうか。しかも医療負担もかかって来る。それなら生活保護を受けた方がより「文化的で最低限」の暮らしが営める、というのなら誰が国民年金を掛けるだろうか。全くバカにした話だ。


 


 各種制度と整合性を取らなければ、何のための制度か解らなくなる。現行の年金制度は現役時代に高額な給与を受給していた者の高額年金を保証するための制度に過ぎない。それは社会保障とはいわない。年金に名を借りた高給官僚や公務員たちの互助会というべきだろう。夫婦が共働きしていた公務員の年金がいかに高額か、国民は知っているのだろうか。高級官僚たちの年金がいかに高額か、国民は知っているのだろうか。現役時代の格差を年金にも持ち込むことがそんなに大事なのだろうか。こんな不平等な年金は一度すべてなくして、それから国民注視の前で年金制度の根本原理から議論すべきだ。私は一律支給を支持し、格差を設けてもそれは一律支給額の1.5倍を超えない範囲とすれば、年金会計は今ほど必要なくなる。


 


 子供手当はばら撒きだ、と少子化対策を批判した評論家たちは高額年金の存在を是認する。それは彼らも近い将来高額年金を受けることが予想されているからだ。年金制度の議論には年収の各階層から委員を選ぶべきだ。大手マスコミに登場する評論家も各年収の代表者から選ぶべきだ。高額年収者による年金制度の議論では決して抜本的に改革は出来ない。



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