狂気じみた「推認」判決は小沢氏を法廷闘争に縛り付けるためのものだった。

  10/6に始まった小沢氏の公判が「無罪」で決着しても、元秘書が一審で有罪判決を受けて控訴審を争っていることを盾に、検察役の弁護士たちは小沢氏を控訴するという。つまり小沢氏の裁判は一審だけでは決して終わらせないために元秘書たちに「有罪判決」を何が何でも言い渡す必要があったというのだ。


 


 これが民主主義国家の司法当局が企む「事実」なのだ。テレビの報道番組には元検事の弁護士たち、「ヤメ検」が引っ張りだこで小沢氏の冒頭陳述を批判している。それに対して法曹界や学者たちは沈黙したままだ。この国の闇がいかに深いか、国民はすべての大マスコミが同じ方向で一人の政治家を「潰そう」としていることから察知しなければならない。かつて戦前の大本営発表に対して大マスコミはどのように扱い、国民世論はどのように変化していったか、歴史に学ばなければならない。


 


 推認に次ぐ推認で「有罪判決」が言い渡せるのなら、国民は誰でも明日にも犯罪者とされることになる。それが国会議員の政治活動を封じるために用いられたとしたら、それこそ小沢氏が発した「民主主義の否定」ではないだろうか。


 すると「政治家はそんなに偉いのか」という評論家が現われた。何ともバカな評論家が大きな顔をして大マスコミを席巻しているものだ。国民によって選ばれた政治家が一介の凡夫だと評するのなら、国民は踏み潰しても構わない存在でしかないことになる。自分が巨大な存在で象だと勘違いしている評論家にとって、国民は蟻ほどの存在だといいたいのだろう。政治家は高々蟻の代表でしかないから踏み潰せばそれまでだと思っているのだろう。


 


 国民から選ばれた政治家はたとえバカでも凡夫でも国権の最高機関たる国会を構成する国民の代表だ。よって司法権よりも行政権よりも上位とされているのだ。その国会議員をバカにしてはならない、たとえ本物のバカであっても。


 だから国会議員たるものは矜持を持って立法の府の住人たる誇りを持たなければならない。摩訶不思議な団体により「強制起訴」された仲間の国会議員を貶める行為は断じて慎まなければならない。それよりも「推認」だらけの判決を下した裁判官を国会に招致して、その判決の法的根拠を質す方が先ではないだろうか。この国の国民は誰であろうと「法と証拠」によって裁かれるべきで、「疑わしきは被告人の利益」と高校の社会科の教科書に書かれているのが事実であることを示す義務が国会議員にはある。



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